42. 義姉と義弟

 藍染兎花あいぞめうか先生の特別授業は、全体説明のあった教室で行なわれるとのことだった。階段状になっている教室の中心は、比較的に幅の広い通路になっており、前半分に受講生が集まるのだという。


 今回の特別授業では、事前準備なんて必要がないし、クリプキが問題としているのは、どちらかというと『探究』の方だし、休憩中に『論考』を読んでいるぼくの背伸びした感じが「かわいかった」――と、美月みづきさんは教えてくれた。


「……食べます?」


 そして、ぼくの持っているサンドウィッチから眼を離さない美月さん。夏期休暇中とはいえ、この8号棟の休憩スペースには、少なからずひとがいて、時折こちらに目線を投げかけてくる。


 しかしぼくのことを「おとうとくん」と呼んでくれているおかげで、ヘンな誤解を生まずにすんでいる。しかし美月さんは、「〈義弟〉と書いて〈おとうと〉と読ませているんだから」と、イタズラっぽく微笑んでいた。


義弟おとうとくんに伝えておくことがあるんだけどね」

 急に神妙な面持ちになった美月さん。思わず身構えてしまう。

「わたしの前で〈タマゴ〉を食すことは、罪に値するの」

 ええと……どういうことです?

「罰として、サンドウィッチを捧げなければ、わたしは不機嫌になり、義弟くんにぎゅっと抱きついて《いやーん、彼ピ~~、好き好き大好き~~》と叫ぶことになるので……半分ください」


 それは美月さんが罰を受けているのでは?――と思ったけれど、素直に半分ちぎって手渡す。


「仲いいわねえ」

「うちの弟もあれくらい親切だったらなあ」

「てか、弟さんもかっこよくない?」


 などという声が、遠くから聞こえてくる。最後のは、美月さんの身内である(誤解だけど)ことによる補正が入っていると思うけれど……思うけれどというか、絶対にそうだけど。自信過剰になるな、ぼく。


「どう? 芽依めいとはうまくいってる?」


 誤解からはじまった喧嘩から、なんとか仲直りをすることができたし、それからは前のような関係が続いているし、「うまくいってる」と言えないこともないだろう。あと、きっ、キスもしたし……。


「思いだしちゃった?」

「えっ、えっと」

「動揺しちゃって、かわいい」

 くすっと微笑む美月さん。

「いやー、いままで見てきたどんなキスシーンより興奮したなあ」

 あのとき、ドアの隙間から美月さんがのぞいていたことを思いだす。

「ちょっと、嫉妬しちゃったな」

「えっ?」――美月さんの、消え入るような独り言は、うまく聞き取ることができなかった。


 というか、肝心なことを思いだした。芽依との仲がギスギスした原因を作ったのは、美月さんじゃないか。あれさえなければ、うまくいっていたかもしれないのに。


義弟おとうとくん」

「はっ、はい」――真剣な面持ちに変わった美月さんに、またも身構えてしまう。

「わたしは、芽依のことでは相談に乗らないからね」

「えっ……」

 もしかして、相談したいことがあるということを、見透かされていたのだろうか。


「なにか相談があったら、まずは、芽依に打ち明けること。だってふたりは、恋人どうしなんだから」

 至極その通りだと思う。里歩さんの依頼を引き受ければ、ぼくたちの仲は崩れ散るかもしれない。だからこそ、まずは、芽依に包み隠さず話すべきなのだ。


「それに、なんだか、わたしの気持ちがね……」

「えっ?」

 美月さんの声は、急にヒートアップした周りの学生たちの話し声のせいで、ちゃんと聞き取れなかった。


 どうしてだろうか。美月さんと話しているいま、ぼくのこころがざわざわとしてしまっている。しかし、その理由を突き止めることが、なぜか恐くてできない。

 これ以上このことを考えたくなくて、がらりと話題を変えることにした。


「美月さんは、藍染先生のところで、研究をしているんですか?」

「うん、藍染ゼミにいるよ」

「ゼミ……って、なんでしたっけ?」

「んー、説明は難しいけど、ざっくり言うと、特定の先生のもとで指導を受ける学生のグループかな。だから、藍染先生の指導のもとで研究をしている学生は、藍染ゼミのひとってことになる」


 なるほど……なんとなく分かった気がする。


「美月さんは、どんな研究をしているんですか?」

「わたし? わたしは、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリっていうひとの著作の……なんていうんだろう、新しい読み方みたいなものを考えてる」

「ええと……『アンチ・オイディプス』とかを書いたひとでしたっけ?」


 美月さんは、未確認生物にでも出会ったときのような、信じられないという表情をしている――作ってみせている。


「うそ……優理が、その本の名前を知っているなんて。カタカナを見ただけで、卒倒するのに……」

「芽依の真似はいいですから!」


 こういうができるということは、ぼくたちのあいだに生じていた、気まずさのようなものが、晴れてしまったという証拠でもある。

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