41. 藍染先生

 哲学書は(文庫化されているものでも)高価だから、ぼくにとっては、思い切った買い物になる。学校にはその類いの本は置いていないし、近所に図書館もない。


 それに、ページの余白にメモを書きこんだり、文章に線を引いたりしてしまうから、できるだけ買うことにしている。本屋さんで稼いだお金を、本屋さんで使っている状態だ。


 大学図書館には、たくさんの哲学書があるだけでなく、哲学に関する論文が掲載された論文集もずらりと並び、半世紀前のものまで置いてあった。二階建ての見た目からして、小規模なのかと思いきや、地下が3階まであり、大量の本が所蔵されており、学習机もたくさん設えられていた。


 食堂は二階建てでテラス席もあり、そこから少し離れたところに、いわゆる生協(というのだろうか……高校の購買部の超拡大版のようなところ)があった。その近くに山を背負うように部活棟があり、その横あたりに、みっつの運動場が棚田のように並んでいた。


 講義室のある各棟の一階には、自習スペースであったり、多目的ルームであったり、カフェや休憩所であったりが、学生たちを待ち構えている。


 保健室のようなところ(健康センターというらしい)は、西門から伸びた坂を登った先にある、門のように構える、幾つかの事務室の入った建物をくぐったところにある。他の建物からは大きく離れたところにあるので、南門からここを目指すのは、大変だろう。


 山の上にあるからといって、極端に狭いわけではなく、かといって広大なわけでもなく、西門から南門までは十五分くらいで歩くことができるらしい。


 しかし一番びっくりしたのは、琥珀紋学院こはくもんがくいん大学にはふたつのキャンパスがあり、文学部以外の学生は、2年生からは別のキャンパスで学ぶことになるということだ。


 しかも、県をひとつまたぐことになる。ふたつのキャンパスの中間あたりに住むことができれば、このシステムに対応できそうだけれど、どちらかに極端に寄ったところに居を構えていれば、引っ越しを迫られることになるかもしれない。


 だけれどぼくは、文学部志望ということもあって、こうした「移動」に悩まされることはない。ということは――美月さんも文学部なわけだ。実家から通っているということは、(芸能人だし)高級車で送り迎えされているのだろうか。


 全体説明と施設紹介が終わるころには、一時を過ぎていた。迂闊うかつなことに昼ごはんを持ってきていないことに気づき、「生協って使っていいのかな」などと、戸惑って廊下で立ちすくんでいると、後ろから誰かに呼び止められた。


 振り向くとそこには、年若な女性がいた。だけれど、大学生というわけではなさそうだった。


「説明会に来た子かな? もしかして迷っちゃった?」

「えっと……」


 柔和な笑みをたたえて、ぼくの言葉を待ってくれている。

 長らくぼくが黙ってしまっていると、「自販機とかとかは使っていいからね。総務課のひとにも、そう聞いてるから」と、優しく教えてくれた。ぼくの心のなかを察してくれたらしい。


「あっ、栗林さんだ」

「こんにちは、先生……って、すぐ再会しちゃったね、義弟おとうとくん」

 みっ、美月みづきさん?――どこかへ行こうとしていたところを、この女性が呼び止めたのだけれど、なにやら、ふたりは親しい仲であるらしい。


「えっ、この子、栗林さんの弟さんだったの?」

「いえいえ、わたしの妹の彼氏くんなんですよ。いずれ、義弟になるでしょうから、そう呼んでいるんです」


 初対面のひとに、余計なことを言わないでください!


「そうだ。特別授業に使う資料は印刷しておきました。事務室の近くの藍染あいぞめ先生のポストに入れておきましたよ」

「ありがとう。助かるわ。今日はよろしくお願いね」

「本日は、わたしも学ばせていただきますね」


 あいぞめ、藍染、藍染先生?――もしかして、藍染兎花あいぞめうか先生?

 えっ、えええっ!


 ぼくの背筋は、瞬く間にピンと伸びて、ふたりの会話は耳に入ってこなくなり、憧れのひとが目の前にいるということに、緊張と不安のようなものが入り交じった。

 美月さんと、どういう関係なのだろう――とか、そんなことを考える余裕はなかった。


 思考が止まってしまったぼくの頭には、なぜだか分からないけれど、本屋さんで見かけた、文庫化されたクリプキの主著の表紙が浮かんでいた。あの、バイト2時間分の値段の文庫本が。

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