第13話 見覚えのある風景
「――あの男……許さない、許さない、許さない、許さない……」
谷川さんは、博美の姿の僕に腕を絡めたまま、自転車置き場まで連れてきた。
その形相は、身の毛もよだつほど……。
感情を表に出さない谷川さんがこれほど顔をしかめるなんて、どうしてこんなに【久山和博】は怒りを買ったんだ?
あの日の夜なんて、僕のことを想いながら一人でエッチなことしてたのに……。
『これはあれかな……ヤキモチってやつ?』
自分の想い人が、他の女とキスをしていたことを妬んだとしか思えない。
キスをしてきたのは博美の方。でも傍からは、【久山和博】が【大崎博美】の唇を強引に奪ったようにしか見えないはず。
そんな場面に遭遇したから、きっと谷川さんが不機嫌になったに違いない。
ああ、なんてことをしてくれたんだよ、博美。誤解されちゃったじゃないか。
僕は、博美の浅はかな行動を呪った……。
「えーっと。あたし、午後の授業に戻らないと……」
博美になりきって、なんとか谷川さんの腕から逃れようとする僕。
絡んだ腕に触れる谷川さんの胸の感触は気持ちいいけど、僕に向かってグサグサと突き刺さる彼女の視線がなんだか怖い。
そもそも、どうして僕をこんな
ひょっとしてヤキモチの怒りの矛先が、こっちに向いてるんじゃ……。
今はこの場から逃げ出したいのに、谷川さんは僕の腕をちっとも放してくれない。
「大崎さん、私は気分が悪いから、このまま早退することにするわ」
「あ、そうなんだ、お大事にね。で……あたし、教室に戻りたいんだけど……」
「ねぇ、大崎さんもご一緒にいかが?」
「ご一緒……って?」
「このまま午後の授業をサボって、私の家に遊びにこない?」
えっ? 何この展開。もちろん、自宅へのお招きは嬉しいんだけど……。
谷川さんはまだ腕を絡めたまま。だけどその表情は妙ににこやかで、逆に不気味。このお誘いの裏側には、絶対なにかあるに違いない。
『ひょっとして、さっきのキスの現場を見て恋敵だと思われてる? このお誘いは、女同士で決着をつけましょうってこと……?』
谷川さんの様子をうかがうと、返事を待つ彼女の目がギラギラと輝いている。
それに気分が昂っているのか、頬が少し紅潮して鼻息も荒い感じ。
そのただならぬ谷川さんの興奮ぶりに、僕はブルっと身震いした。
やっぱりこれは、恋の決着をつけようと威嚇してきてるんだ……。
『でも待てよ、これはチャンスじゃないか? 別に博美と僕はなんでもないんだし、女同士の方が誤解を解きやすいかも……』
それに誤解さえ解けば、きっと同性の方が親密になれるに違いない。そうすれば、気を許した谷川さんの意外な一面が見られるかも……。
だったらここは、谷川さんのお誘いに乗る一手。
僕もニッコリと微笑み返して、谷川さんの誘いを快く受諾する。
「あたしで良ければ喜んで。ぜひ、遊びに行かせてもらうね」
「えっ!? 本当に遊びに来てくれるの?」
谷川さんは僕の言葉が意外だったのか、驚いた表情を浮かべた。
ふふん、威嚇すれば和博から手を引くと思ったんだろうけど、そうはいかない。
この状況を逆手に取って、谷川さんと親密になってやるんだから!
おっといけない……なんだか、心の中まで女性化してきちゃったかも……。
僕の右隣には、通学用の自転車を押しながら下校する谷川さん。
横顔にウットリ見とれながらも、女同士の戦いがいつ勃発するかもわからないから警戒は怠れない。
きっと今の彼女は、恋敵への対抗心をメラメラと燃やしているはずだから……。
そんな谷川さんが押す自転車のサドルが目に入って、僕は感慨にふける。
『そういえば、アレになってたこともあったな……』
なんといっても印象深いのは、谷川さんのお尻が顔面に覆い被さって、グリグリと押し付けられた時のこと。あの感触を、僕はきっと一生忘れない……。
だけど……自分から行動を起こせないのは辛かった。
いくらエッチなシーンに遭遇したり、気持ちいい感触を味わえたりするとしても、あの無機物生活にはもう戻りたくない、絶対にだ。
「家が遠いのに、付き合わせてしまってごめんなさいね、大崎さん」
「大丈夫、大丈夫。気にしないで」
谷川さんの家までの道のりは、ようやく半分ぐらい。
自転車を押しながら、ダラダラ続く坂を上る谷川さんは少し辛そう。そんな彼女を見ていられなかった僕は、谷川さんから少し強引に自転車を奪い取った。
こういうときは男の出番! 体は女だけど……。
でもこんな行動に出られるのも、きっと博美がスポーツ万能なおかげ。今の僕は、嘘みたいに体が軽い。
「代わるよ。疲れたでしょ?」
「い、いいわよ。大崎さんに、そんなことをしてもらうわけにはいかないわ」
僕が取り上げた自転車を、慌てて取り返そうとする谷川さん。
恋敵に借りは作りたくないってことか?
