第5話 白馬にまたがって迎えに行くよ。
谷川さんは学校へ行ってしまった……。
もちろん僕も行かなきゃいけないわけだけど、この状況じゃ行きようがない。僕は開き直って、ひとまず憧れの谷川さんの部屋をじっくりと眺めることにした。
床しか見えなかった昨日とは雲泥の差。僕の目に映ったのは、いかにも谷川さんの部屋らしい、清潔で気品のある華やかな空間だった。
だけど身動きも取れずに見渡したところで、三十分もすれば見るものがなくなる。
ああ、谷川さんがいれば、飽きることなんてないのに……。
あっという間に退屈した僕は、いつの間にか眠りに落ちていた……。
――谷川さんを始めて見たのは、高校に入学してクラスが一緒になった時。
彼女は中学時代から人望が厚かったらしくて、係を決める初日のホームルームでは満場一致の推薦を受けてクラス委員長になった。
クラスの意見を拾い、まとめ上げて、速やかに実行に移す彼女。その仕事ぶりは、みんなの期待を裏切らない。
毅然とした態度、規範となる真面目さ、どれをとっても申し分なし。
その上にあの容姿だから、夏休み前にはもうクラス外でも人気が高まり始めた。
僕が彼女を本気で好きになったのは、一年の学園祭で出し物を決めた時のこと。
内に秘めた案があったのに、自分に自信が持てない僕は提案を出し渋っていた。
「久山君、何か考えがありそうね。話してみてくれない?」
「えっ? ぼ、僕ですか?」
「久山君はあなたしかいないでしょ?」
谷川さんは高嶺の花なのに、こんな僕のことも見てくれてるんだ……。
少し卑屈かもしれないけど、その事実に当時の僕はとても感激した。
「えっ? ああ、でも僕の案なんて、とてもとても……」
「たとえ見当外れでも構わないわよ。クラスのためを思って考えたなら、どんなことだって貴重な意見だわ」
「そ、それじゃぁ……」
結局その案は採用されなかったけど、気遣いまでしてくれた彼女の優しさに、僕は一瞬で心を奪われていた……。
だけど、谷川さんとまともに会話をしたのはそれっきり。
話し掛けようにも話題は浮かばないし、向こうから話し掛けてくる理由もない。
2年で生徒会長に就任した谷川さんとの距離は開く一方で、進級後も同じクラスになれたのに指をくわえて彼女を眺める毎日だった……。
どうせ、忙しい谷川さんの目には僕なんて映ってない。
きっと存在だって、もうとっくに忘れ去られてる。
ずっと、そう思っていたのに……。
「明後日の土曜、お勉強を教えてもらえないかしら?」
谷川さんの方から声が掛かって、僕はビックリした。
僕は彼女に忘れられてなかった。そして、こんな僕を必要としてくれている……。
当然二つ返事で快諾した僕は、この奇跡的なチャンスに全てを賭けることにした。
授業の復習、質問されそうな部分の予習、念のため範囲外にも手を伸ばす。
睡眠不足になりながらの2日間、僕は谷川さんの役に立てるようにと、ヘトヘトになるまで必死に勉強した。
疲れ果ててるくせに、前の晩は興奮して一睡もできず。
気が逸った当日も早く着きすぎてしまって、近所の公園で時間を潰したほど。
それほどまでに気合を入れて、谷川さんの家を訪ねたのに……。
あそこで睡魔に負けたせいだ!
親睦を深めるチャンスだったのに、掃除機になってしまうなんて僕はツイてない。
いや、そのお陰で良い思いが出来たんだから、ツイてるのか……?
掃除機に続いて、今度はぬいぐるみに
物理的な距離は最接近したけど、肝心な心の距離は遠く離れたままだ……。
「――ただいま、ハクちゃん」
谷川さんの声で僕は目を覚ます。どうやら彼女が学校から帰って来たらしい。
律儀にぬいぐるみに呼び掛けながら、挨拶をした彼女。だけどその笑顔の視線が、僕の目と合っていなかったのが気になる。
そしてその理由は、すぐに判明した。
「そうそう。明日こそは、これを大崎さんに渡さないと……」
目の前に立つ谷川さんの右手が、人差し指を立てたまま僕の体へと伸びる。そしてその指が僕の頭に乗せられたかと思ったら次の瞬間、体がクイっと前傾した。
そのままヒョイっと摘み上げられる僕の身体。体が反転したときには、さっきまで僕が乗り移っていたと思われるクマのぬいぐるみとも目が合った。
どうやら僕の意識は、さっき寝ていた間にまた違う物へと移ったみたいだ……。
『今の僕の体は一体なんだ?』
ベッドに腰を掛けた谷川さんは、僕の体を左右に開いた。僕の視界は下を向いて、頬ずりしたくなるような彼女の太ももが目の前に迫る。
時々背中を擦られては、パラリと皮がめくられる感覚。
そんな僕の背後では谷川さんがクスクス笑ったり、息を荒げて感情を高ぶらせたりしている……。
『今度は本か……』
どうやら今の僕は、少女マンガの単行本らしい。しかもコテコテの恋愛もの。
なんでそこまでわかるかといえば、読んだこともないのに本の内容が頭の中に流れ込んできたから。まあ、今は体の一部なんだから、それも納得かもしれない。
このマンガは、完璧な女主人公がクラスのドン臭い男に思いを寄せるお話。
ドジで間抜けでエッチな良いところなしの男だけど、ほとんどが誤解で主人公の女だけが良さをわかってあげているというラブストーリー。
なんだかこの男が自分と被っているみたいで、そんなお話を谷川さんが読んでいることに僕はドキドキと胸がときめいた。
それにしても、本の正面っていうのは、表表紙じゃなくて背表紙なんだな……。
また誰に話しても信じてもらえない、どうでもいい豆知識が増えてしまった。
「ああ、つい読み始めちゃってたわ……。宿題をしないといけないのに」
パタンと僕の体を閉じた谷川さんは、ワシャワシャと音を立てながらレジ袋を広げ始めた。そして、その中に僕を放り込む。
そういえばさっき、『これを大崎さんに渡さないと……』って言ってたっけ。
ってことは、このままだと僕の体は博美に手渡されちゃうってことか!?
