第五章 もうひとつの……。

第22話 私の夏休み

「――博美……。いえ、また大崎さんに戻ってしまったのね……」


 私、【谷川美和】は未だにさっきの出来事が信じられない。

 やっと私の想いが伝わって、博美が振り向いてくれたと思ったのに……。

 それがまた突然、以前のよそよそしい博美に戻ってしまうなんて……。


『きっと、あの男の悪評を流していたのが博美にバレたから、嫌われたのよね……』


 私は決定的な瞬間を目撃してしまった。私の大事な博美の唇を、強引に奪ったあの男が許せない。しかも、油断しているところを不意打ちのように。

 私が男だったら、決闘を申し込んでやったのに……。

 いくら久山が貧弱そうだといっても一応は男。私が力で勝る自信はない。

 だから、間接的にあの男を遠ざけようとしたけど、やり方があまりにも卑怯すぎたみたい。ああ、自己嫌悪……。

 昨日強引にキスを迫ったことを謝ろうと、私は自転車で博美を追いかけた。

 そうしたら、あの男がまた博美にちょっかいを出しているのが目に入って、思わず私は頭に血が上ってしまった。

 あの男から博美を守らなきゃ。その一心で博美をかばったのに……なんであの男を選ぶの、博美……。


『もう、わけがわかんないわよ……。でも自業自得よね……』


 三十分前の出来事に私は激しく落ち込む。夏休みも始まったっていうのに……。

 せっかく博美といっぱい思い出を作ろうと思っていたのに、計画は全部台無し。

 私は家族旅行を断って、博美と過ごす時間を選んだのに。

 そして、少しでも長く二人で居ようと、両親に旅行を早めてもらったのに。

 だからこの広い家は、今日から私一人きり。

 もちろん、お金は充分に置いていってくれたから生活には困らない。

 でも博美のいないこの空虚な時間は、いくらお金があっても埋められない……。


「そうだ、ヒロミの餌……」


 餌やりついでに鳥かごに手を入れて、私は文鳥のヒロミを指に乗せて取り出す。

 私の大好きな人の名前を付けたこの子は、三ヵ月前に部屋に突然迷い込んできた。警察には届けたけど、一向に飼い主が見つかる気配がないから私が飼い続けている。

 雛から育てたわけでもないのに、私によく懐いているヒロミ。

 ローテーブルの上で餌をついばむヒロミに、私は話しかける。


「ヒロミは可愛くていい子ね」


 その名前を口に出したら、急に切なさがこみ上げてきた……。

 ヒロミは文鳥であって博美なんかじゃない。わかり切っているのに、せめて博美にし損なったキスだけでも果たそうと、私はヒロミのくちばしに唇を寄せる。

 そしてその先端に唇が触れた途端、ドサッという音と共に私の体に異変が起きた。


 ――ちょっとこれ、どうなってるの?


 私の目の前で、私の体がローテーブルに突っ伏している。

 ひょっとして……私の魂がヒロミに乗り移った……!?


