第二章 早く人間になりた~い!
第6話 また無料にしてくれませんか?
『ほわぁ……昨夜の谷川さんの声はエロかったなぁ……』
フワリと体が浮き上がる感覚で目覚めた僕はまだ眠い。
昨夜の生々しい声のせいで、ちっとも寝付けなかったせいだ。
ああ、今でも頭の中で、彼女のいやらしい声が鳴り響いている気がする……。
「ハクちゃん、行ってきまーす」
谷川さんの元気な声と共に、バタンと部屋のドアの閉まる音が響く。
視界が真っ暗闇なのは、きっと夕べに引き続き今もまだカバンの中だからだろう。ゆさゆさと揺られるカバンの中で、僕は短かった極楽生活との別れを惜しんだ。
『ああ……谷川さんの部屋とも、これでお別れか……』
外の様子は全然見えない。けれども体の揺れ具合や、聞こえてくる声や音で大体の様子は見当がつく。
朝食を食べながら交わされている家族の会話は、テレビドラマのような
朝食を抜いて、ドタバタと家を飛び出す僕とは大違いだ。
「それでは、行ってまいります」
「ああ、行っておいで」
「気をつけるんですよ、美和」
「わかってます、お母様」
出掛ける前の上品な挨拶。澄ました感じのキリリとした声は、すでにいつも学校で見せている谷川さんの雰囲気だ。
だけど、彼女がクールに振る舞えば振る舞うほど、昨夜の淫らな声とのギャップに僕は激しく感情が
僕の体が、再びフワリと浮き上がる。きっとカバンが持ち上げられたんだろう。
真っ暗闇の中にいる僕は、音と動きを頼りに外の世界を想像するしかない。
――ギギィという重厚で大きな軋みは、きっと玄関のドアが開いた音。
――ドスっというこの衝撃は、カバンが自転車のカゴに放り込まれた感じ。
――さらにガタンという音が鳴って、自転車のスタンドが解除される。
そして走り出した自転車。谷川さんの家から学校までは十五分ぐらいだ。
この体になる前、僕は自転車で通学する谷川さんと何度かすれ違ったことがある。意外と古いタイプのママチャリに乗っていたのが印象的だった。
きっと今乗っているのも、そのママチャリに違いない。
「ふふふ~ん……♪」
微かに聞こえる鼻歌……谷川さんでもそんなことをするんだ……。
他に聞こえるのは、学生同士の会話の声。賑やかさがだんだんと増しているのは、学校が近付いているからだろう。
やがて甲高いブレーキの音が鳴って、停止した自転車。さらに、ガタンという音と振動で、スタンドが立てられたのを察知する。
どうやら学校に到着したらしい。僕の体がフワリと浮いた。
「あら、降ってきたわね。これじゃ、帰る頃にはビシャビシャかも……。そうだ」
谷川さんの独り言が終わった途端、真っ暗だったカバンの中に光が射し込んだ。
そして僕の体が掴み上げられて、体内から少女マンガが取り出される……。
『えっ? 僕の体って、少女マンガじゃなかったっけ……?』
少女マンガがカバンに戻される様子が、僕の視界に映し出される。けれども、僕の体は谷川さんに掴まれたまま。
続けて彼女はワシャワシャと音を立てながら、僕の体を広げ始めた。
『そうか、寝てる間に僕の意識は、レジ袋の方に移ったのか……』
谷川さんはパンパンと扇ぐように空気を送り込んで、レジ袋の僕を膨らませると、クルリと裏返して自転車のサドルに被せた。
さらに手提げ部分をキュッと結わえて、風に飛ばされないように固定する。
「これで、いいかしらね……」
雨避けのために、自転車のサドルに被せられたレジ袋の僕。そんな僕を置き去りにして、自転車に鍵をかけた谷川さんは小走りで遠ざかっていく。
僕は再び、彼女の帰りを待ち続ける忠実な下僕になった……。
『行っちゃったか……』
さて、レジ袋になってしまった今の僕。冷静に考えたらこれは危機的状況だ。
