32. 生粋のお笑い芸人なのだから

「俺が死んでも、だれも困りはしないから」

「なっ……なに言ってるんですかっ! 近くにだれかいないんですか!」

「一日中落ち着かなくて、何度も呼吸が苦しくなって……ひと思いに死んでしまいたい」


「いま、どこにいるんですか?」

 せめて、ぼくだけは落ち着かないといけない。できるかぎり冷静を装って、問いかける。


「……来てくれるのか?」

 ぼくの目の前には、コンサートホールがあり、そのなかにはライブ会場があり、正面に舞台があり、そこに立てば、を待ってくれているお客さんがいる。


 いまから、絶叫さんのところへ行くことができるのか?


 ぼくが行かないと、死ぬかもしれない。でもぼくは、今日の舞台に立つために、たくさんの努力を積み重ねてきた。


 それに、このライブにかかわるひとすべてに対して、ネタをするという責任を負っている。みんなで築き上げてきたものを、蹴り飛ばしていいはずがない。


 じゃあ、絶叫さんが死んでしまっても、かまわないのか? お笑いの世界に飛びこんだぼくの面倒を見てくれている、絶叫さん。お笑いのイロハを教えてくれている、絶叫さん。


 だけど――ごめん、絶叫さん。ぼくは、お笑い芸人になりたいんだ。絶叫さんは知っているよね。お笑い芸人の仕事は、目の前のお客さんを笑わせること。それができないのなら、だ。


「絶叫さん、ひとつだけ聞いてください」

「…………」


「ぼくの父さんは、ぼくが中学生のときに、ぼくたち家族の前で、急に叫びだしたんです。そして、暴れ出して、隅っこの方で頭を抱えたんです。震えてて、触ろうとすると、手で払いのけられて……そのころ、ぼくは、いじめられていたんです。だけどぼくは、いじめっ子を殴り返してしまって、それで問題がこじれちゃって、父さんは、ぼくのしでかしたことの後始末で疲弊してしまって……それで、そうなってしまったんです」


 絶叫さんは、黙ったままだ。ぼくは冷静に、言葉を紡いでいく。


「いまでも父さんは、ぼくたち家族にびくびくとしていて、いろんな感情をなくしてしまいました。だけど今日の朝、ぼくと目を合わせてくれたんです。それに、がんばれって言ってくれたんですよ。嬉しかった。泣きそうだった。だからぼくは――」


 なんの前ぶれもなく電話は切られた。ほんとうに絶叫さんと電話をしていたのか分からなくなってしまった。後味が悪かった。だけど、これで踏ん切りがついた。ぼくは、ネタをすることだけに、集中すればいい。


 やっぱり、絶叫さんは、ぼくの師匠だ。電話を切ったのは、「俺のことよりお客さんを笑わせてこい」というメッセージだ。ぼくは、そう受けとった。そしてそれが、間違いのはずがない。絶叫さんは、なのだから。


 ウケたかウケなかったか、それを聞くまで、あの絶叫さんが死ぬはずがない。


     *     *     *


 次々にお客さんが入ってくるのを、舞台袖で隠れて見ていると、天才さんがぼくの肩を叩いてきた。


怖気おじけづいとらへんやろな?」


 ぼくは普段、満員にならない「フィロソフィING」でネタをしている。こんなに大勢のひとの前でネタをするのは、本当に久しぶりだ。文化祭のとき以来だろうか。絶叫さんの単独ライブのときよりも、お客さんの数は多い。


 もっちゃんのネタを見たいと、集まってきたひとたちばかりではないだろう。今日は、ぼくともっちゃんを含めて、七名の芸人がネタを披露する。


 トリはもちろんぼくだ。ぼくがネタを披露する前に、何人かのひとが席を立つのではないかと思ったのだけれど、最後は、全員で行なう「ミニコーナー」があるらしく、きっと、それを目当てに残ってくれるだろう。


 ちなみに、天才さんは、手伝いのために来てくれている(もちろん、打ち上げで酒をたらふく飲むためでもある)。ネタは披露しない。だけど、緊張しているぼくを励ましてくれるし、舞台裏でムードメーカーになってくれてもいる。


「ええか、ジョー。ウケへんかっても、やりきるんやぞ。ネタを最後までやれって言っとんやないで。最後までやれってことや。今日の目標は、それだけでええからな。ムリにやつになろうとせえへんでええ。やつにならへんければ、それでええんや」


 酔っていない天才さんは、頼もしい。近くにいてくれるだけで、心強い。


 舞台裏に戻ると、もっちゃんが、壁に向かって、ぶつぶつとなにかを言っていた。もちろん、ネガティヴな感情を吐きだしているわけではない。ひとりネタの練習をしているのだ。ぼくも、ネタが飛んでしまわないように、壁を前にして最後の確認をする。


 不思議なもので、こうしていると、ネタのアイデアが浮かんでくる。いまは、目の前のネタに集中するべきなのに、形にしてみたい「ネタの種」が芽吹こうとうずいてくる。観念して、その種の名前を、手帳に書き記す。


《レヴィー=ストロース、近親そうかんのタブー、神話、こうぞう主義》


 ぼくは、『悲しき熱帯』も『野生の思考』も『神話論理』も読んでいないし、本屋さんで見つけてページを開いてみても、一行も分からなかった。だから、夏鈴さんからさずかった知識しか持っていない。


 だけれど、レヴィー=ストロースの「構造」という概念は、うまく調すれば、ネタに昇華することができそうだ。


 でもやっぱり、彼の著書を読まないといけないだろう。だとすると、琥珀紋学院こはくもんがくいん大学の文学部で学ぶのが一番だと思う。そこには、藍染兎花あいぞめうか先生という、とんでもなく有名な哲学者がいるのだから。


 ――と、ネタのアイデアや進路のことを考えているときに、ライブの開始を告げる音楽が流れはじめた。前ぶれもなく、トップバッターが三脚とスケッチブックを手にして飛びだしていった。ぼくは、モニターに映る彼女のネタを、じっと見つめる。


『こんにちは。パラシュート・アンダー・ザ・シーです。水深一億キロメートルのところで紙芝居をしていると思って下さい。それでは、《潜水艦と火星人が結婚式を挙げる日のこと》の巻……』


 芸名も、設定も、言葉のチョイスも……すべてがぶっとんでいる。ぼくは、こうした「鬼才」たちとライブをしているのだ。


 たくさんの人の前でネタができるというのは、幸せなことだ。ここにいるみんなが楽しめるような、最高のライブを作り上げるひとのなかの、ひとりになりたい。

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