35. 弟子から師匠へ

「どうもー!」


 第一声は強く大きく聞き取りやすく。


「四条優理と申します! 早速ですが、こちらの単語をご覧ください……発音はできません。訳してみましょう。ある朝――」


 ネタの掴みははやく。これからなにをするのかを手早く説明する。


「――のことです」


 ぼくがたどりついたのは、書き言葉は、発音の必要性を奪ってしまうという特質を逆手に取って、フリップに書いていることと、ぼくが言うこととを、絶えずズラしていく――というものだ。そのズレのなかに、笑いをする。


 ジャック・デリダ――アルジェリア出身の、フランスを代表する哲学者であり、脱構築や差延といった概念を、世界へと投げかけていった。ポストモダン思想の担い手のひとりと見なされ、彼のテキストは、スピヴァクなどの哲学者を刺激し、新たな学問分野の隆盛に寄与した。


 そんなデリダの哲学が、このネタの根底にある。


 最後に「フィロソフィING」で披露したネタは、やめた。たしかにウケた。でも、夏鈴さんには悪いけれど、ぼくのネタは、文学を根底にしない方向でいきたい。


 急ごしらえではあるけれど――そして、デリダの入門書を、ぼくなりに読んでみて作ったネタだけれど――このネタには自信がある。


 Bdallrok――ある朝、ACDaawzk――のことです。こうした、存在しない単語を、存在する言葉に訳すということを続けていく。ただ、ずっと続けてはいけない。そこに、笑いはない。


 K――スーパーマンが一人で寝ていました。

 一文字でこれだけの意味をもたせる。

 DRAGON――龍を意味するこの単語の意味を。「そのとき!」という言葉に。


 この「そのとき!」を軸にしていく。意味の分からない単語を連ねて、口ではどんどんストーリーを展開していく。そして物語が場転するときに「DRAGON」(そのとき!)だけを書いたフリップをめくる。


 言葉の抑揚とイントネーションを変える。フリップをめくる速度は、基本的には早く、しかし速度は一定にさせない。


「ここで、クイズタイムです! 次のうちに、今日起こったことはどれでしょう。まず、A。ここに来る途中に道を踏み外した――」


 紙芝居のネタを急にめて、本題から、していく。


「正解はAです。そうです、ぼくは道を踏み外したんですよ。どこで、こうなってしまったんでしょう、ぼくの人生は……まだ、高校生ですよ。青春を謳歌し、夢を語るはずの、高校生ですよ!」


 悲しい高校生活を披露する……しかし、自虐に走らず、こうすれば一発逆転できるというプランを、展開していく。適当に並べたアルファベットを用いて。


 もう、夢中だ。ウケているのか、スベっているのかも分からない。視覚はフリップに奪われて、聴覚はぼくの言葉ばかりを拾ってしまう。にじんでいく汗のにおいと塩味、地に足がついているのかどうかも分からない。


 もうめくるフリップがなくなったときに、このネタは終わったのだと気づいた。慌てて「どうもありがとうございました」と大声で言い、頭を下げて引っ込んでいく。

 そして、暗転しているうちに、散らばったフリップを、スタッフの人たちと一緒にかき集める。


 高校三年生の――初夏。ぼくの人生にひとつの区切りがついたような、そんな気がしていた。


     *     *     *


 夜遅くまで家に帰らないわけにはいかないから、打ち上げには参加しなかった。

 帰り道に公園に寄って、熱がこもったベンチに座って、絶叫さんに電話をかけた。


「あっ、絶叫さん、いま大丈夫です?」

 ほとんど間を待たずして電話は繋がった。まるで待ちわびていたかのように。

『どうだった?』

 絶叫さんが知りたいのは、なによりもまず、だった。


「とんでもないくらい、スベりました。主催者の方に平謝りしました」

『どうせ、初下ろしのネタをしたんだろ。ぶっつけ本番で。この前ウケてたっていうネタをすればいいのに』

「どうしても、やってみたいネタがあったんですよ。終わってみて、なにやってるんだろうって、少しだけ後悔しました」

『ユーリって、へんに自信家なところがあるからな』


 バカだな――絶叫さんは、木の葉がかすれるように、かすかに笑った。


「絶叫さん、ぼくのネタを見ます? 三脚はないですけど、片手で持って、片手でめくりますんで」


 ビデオ通話に設定して、スマホをベンチに立てかける。手提げのなかから画用紙を取り出す。

 絶叫さんは、ビデオをオフにしたままだ。いまの姿を、見られたくないのかもしれない。マイクだけはオンになっているから、おもしろかったら笑ってくれるだろう。


 良彦と大紀のネタをはじめて見たのも、夏だったし、この場所だった。

 芽依に解散を切り出されて、お互いの気持ちをぶつけあったのも、この公園だった。


 雲ひとつない空に、夕焼けが鮮やかにどこまでも伸びている。その下では、気ままに涼しい風が吹いて、松の木をそよがせることもある。遠くで、子どもたちが野球をしているらしい。フェンスの向こうでは、部活帰りらしき高校生が自転車を押して笑いあっている。


「どうもー! 四条優理と申します! 早速ですが、こちらの単語をご覧ください――」

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