僕は頭の中で、この先のことを軽くシミュレーションしてみた。
――谷川さんが帰ってくる。
――雨で濡れた僕は丸めて捨てられる。
――終わり。
シミュレーションってレベルじゃない。すでに詰んでるじゃないか。
けれどそんな僕の頭に、名案が浮かんだ。
『待てよ? 今寝れば、今度はこのサドルに意識を移せるんじゃないか?』
うん、うん、そうだよ。これまでの僕は、寝てる間に体が触れていたものを転々として来た。だったら今回だって、ひと眠りすれば意識が移るかもしれない。
しかも、新たな憑依先が自転車のサドルなんて最高じゃないか……。
そうと決まったら、さっそく心を静めて眠りの体勢に入る……つもりだったのに、
『残念だけど、そうはいかねえよ。レジ袋くん』
明らかに僕に向けられた言葉。だけど今の僕はレジ袋。普通に考えたら、今の僕に話しかける人物なんているはずがない。
僕はわけがわからないままに、正体不明の存在に向かって言葉を返した。
『誰だ!? どうして僕が、レジ袋になってるのを知ってるんだ?』
すると再び僕の頭の中に、さっきと同じ人物と思われる声が響いた。
『いや……お前のことは知らねえよ。ただ、俺様が先客だから、このサドルにお前は乗り移れねえよって教えてやったまでだ』
『え? じゃぁ、あなたは自転車のサドルさんなんですか?』
『ああ、そうだ。一つのモノに乗り移れるのは一人だけ。常識だぜ』
『常識……。なんだかあなたは、経験が豊富みたいですね?』
僕と同じような境遇の人が他にもいたのか!
思わず丁寧語になってしまった僕。モノに上下関係なんてないだろうけど、憧れの自転車のサドルっていうことでついつい敬意を払ってしまう。
『お前さんは、その体になってからまだ日が浅そうだな。物に乗り移ってる同士は、意思疎通ができることも知らなかったみたいだしよ』
『だからこうして会話ができてるんですね。僕はまだ4日目の新参者です』
『俺はサドルになって結構長いぜ。このチャリを母親が使ってた頃からだからな』
この超常現象の被験者が他にもいるとわかって、僕は少しだけ安堵した。
そして乗り移りの先輩なら僕の疑問に答えてくれるんじゃないかと、さらに敬意を込めて質問を投げかける。
『どうして先輩は、ずっとサドルでいられるんですか? 僕なんて数日前に掃除機になって以来、目が覚めるたびに体が移り替わってばっかりなんですけど……』
『あぁ、そいつは今の体に満足できてねえからだよ。居心地が良くて入れ替わりたくねえって思えるようになったら、きっと安定するさ』
なるほど……。だったら僕も、贅沢を言わずにぬいぐるみで満足していれば、毎日谷川さんの着替えを拝めていたのか……。
いや、僕は自分の体を取り戻すと決めたから、過去を振り返っちゃいられない。
今は手掛かりになりそうなことを、この先輩から聞き出さないと……。
『先輩の入れ替わりは、どうやって始まったんですか? いきなりサドルですか?』
『んなわきゃねぇよ。最初は公園のベンチで昼寝してたら、いつの間にか鳥になってたんだ。鳥になって空を飛んでみたいって夢が叶ったのかと思ったよ』
『その後は?』
『そこから先は、寝て起きちゃ体が触れてたものに乗り移ってよぉ。流れ流れていくうちに、この居心地のいい自転車のサドルに落ち着いたってわけよ』
目新しい情報を得られなかった僕は、激しくガッカリした。
だから、今の僕の興味はただ一つ。
『やっぱり良いですか? 自転車のサドルは』
『あぁ、最高だな……。あの奥さんのケツ、たまんねぇよ。だがなぁ、このチャリを娘が通学に使うようになっちまってからは、物足りなくて仕方ねえ……』
『くっ、そんな贅沢が言えるなんて、羨ましい……』
『あ、そうだ。お前さん、良かったら俺と入れ替わるかい?』
