31. 切実な言葉を聞いて

 駅から三つの道が伸びており、スマホの地図を読むかぎり、真ん中を選ぶべきはずなのだが、確信が持てず、もっちゃんに電話をすることにした。


「一番右の道を進むと、中学校が右手に見えてくると思う。そこの前の大通りを渡って、左の方へ進むと市役所があって……その近くにコンサートホールがあるから。とりあえず、こっちの方へ来て」


 右だったか――会場の設営で忙しいことが、電話の向こうから聞こえてくるスタッフのひとたちの声で分かる。ぼくもはやく合流しなければと思い、教えてもらった方へと早足で進んでいく。


 中学校の目の前は、二車線道路になっていた。車の行き来は少なく、大通りとはのことなのかと不安になったけれど、横断歩道を渡って左へ進んでいくと市役所が見えてきた。


 市役所の右隣にコンサートホールがあり、どうやらそこが本日の会場らしかった。といっても、映画館のようなだだっ広い一階ではなく、三階の多目的ホールで開催されるらしい。


 誘導係として、予選落ちさん――天才さん(言い忘れたけれど、こう呼ぶようにと言われている)が「かわいがっている」という後輩の方々が駆り出されていた。


 大理石の床に朱色のカーペットが敷かれている1階と2階に比べて、合同ライブの会場があるエリアは、どこかうす暗く、さびれているように見えた。


 多目的ホールはふたつあったけれど、どうやら奥の方が今日の舞台らしい。「フィロソフィING」と同じくらいのキャパと言われていたが、それより少しだけ大きく感じた。


 斜めに席が並んでいる「フィロソフィING」とは違い、ぼくの通っている学校の体育館を、ミニサイズにした感じだ。


 先生がスピーチをしたり賞状を授与したりするところで、ぼくたちはネタをするのだろう。そして、平らな床に等間隔に並べられたパイプ椅子が、お客さんたちの席なのだろう。


「観客席だけはうす暗くするから、後ろの方のお客さんの顔は見えないよ。だから、ちょっとだけ安心するんだ……笑っていないひとの半分は見えないんだから」


 いつものように、弱気なもっちゃん。お客さんの笑い声が、なんで、聞こえていないのだろう。なんで、嘲笑されていると誤解してしまうのだろう。


 こういう後ろ向きな言葉を聞くのには慣れてきたけれど、それゆえに、反感のようなものも覚えはじめていた。

 お客さんたちに失礼だと思わないのだろうか。そうしたたぐいの反感だ。


 少なくともぼくは、もっちゃんのネタで笑っているし、その発想に圧倒されて、自分のネタにも多大な影響を受けた。


 ぼくは決意した――もっちゃんよりウケてやろうと。


     *     *     *


 そんなぼくを後押しするかのように、芽依めいからメッセージが送られてきた。


《がんばって》


 そして、その十分後に美月みづきさんからもメッセージが送られてきた。


《がんばれ!》


 美月さんはハートマークまでつけている。勘弁してほしい。芽依に見られたらまたややこしいことに――と思っていると、芽依から、またひとつ、メッセージが送られてきた。


《優理なら大丈夫》


     *     *     *


 設営が終わり、一度、建物の外へでた。


 目をつむる。深呼吸をする。胸に手を当てる。心臓はどくどくと波打っている。もう一度、深呼吸をする。

 熱をたくわえた空気が肺に入ってきて、直前まで吸い込んでいた冷気と、すっかり入れ替わってしまった。


 芽依、美月さん、そして父さん――大切なひとたちから背中を押されている。狭い舞台から落っこちないように足を踏ん張って、爆笑のうずを巻き起こしてやろう。もっちゃんよりも、ずっと大きな爆笑をとってやろう。


 そのときだった。一本の電話が入ってきたのは。画面には「絶叫さん」と書かれている。固まっていた気持ちが、揺れ動いてしまったのはもちろんだった。


     *     *     *


 テスト勉強をしているときに、作業用BGMとして流していたラジオで、あるイラストレーターが、自分の「死生観」について話をしていた。


 ぼくは、シャープペンシルを倒して、そのトークに聞き入ってしまった。独特な「死生観」を披露した彼女は、最後にこう付け加えた。


「でも、どれだけ頭で考えたとしても、実際に死に直面すると、その考えが反対方向に振れてしまうこともあると思いますよ」


 そしてこれは、夏鈴さんから教えてもらったことだけれど、芥川龍之介には「殉教じゅんきょう」を描いた作品がいくつもある。


 教えてもらったからには読もうと思い、いわゆる切支丹物きりしたんものと呼ばれる小説が収録されている文庫本を買ったのだけれど、ほとんど意味が分からなかった。設定も、時代背景も、語彙ごいも、古語も……注釈があっても、理解が追いつかなかった。


 だけど、『奉教人の死』や『きりしとほろ上人伝』が「殉教」を扱った小説であることは、読み取ることができた。


「これは、わたしの推測なんだけどね、芥川って『理想の死』というものを頭に描いていたと思うの。切支丹物を書くことになったから、その関係で、殉教を扱うことになったのか、殉教を描くために、切支丹物を書いたのかは分からないけれど、少なくとも、彼の中で、確固たるはたしかにあったんだと思う」


 芥川龍之介は自殺している。このことは、ぼくでも知っていた。しかしそれは、殉教とはほど遠い、自身の切実なから生じた自死だった。


「いざ実際、死が身近なことになってしまうと、死とは縁遠いときに考えていた、死に対する想像なんて、記憶の彼方に押し込められちゃうんだろうね」


 ぼくたちもまた、死とは縁遠いところで、こうした話をしていた。

 夕陽に照らされた商店街のなかの、まったく人気のない本屋さんには、ことさら、死を感じさせるものをひとつも見いだせなかった。


     *     *     *


 このとき、絶叫さんが放った言葉は、ぼくを一気に、を身近なものにさせた。ぼくは人生ではじめて、こんな切実な言葉を聞いた。


「……俺さ、もう死のうと思う」


 ぼくは一言も発することができなかった。しばらく呼吸をするのも忘れてしまった。

 ほんとうにいまのは、絶叫さんの声だったのかという疑念だけが、頭の中を駆けめぐっていた。

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