40. ひ・み・つ

 後方の席に座ったことを後悔した。階段状の教室とはいえ、後ろの方まではスピーカーの方の注意は行き届いていないようで、それをいいことに、やんちゃな高校生の三人組が談笑している。


 。学校では先生に注意されるのだろうが、その目が届かないところでは、こうしてイキっているのだろう。不良の高校生という紋所もんどころを見せつけたいから、今日は私服を選ばなかったのかもしれない。素直にダサいと思ってしまう。


 遅れて入ってきたから後ろの席へとつくしかなかった、といえばそれまでなのだけれど、上から眺めてみると、前のほうに、ひとつふたつ、だれも座っていないところが見つかった。ため息がでてしまう。


 ここで「静かにしてください!」と言える勇気があるくらいなら、何年も《エイリアン》をしていない。いらだちを覚えながらも、なんとか神経を、スピーカーの方の説明へと向けようとする。しかし――


「カフェみたいなところにさ、すげえ美人のひとがいたじゃん?」

「いたいた、めっちゃかわいかったよな。ここの学生だろ? ここに入ったらワンチャンあるかな?」

「ねえよ。もう彼氏なんているだろうしさ」

「あーあ、セックスしてえわ。ああいう女とさ」

「下品すぎて草。こんなやつは、ぜってえ付き合えねえよ」


 きっと――というか絶対、美月みづきさんのことを言っているのだろう。身内面をするわけではないけれど、ぼくの彼女のお姉さんであり、それなりに「付き合い」があるひとだけに、下世話な話に巻き込まれているのを聞くとイラッとする。


「あのオンナ、舐めるのとか、めっちゃ巧そうじゃね?」

「お前、ヤバすぎだろ」

「あー、オレのをベロベロ舐めさせてえわ」

「こいつ、性欲こじらせすぎだわ」

「くそ小せえくせによ」


 ぼくはもう、だれも殴らないと決めた。「ちますよ!」というツッコミをするけれど、殴るつもりなんて、。暴力はいけない。そんなこと、分かりきっている。だけれど、野蛮なやつらからがいるとき、いったいどうすればいいと言うんだ?


 いらだたしい、もどかしい、苦しい、泣きそうだ。

 入口の近くにいたスタッフの方がこちらに気づいてくれて、この三人組に「私語をしないでください」と注意をしてくれなければ、ぼくは闇雲に大声をあげていたかもしれない。


 本当に助かった。だけれど、ぼくの彼女のお姉さんを愚弄されたことへの怒りは、おさまらない。

 こいつらなんて、試験当日に目覚ましが壊れて寝坊して見事に不合格になればいい。


     *     *     *


 小休憩中、興奮を落ち着かせるために、『論考』をペラペラとめくっていた。特別授業に向けて、気持ちを高めておきたかったし、不愉快な気分をしずめたかった。


 しかし頭の中には、悪戯をされることもあるけれど、ぼくにフレンドリーに接してくれる、まったく憎めない、美月さんの姿が浮かんでくる。


 集中できない。ぼくは勝手に、まるで「身内」のように、美月さんを位置付けていたのだ――ということに、いまになって気づいてしまった。そんな自分の身勝手さに、ため息をついてしまう。


 そんなときに、後ろから、「義弟おとうとくん、難しかったら義姉おねえちゃんが教えてあげようか」と声をかけられたので、「そう呼ぶには気が早いですよ。停車駅の少ない新幹線じゃないんですから」と淡々と答えた。


 すると、「すごい、たとえツッコミだ。よく分からないたとえだけど」と、小さく白々しい拍手をされたので、「友だちの友だちの誕生日のお祝いじゃないんですから」と、自分でもよく分からないツッコミをしようとしたところで、気付く――えっ、美月さん?


 後ろにいたのは、間違いなく美月さんだった。悪戯が成功した子どものように、目を細めて、くすくすと笑っている。下世話な話をしていた男子三人組が、信じられないものを見たような目でこちらを凝視ぎょうししているのが、気配だけで分かる。


「どっ、どうしてここにいるんですか……」

 すると、美月さんはぼくの耳に口を近づけて――というより、感覚としては唇が当たっているように思える距離で、こうささやいた。


「ひ・み・つ」


 それだけを言い残して、講義室を去って行った美月さん。

 ぼくはいま、なにを経験していたのだろうと、一連の流れをさかのぼってみるけれど、甘ったるい香りが、そんな頭をたぶらかしてしまう。


 あの三人組の、呪詛じゅそめいた会話なんて、ほとんど耳に入ってこなかった。


 この美人の大学生が、「モデル」であることを知っているひとも少なからずいて、その「有名人」に声をかけられたぼくに対して、好奇と不審の目が一斉に注がれる。一身に注目を集めるのは、にはあまりにもつらい。


 もしいま、全体説明が再開されなかったとしたら、この場から早々に逃げだしていたかもしれない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る