『えっ、本当に? いいんですか、入れ替わっても?』
『あの奥さんのケツの感触が味わえなくなった今、そろそろ違うものに乗り替わってみるのもいいかなぁって思ってたところだったんでな』
なんて良い人なんだ。自転車のサドルを譲ってくれるなんて……。
だけど、どうすれば入れ替われるんだ? 僕は自転車のサドルに尋ねてみた。
『体を入れ替えるなんてことが、本当にできるんですか?』
『俺があちこち旅をして得た知識だ。お前さんの口はどこにある?』
『え? 口ですか? 店のロゴが印刷されてるところみたいですけど……』
『ならいけるな。俺の口はサドルの後ろの方だ。そこに、お前さんの口をつけろ』
『まさか、それって……』
『ガキじゃあるまいし、それぐらいわかんだろ? マウストゥマウスってやつだよ。お互いに体を入れ替えたい意思があるなら、それでいける』
いや、ガキなんだが……。それにマウストゥマウスって言われても、このサドルの中の人って男だよね……?
ああ、でもほんの一瞬の辛抱で、自転車のサドルに乗り移れるなら……。
だけど考えてみれば、今の僕はレジ袋じゃないか……。いくら僕の口が、サドルの人の口の近くにあるっていっても、自分の意思でくっつけられるわけがない。
『確かにもうちょっとの位置ですけど、身動きが取れないから無理ですよ』
『お前さんはレジ袋だろ。それなら少しは動けるぞ。夜中にゴミ袋が音をたてたり、ペットボトルの凹みが戻ったりするだろ? あれは中の奴が動いてんだよ』
えーっ!? そうだったの?
だけど、ちょっと不気味な情報を知ってしまった気がする。
『そうなんですか? でも……どうやったら動けるんです?』
『気合いだよ、とにかく気合い。カッチリとした固形物の俺は難しいけど、お前さんみたいなフワフワしたやつなら多少は念じた通りに動ける。やってみな』
言われてみれば、掃除機だった僕の体が倒れたのは、動いて欲しいと強く願った時だった気もする。
動け、動くんだ、僕の体……もう少しじゃないか、動いてくれよ!
僕は強く念じる、サドルになる……いや、自分の体を取り戻す足掛かりのために。
動かないながらも僕は必死に、サドルの後方に向かって口を突き出してみる。
――カサカサ……。
擦れるような音を立てながら、癖のついた形に戻ろうとするように、自然な動きでレジ袋が動き出した。
自転車のサドルの後方に向かって、接近を始める僕の唇。
もう少し、もう少しで届く……。
そしてついに、僕の唇がサドルの後方に触れた。その時……。
『お、おおお……い、入れ替わった……』
一瞬にして切り替わる僕の視界。自転車のサドルを見つめていたはずの僕の目は、今は半透明の白い物体を捉えていた。
それは確かに、今まで僕が
そしてサドルだった男はレジ袋となって、僕にねぎらいの言葉を掛ける。
『でかした。どうやら上手くいったみたいだな。ほほう、こいつは自由があって動きやすそうないい体だ、感謝するぜ』
『いえ、僕の方こそ憧れの自転車のサドルになれるなんて感激です。しかもそれが、谷川さんの自転車なんて夢みたいです』
『じゃぁ、俺はさっそく、このレジ袋で放浪の旅をさせてもらうぜ、じゃあな』
掃除機になって以来、ずっと孤独だった僕の前に現れた乗り移りの先輩。
やっと他人と交流ができたと思ったのに、すぐさま別れが訪れる。
『待ってください、もっと色々とお話を――』
『あばよ。また再会する奇跡でもあったら、そんときゃよろしくな』
――そう言い残した男は易々とレジ袋の結び目を自ら解くと、あっという間に風に飛ばされて旅立っていった……。
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