『ど、どうしよう……。私はどうすれば……』


 キスをして乗り移ったのなら、もう一度キスをしてみたら……。

 慌てて私は自分の唇をくちばしで突ついてみる。

 すると私の体は、無事に元の体へと戻った。


「あぁ、びっくりした……。でも、すごい! そうだ、それなら……」


 ――その瞬間、私の頭の中に悪魔の計画が浮かんでしまった……。




 私はホームセキュリティをオフにすると、庭に合鍵を隠す。部屋の窓は全開に。

 長引くかもしれないから、ちゃんとおトイレは済ませておく。

 ヒロミを指に乗せて、ベッドに仰向けに横たわった私。


『これで準備はできたわね……』


 さっきはヒロミにキスをしたら、私の魂が乗り移った。もしも私の推測通りなら、ヒロミになった体で別な人にキスをすれば、今度はその人に乗り移れるはず。

 でもそんなことをすれば、もうこの体には戻れなくなってしまうかもしれない。

 そう考えたら、オシッコが漏れそうなほど緊張してきた……。


『でもやらなきゃ……。作戦を成功させて、また博美との時間を取り戻すのよ』


 そしていよいよ運命の一瞬。

 私は文鳥のヒロミと見つめ合うと、そのくちばしにそっと口づけをした……。




 計画を実行に移すために文鳥になった私が上空から街を見下ろすと、眼下の公園で語り合う博美と久山を見つけた。

 私はすぐ近くの木に止まって、二人の会話に耳を傾ける。


「むぅ……。じゃあ、一緒に海に行ってくれるなら、あたしがマイクロビキニを着て和博のこと悩殺してあげるって言ったらどう?」

『えっ、博美のマイクロビキニ!? ああ、見てみたい……博美がマイクロビキニを着て、悩殺ポーズをするところ……』


 たまらず口から独り言が漏れてしまう私。でも今は文鳥だから、つぶやいてみても鳥のさえずりにしかならない。

 私は二人の会話に聞き耳を立てながら、タイミングを今か今かと計る。


「……山で遭難した二人がたまたま見つけた山小屋で、びしょ濡れの体を裸になって温め合うの……」

『博美と一緒に入ったお風呂、思い出すわね。温かかったな、博美の素肌……』


 思い出に浸りながら私が二人の会話を聞いていると、嫌な気配が漂い出す。

 そして突然、私には耐え難い事件が発生した。


「ねぇ、和博。キスしよっか」

「えっ? 突然何を言い出すんだよ」

「だってほら……その、確かめておいた方がいいかと思って……」

『やめて、私の前でキスなんてしないで。しかも、久山を相手になんて!』


 いくら私が叫んでも鳥の鳴き声。接近する二人の唇を止めることなんてできない。

 そして私の目の前で、二人の唇が触れ合った……。


「んぅっ……」


 私は脱力のあまり、止まっている木から落ちそうになる。

 今回は不意打ちでもなんでもない、完全に同意の上のキス。

 絡み合う舌、ウットリとしている二人の目。こんなもの、私に見せないで……。

 そう、嫌なら見なきゃいい。だけどこれで、計画を実行する踏ん切りがついた。


「……んぁっ……んはぁぅ……和博……んちゅっ……」


 これ以上、二人のキスなんて見ていられない。

 私は木の枝を離れて、久山の肩に向かって飛び立った。

 難なく着地。肩に止まった私に気づいて、久山がこちらに振り向く。

 そして私をジッと見つめながら、注意深く顔を寄せてきた。


 ――今だ!


 私は久山の唇めがけて、くちばしを突き出す。

 今は文鳥の私だけど、この男とキスをするのは死んでも嫌。だけどそうしなきゃ、博美と幸せになれないんだから我慢するしかない。

 いよいよ触れる、私のくちばしと、久山の唇。

 その瞬間、私の体は予想通りに久山へと乗り移った。


『まだよ、大事なのはこの後……』


 私は乗り移った久山の手で、呆気にとられたまま肩に止まっているヒロミを素早く手で掴んだ。

 当然、私の手の中で激しく暴れ出す、文鳥のヒロミ。

 でも逃がすわけにいかない、絶対に逃がさない。もしここでキスをし返されたら、また元に戻ってしまうに違いないから……。


『上手くいったわ。後は家に連れ帰って、鳥かごに閉じ込めるだけ……』


 文鳥になった久山を鳥かごに閉じ込めれば、邪魔者は居なくなる。

 あとは、このまま久山に成りすましてもいいし、家で眠っている自分にキスをして戻ってもいい。ひとまず、作戦は大成功。

 私が安堵の溜息をつくと、突然頭の中に声が響いた。


『お願いだから、放してよ。君は美和だよね? どこかで見覚えのある文鳥だなぁと思ったんだよ』

『え? なにこれ。ひょっとして、あいつの声が聞こえてる?』

『知らなかった? 体を乗り移らせてる者同士は、こうやって話ができるんだよ』


 そんなことを私が知ってるはずがない。けれど久山はなぜか場慣れした雰囲気で、私に話しかけ続けてきた。

 不思議に感じた私は、文鳥に向かって心で念じるように話しかけてみた。


『あなたこそ、なんでそんなこと知ってるのよ』

『そりゃぁ僕は、体を乗り移すのは初めてじゃないからね』

「なんですって!?」


 私は思わず驚きの声をあげてしまった。

 キスの余韻に浸ってぼんやりしていた博美も、私の声で正気を取り戻す。すると、その手に文鳥を掴んでいることに気が付いて、その目を明るく輝かせた。


「ねぇ、ねぇ、どうしたの、この文鳥。ひょっとして和博が捕まえたの? それとも手品? かっわいいー」

「あ、え、ええ。肩に止まったんで、捕まえたの」

「ねぇ、ねぇ、ねぇ、飼い主が見つかるまで、あたしがこの文鳥飼ってもいいかな? 家に鳥かごもあったはずだし」


 それはまずい。この文鳥は、絶対に逃げられないように閉じ込めておかないと。

 でも、潤んだ瞳で見つめる博美のお願いを、私が断れるはずなんてなかった……。


「わかった。その代わり、約束して? 絶対にカゴから出さないって」

「うん。でもどうして?」

「ほ、ほら、もしも逃げ出しちゃったら、野生は危険がいっぱいでしょ? 猫にでも襲われたらかわいそうじゃない」

「確かにそうだね。さっすが和博、気が回るね」

『なるほど、そうきたか』


 まずは一つ目の約束を取りつけた。きっと博美なら約束は守ってくれるはず。

 久山の相槌に少しイラつきながら、私は大事な約束をもう一つ博美にお願いする。


「あと、もう一つ。この鳥とは、絶対にキスしないようにね」

「え、なんで?」

「んーと、その、鳥は寄生虫とか病気とか持ってるかもしれないからね」

「おー、そっかぁ。和博はやっぱり物知りだね」


 私が言ったことを褒めてもらったのに、その手柄はこの男のもの。腹立たしいこの男の評価を、自分が高めてしまったことがとっても空しい。

 少し落ち込みがちな私に、久山の声がさらに追い打ちをかける。


『上手い言い訳を考えるもんだね。さすが生徒会長』

『お願いだから黙ってて』

『黙るわけないでしょ、こんな体にされてるんだから。早く戻してよ』


 頭の中に呼び掛けるようなこの声は、きっと耳を塞いでも聞こえてくるだろう。

 とりあえず私は久山の声を聞き流して、博美の言葉に耳を傾けた。


「じゃぁ和博、家に行こう! その文鳥、逃がしたらダメだよ?」

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