『待って、待ってよ、谷川さん。お願いだから、僕を手放さないで!』
訴えかけても声にならないんじゃ、僕の願いは谷川さんには伝わらない。
そして僕は、所詮マンガ本。自分の意思で動けないから抗いようもない。
結局、僕は半透明のレジ袋に入れられた後に、さらに暗い場所へと押し込まれた。たぶんカバンの中だと思う。
こんな憑依生活に耐えられたのは、谷川さんの私生活を覗き見られたから。それが博美の手に渡ったら、何のメリットもなくなってしまう……。
『おーい、谷川さーん。思い留まってくれー!』
男勝りでガサツな博美に、このマンガの主人公の気持ちがわかるとは思えない。
身も心も中学の頃から成長していない、元気だけが取り柄の博美。ああ……あんな奴の手に僕は渡ってしまうのか……。
だけどいくら願っても、再びカバンのファスナーが開くことはなかった。
これ以上何もすることがない僕は、暗闇の中で観念して目を閉じた……。
「はぁ……。土曜日は、上手くいかなかったな……」
真っ暗闇の中に響いた、谷川さんのため息交じりのつぶやきに僕は目覚める。
その声は、僕が今
「怖かったけど、勇気を出して誘ったのに……。幼馴染まで誘って警戒心を緩めて、やっとの思いで部屋に来てもらえたっていうのに……」
えっ? それって、僕のことなんじゃ……。
谷川さんの独り言は、聞けば聞くほど身に覚えが。僕は彼女の声を聞き洩らさないように、さらに神経を尖らせて次の言葉を待つ。
「それなのに、あんなことになるなんて……。いつになったら私の想いを、ハッキリ伝えられる日が来るのかしら……。こんなに好きなのに……」
――ドクン!
今の僕に心臓はないけど、胸の辺りが激しく脈打った。
そして後を追うように、激しい興奮が僕を包む。
『言ったよね? 確かに言ったよね? 好きだって。ああ……それなら思い悩まず、一言そう言ってくれるだけで、その場でオッケーしたのに……』
谷川さんの気持ちを知ってしまったけど、これは非公式な盗み聞き。何も行動しなければ、彼女との仲は進展しない
こういうときは、やっぱり僕の方から告白するべきかな……?
いや、でも僕なんかが、谷川さんに告白なんて……。
「はぁ、こんなに好きなのに…………」
谷川さんの声が、みるみるうちに艶めかしくなっていく……と同時に、ゴソゴソと布地が擦れる音が聞こえ始めた。
今まで谷川さんの声だけだったのに、突然始まった妙な気配に僕は胸がざわめく。
僕は胸を躍らせて、暗闇に漏れる彼女の声と音に全神経を集中した。
「お願い……私を抱きしめて…………んぅ……」
今度は何かに顔を押し当てているような、小さなくぐもった声。
部屋の外に漏れないように、声を押し殺しているように聞こえる。
『まさか、まさか、これって……!?』
ああ、谷川さん……いったい何を……。
僕の頭の中では、卑猥な映像がグルグルと渦巻き始める。
だって暗闇の中だし、そんな風にしか聞こえないから……。
「はぁっ、はぁっ……んっ、んぅっ……もっと……あっ、そこはダメ……」
僕は妄想力を目一杯に働かせて、谷川さんのいかがわしい姿を頭に浮かべる。
谷川さんには申し訳ないけど、童貞男子高校生なんてそういう生き物。実際は全然違っていても、なんでもエロい方に結びつけてしまう。
でもこの声はきっと、僕を頭に思い浮かべながらエッチなことをしてるよね?
ああ、谷川さんが、僕のことを想いながらそんなことをしてくれるなんて……。
よし、決めた! 僕は必ず君に告白する!
だけどそのためには、やらなきゃならないことがある……。
『――谷川さん! 僕は君のために、絶対に自分の体を取り戻してみせるよ!』
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