39. ぼくと似ている人

 ウィトゲンシュタインの言語哲学は、前期と後期に分けることができ、それぞれの時期の代表作として、『論理哲学論考』と『哲学探究』がある。このうち前者が『論考』と略して呼ばれており、早速本屋さんで購入したのだけれど、「この形式はネタに使えそうだ」との感想を抱いただけで、内容はちんぷんかんぷんだった。


 しかし、クリプキの議論は、ウィトゲンシュタインの『論考』と『探究』(『哲学探究』は、しばしばこう呼ばれている)を読んでいないと分からない――と、聞いた。


 それにしても、夏鈴さんから聞いた「クワス算」という概念はおもしろいと思った。その議論は、クリプキの代表作ともいえる著作で展開されているという。


 ざっくりと言えば、四則演算において、ある任意の数以上を用いた足し算で導かれる答えは、すべてひとつの数を表わすようになるという主張は(実は足し算だと思っていたものは、だったということは)、どうやっても反駁はんばくできないというものだ。


 だけど、こういう雑な理解というか、聞きかじったような知識ではなく、原書を読んで隅々まで議論を追うことが大事だと思う。すると、藍染兎花あいぞめうか先生の特別授業は、その取っ掛りとなるだろうし、その結果、この「新進気鋭の哲学者」の方のもとで学びたいという強い心持ちを抱くことになるかもしれない。


 ぼくはいま、琥珀紋学院こはくもんがくいん大学に向かう電車に乗りながら、がんばって『論考』を読んでいるのだけれど、なにを問題にしているのか、全然分からない。それに、里歩さんからの「お願い」が頭にちらついて、集中することができない。


     *     *     *


 ぼくには「彼女」がいます――という理由で、すべてが片付くのだけれど、ねのけたあとに、里歩さんはどういう表情をするだろう、もしかしたら、悲劇的な結末が待ち構えているのではないか、などと考えてしまうと、すぐにその事実を突きつけることができなかった。


 こういう意志の軟弱さというか、芽依を裏切るような対応は、情けない以上に情けないとしか言いようがないけれど、里歩さんに対しては、いままでだれからも感じたことのないほどのシンパシーを覚えてしまう。どう言えばいいのか分からないけれど、ぼくと同じ悩みに苦しんでいるのだと、痛切に感じるのだ。


 過去といまを切断したいのに、生きていく以上、どうしても、そのふたつを架橋せざるを得ない。過去と向き合うことは辛く苦しいのに、折に触れて思いださなければならない――というような苦悩を抱えているところが、ぼくと似ている。


 もちろん、里歩さんが抱えている苦悩を、ぼくが完全に理解しているとは言えないし、実際そうなのだけれど、それでも、まったくの他人と思えて仕方がないのだ。


 だけれど、その依頼を承諾するわけにはいかないから、――これもぼくの悪いところだけれど――「考えさせてください」と言って逃げてしまった。もう断るつもりでいるのに、少しくらい期待させてしまうということは、あまりにも酷い。ぼくはほんとうに、どうしようもないだ。


     *     *     *


 すると、ぼくの視界に救世主の姿が見えた。ミス琥珀紋学院大学であり、モデルをしており、才色兼備で、芽依のお姉さんである美月みづきさんと、キャンパスでばったり会ったのだ。


 いや、「見かけた」という方が正しい。なにやら、友だち(らしきひと)とカフェみたいなところで談笑をしている。遠目からみても、間違いなく美月さんであることが分かる。それくらい、輝いて見える。


 しかし、声をかけることはできなかった。友だちと話しているところに割りこむなんて、ぼくのではできない――というより、説明会の開始時刻まで、あまり時間がなかった。最寄り駅から出ているバスが混雑しており、なかなか乗ることができなかったのだ。


 そのときに、「混んでいるし、山登りしようか」という声が後ろから聞こえた。なんの隠語(?)なのだろうかと思ったら、どうやら、歩いて大学へ行くことをすらしい。山の上に大学があるから、「山登り」と表現しているのかもしれない。


 この二人組の後ろをついていけば、大学に着くのでは?――という考えが脳裏によぎったが、それは、ほとんどストーカー行為に近いと思ったから、グッとこらえた。


 そして、なんとかぎゅうぎゅう詰めのバスに乗り、大学に到着したときには、会場までダッシュしなければならないような時間になっていた。


 美月さんになら、を相談できるかもしれないと思ったけれど、すべてのプログラムが終わったころには、もうどこかへ行ってしまっていることだろう。

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