第3話

 神野さんと初めて出会ったのは、営業部に配属されて間もない頃。

 水浸しになっていた彼女を、たまたま助けた事がきっかけだった。


 その頃の私は、なかなか契約が取れず怒鳴られる日々を繰り返していた。

 

 ――契約が取れるまで、帰ってくるんじゃねぇ!


 そう言われ、出社と同時に外に追い出された私は、炎天下の中をとぼとぼと歩き続けていた。


 たどり着いたのは、一軒家がズラリと並ぶ住宅街。


「はぁ……これを全部周るのか……」


 いわゆる飛び込み営業だ。

 四方を見渡し、無数に並ぶ家の数に気が重たくなった。


 インターホンを鳴らすも、平日ということもあり出ない。出たとしても会うことすら難しい。当然に冷たくあしらわれる。

 一軒周るごとに、精神が少しずつすり減っていく。


 そして遂に最後の一画。

 既に諦めモードである。


 インターホンを鳴らそうと指をかけると、突如、家の中から慌てたような声が聞こえてきた。


『わわわっ! どうしよ! どうしよ!』


 何やら緊急事態らしい。


「あの! 近くを通りかかった者ですが、どうされましたか!? 大丈夫ですか!?」

『水が!! 止まらないの!!』


 玄関のドア越しでも、水の噴き出す音が聞こえている。ドアノブに手をかけると、鍵が掛けられていなかったようですんなりと開いた。

 

「すいません、開けますね! ……ってうわわっ!」


 玄関の扉を開けると、水が目の前まで流れてきていた。

 廊下の奥では、ビショビショになっている女性が一人。それが神野さんだった。

 今も尚、噴水の如く噴き出す水しぶきを食い止めようと、両手で必死に配管を抑えている。


 どうやら、家具か何かを移動している際に、うっかり蛇口にぶつけて折ってしまったらしい。


「ちょっと失礼します!」


 これはマズイと思い、私は直ぐに靴を脱ぎ、中へ上らせてもらった。

 すぐに足の裏がぐしょぐしょに濡れる感触に包まれるが気にしない。


「後ろ、通りますね」


 急ぎ足でびしょ濡れの彼女を通り越し、その奥にある水落し栓をすぐに閉めた。


 水落し栓を閉めることで水は流れなくなる。もし見当たらない場合は、元栓から噴き出している箇所へと繋がる配管の途中にある蛇口を閉めることで、そこから先の部分だけ、水の流れを止めることが出来る。


 狙い通り、大量に噴き出していた水は少しずつ勢いを失い、ようやく止まった。


 取り敢えずはこれで何とかなったかな……。


「災難でしたね、大丈夫でしたか?」

「はい、助けて頂いてありがとうございます! それより、あなたの服が……」


 気づけば、スーツやらストッキングがビチャビチャに濡れている。

 今更になって水を吸い、色の濃くなったスーツがズシリと重たく感じられた。


 これではもう、今日の飛び込み営業は無理そうだ。午後は会社を休むしかない。


 ……でもまぁ、どのみち契約は取れないし怒鳴られるだけだし、別にいいか。


 気づけば前髪からも水が滴り落ちている。

 思っていたよりも大量に水を被っていたらしい。

 通りで清々しい気分だと思った。


「外は暑かったので、むしろ丁度良かったですよ」


 そう言って神野さんを見ると、私以上にずぶ濡れであった。

 大の大人が二人して朝っぱらから濡れているのが何だかおかしくて、つい笑ってしまった。

 つられて神野さんも笑っていた。


 そのまま帰ろうとしたが強引に着替えを渡され、服が乾くまで神野さんの家にお邪魔する事になった。


 神野さんとは年齢も近く、同性ということもあり直ぐに打ち解けた。

 雑談の流れから、私はついでだからと新しい蛇口を取り付けてあげることにした。


 内装業だった父の影響もあり、DIYは昔から得意分野だ。それに久々のDIYという事もあり、気分転換にもなってとても楽しかった。


 神野さんも喜んでくれていたので大満足である。

 目を輝かせ、どうやったのかと興味津々に聞いてくる。

 得意気に答えている内に、次第にDIYへと話題は広がっていった。


 ちなみに、これがきっかけで彼女もDIYの魅力にハマることになる。


 ――翌日。


「昨日はいきなり早退してしまい、すみませんでした!!」


 いつもの3倍は怒鳴られるだろうと覚悟して出社した私だったが……。


「いやー橘君、大したもんだよ! 昨日は終日外回りって事で、午後も出勤扱いにしといたからね」


 怒鳴られるどころか部長の強面の顔が緩んでいる。

 それどころか、手を揉み近づいて来ては「さすが橘君。我が社のエースだね」なんて言ってくる始末だった。


 部長の猫撫で声を聞いた時、ちょっと気持ち悪いなと思ったのは内緒だ。


 これはこれで、社内をざわつかせることになった。


「あ……あの、何がなんだか……」

「またまたぁ~ご謙遜を! 昨日、神野さんという方からご連絡があってね、橘君、そんな凄い人とお知り合いなら最初からそう言ってよ、このこのー」


 部長が軽く肘で小突いた後、肩を揉んでくる。

 デカい図体をしているので、小さい体の私はそれだけで全身がガクンガクンと揺れる。


 あと……できれば触らないでほしい。


 部長の話によると、昨日、堂前不動産に一本の電話がかかってきたそうだ。

 それはこの辺一帯の大地主からであり、その不動産の管理や売買を全て私に一任するという内容だった。


 その電話の主が、まさか昨日出会ったばかりの神野さんだと言うのだから驚きである。


 確かに昨日、仕事の愚痴をチラッとこぼしはしたが、まさかこんな事になるとは……。


 それ以来、私のノルマは当然のように毎月達成されるようになった。


♢♦♢


 そんな事を思い返していると、ポケットに入れていたスマホから着信が鳴った。

 いそいそと取り出して見てみれば、画面には『神野かみのさん』の文字が表示されていた。

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