でも僕は、体を割り込ませてガッシリとハンドルを握り締める。こうすれば彼女もこれ以上無理に取り戻そうとはしないだろう……。
「遠慮しなくていいよ、谷川さん」
「そう……じゃぁ、お願いするわね」
自転車を預けた谷川さんは、僕に寄り添いながら腕を絡めてきた。しかも今度は、胸の膨らみを思いっきり僕の左腕に押し付けるようにして……。
腕を組みながら下校する、女子高生の二人組。
女の子同士だから、ありがちな光景に映るかもしれない。だけどこの状況は、僕が逃げ出せないように身柄を拘束しているとしか思えない。
そんなことしなくても、僕は逃げないのに……。
その時、スカートのポケットに入れておいた、博美のスマホが震えた。
――ブブブ。
マナーモードにしていた着信のバイブは、博美からのメッセージ受信。
僕はポケットからスマホを取り出して、内容を確認する。
『授業はどうしたの? ひょっとして谷川さんと一緒なの? 彼女には気をつけて』
なんだよ、この物騒なメッセージは。タイミング良すぎだろ……。
『気をつけて』って、どういう意味だ……? 女同士の争いを予感しての警告?
だけどこれは覚悟の上。虎穴に入らずんば虎子を得ず!
今は谷川さんとの二人きりの時間を、博美に邪魔されたくない。
それに、和博からメッセージが届いたなんて知れたら、谷川さんの怒りが増大するかもしれない。今はブロックしておいた方が良さそうだ。
そしてやっぱり、谷川さんはメッセージの相手を尋ねてきた。
「誰から?」
「ん、友達からー」
まぁ、嘘はついてない……。
さらにもう少し歩いて、ようやく谷川さんの家に到着。ここへは何度も来たけど、サドルだったりカバンの中だったりしたから、外観をちゃんと見るのは久しぶり。
うーん、やっぱり大きな家だ……。
ギィィと軋んだ音を立てて玄関の扉を開いた谷川さんは、僕を家へと招き入れた。
「ようこそ。私はお茶を淹れてくるから、大崎さんは先にお部屋に行っててもらえるかしら? 私の部屋の場所は覚えてる?」
「う、うん、大丈夫」
今は博美だと思っているからなのか、僕の扱いがぞんざいな感じ。
僕が勉強を教えにきた時は、「あんまりあっちこっち見ないでちょうだいね」とか「部屋の物には絶対触れないでよ?」と、照れを隠しながら案内されたのに……。
僕は階段を上って、奥の突き当りにある谷川さんの部屋のドアを押し開く。するとドアを開け切らないうちから、濃縮された彼女の香りが鼻腔をくすぐった。
『ああ……何度嗅いでも、やっぱりいい匂い……』
奥にはフカフカのベッド、白を基調としたお揃いの家具たち。窓の横には真っ白い文鳥がいて、例の掃除機や本棚の上のぬいぐるみもあの時のまま。
僕はテーブルの手前側にちょこんと正座すると、そのまま谷川さんを待った……。
「せっかく大崎さんが遊びに来てくれたから、とっておきのお紅茶を淹れてきたの」
部屋に入ってきた谷川さんは、不自然に満面の笑みを浮かべながらローテーブルに二人分の紅茶とクッキーを置く。
だから……その、普段の学校じゃ絶対見せない笑顔が怖いんだってば。
この紅茶には、口を付けない方がいいかもしれない……。
『あれ? 横並び?』
どうしてティーカップを二つ並べて置いたんだろう……と不思議に思った直後に、谷川さんが僕の右隣にぺたりと座った。
そして体を擦り寄せるように、谷川さんは僕の右腕にしな垂れ掛かる。
『早くも威圧してきたか……』
女の子同士の接し方なんて僕にはわからないけど、男同士だとこの距離はない。
谷川さんと密着できるのは嬉しいけど、威圧感に耐え切れなかった僕はテーブルの対面へと素早く移動した。
「どうして逃げるの?」
谷川さんは首を傾げて、不満そうな表情を浮かべた。
さすがに逃げ方が露骨すぎたかな……?
谷川さんの怒りを買ったら大変と、僕は苦し紛れの言い訳でごまかす。
「ほら、結構歩いたから汗かいちゃって。汗臭かったら悪いかなって思ったからさ」
僕は頭を掻きながら、谷川さんの反応をうかがう。
すると、笑みを取り戻した谷川さんが、パンと音を立てて手のひらを合わせた。
「そうだ! それなら大崎さん、お風呂に入る?」
「え、いや、そこまでは……」
「だって、汗かいたなら気持ち悪いでしょ? 遠慮することはないわよ」
うーん……女子ってこんなとき、よその家でも気軽にお風呂を借りるのかな……?
いくら考えたところで、一般的な女の子の行動が僕にわかるわけがない。だけど、汗をかいたと言ってしまった手前、断りにくいのも確か。
それに谷川さんが普段使っているお風呂にも興味が湧いたので、僕はその申し出を受けることにした。
「えっと、それじゃぁ、お借りしようかな……?」
「来て、こっちよ」
僕の答えを待ち構えていたように、すかさず反応を示す谷川さん。
軽やかに立ち上がった谷川さんは、僕に腕を絡めてエスコートを始めた……。
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