30. その表情が見たかった

 ヴィ・バ・ラのネタは、マハの深い近代文学の素養と、文豪の作品を現代的にアレンジする彼女の腕前に支えられていた。


〈漫才ワングランプリ〉で披露した彼女たちのネタは、芥川龍之介の『竜』――その題材の元となったのは『宇治拾遺物語』らしいけれど――を下敷きにしていた。


 上方漫才のなかから台頭してきたダイナマイト柑橘類かんきつるいは、マハイズムを継承していた。しかし彼らの魅力は、なにより、独創的で切れ味バツグンなボケとツッコミにあった。


 そしてもっちゃんは、マハの正統的な継承者ともいえるピン芸人で、近代文学を現代的に、そして解釈してネタにしている。たとえば、『或阿呆の一生』という芥川の遺稿の形式を拝借して、自分の人生が「こうだったらいいな」という妄想を展開するネタがそれだ。


 ぼくは夏鈴さんのおかげで、本を読むようになったし、たくさんの知識を授けてもらった。語彙ボキャブラリーも増えた。あまり繁盛していない本屋さんということもあって、自然と駄弁だべる時間が長くなり、ぼくはネタのヒントとなるを蓄積していくことができた。


 そして、マハ、ダイナマイト柑橘類、もっちゃん……たちとは違うことをしなければならないと思うようになった。そのときに手がかりとなったのが、ニーチェの『ツァラトゥストラ』――哲学書だった。


 しかしぼくのネタに相応ふさわしいのは、近代文学の作品だと夏鈴さんは言い、ふたつの小説を薦めてくれた。そして実際、その方がしっくりきた。


 だけどこれから先、ぼくだけにできるネタを作るならば、哲学を参照するのがいいのではないかと思いはじめた。そしてぼくは、その理由を(安直にも)将来の進路へと接合してしまった。


琥珀紋学院こはくもんがくいん大学ねえ。優理でも入れるかもしれないけれど、私立だし、あまり良い評判は聞かないし……どうです、お父さん」

「目的があるなら……」

「でも、その先の将来のことを考えると」

「がんばれば、ちゃんと就職はできるから……」


 母さんは、まるで氷を触るかのように、慎重に父さんに話しかける。こうしたよそよそしい関係になってしまってからは――父さんが打たれ弱くなってしまってからは、こんな会話が目立つようになった。


「もう少し時間があるから、もっと考えてみなさい。それでも、そこに行きたいというのなら、お母さんたちも考えるから」


 この日は、ぼくの気持ちを伝えるだけでいいと思っていたから、母さんからやんわり拒絶されていることに不満はなかった。だけど、父さんが少し前向きな姿勢を見せてくれたのは意外だった。


 もちろん、そこには、ぼくたちの間にあるが作用しているのかもしれないけれど。


     *     *     *


 明日の午後に開催される合同ライブ。打ち合わせの関係上、そして、立地のことを考えると、いつもより早起きをして支度をしなければならない。


 ふとんに入る前に、フリップの一部が抜け落ちていないかなどを確認する。三脚は会場で貸してもらえるとのことだったが、ほんとうにそうしてもらえるのか、不安になってしまう。


 なかなか眠りに落ちることができないのは、緊張しているからなのか、興奮しているからなのか、どちらだろう。


 自信のあるネタが完成した。だけど、合同ライブのトリに抜擢ばってきされてしまっている。このふたつの事実を混ぜ合わせると、やっぱり緊張ばかりが目立ってしまう。


 だけど、もう逃げることはできないのだから、観念するしかない。深呼吸をひとつして、明日のことを考えないようにしながら、眠気が訪れるのを待った。


     *     *     *


 靴紐を固く結ぶ。家に帰るまでに、ほどけてしまわないように。

 今日に限って、ジンクスのようなものを気にしてしまう。いままで、大事な日に靴紐が解けると、なにか失敗が起こるのが常だった。偶然かもしれないけれど、こういう大一番になると、このことを強く意識してしまう。


 マジックテープの靴を卒業し、スニーカーを履くようになって間もなくのころは、うまく靴紐が結べずにイライラとしていた。そんなぼくに、簡単に解けない蝶々結びを教えてくれたのは父さんだった。


 ぼくの背中越しからぎゅっと紐を引っ張って、縦に曲がったりしない綺麗な蝶々結びをこしらえてくれた。そして、するりと解いて、ぼくに真似をするよう言った。


「行くのか」

 後ろを振り向くと、パジャマ姿の父さんがいて、ぼくの肩の外れに目線を集めていた。


「うん。もう行かないと間に合わないから」

「そうか……」


 ぼくは父さんに背を向けて、ふたつの輪を力いっぱいに引っ張り、丸まった球のところを締めつけた。

 勢いよく立ちあがり、画用紙を入れた手提げ袋を肩にかける。そして、もう一度、振り向く。朝陽が玄関に差し込み、ぼくの影が、父さんの方へと伸びている。


「がんばれよ」


 そのとき――父さんの目が、ぼくの目をとらえた。

 一瞬だけ、ぼくたちは視線を交わした。そうだ、その目が、父さんの表情のすべての源泉で、悲しみも、笑いも、そこからあふれだしてくるのだ。思いだした。久しぶりだよ、その表情かおを見たのは。


 絶対に、大丈夫だ。不思議と、そう確信できた。思いっきり、やってくる。


「もちろんだよ。じゃ、行ってくるね」


 深呼吸をすると、清々しい朝の空気が肺をうるおした。眠たげな蝉の音が、どこからかしんみりと聞こえてきた。


 今日も、暑くなりそうだ。はやく、陽が燃え立ってくれないだろうか。たまっているものが一滴でもこぼれ落ちてしまえば、もうとめどなく涙があふれてきそうだから。

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