28. 夏鈴さんからのアドバイス
家族の反対を押し切り漫才師になったマハは、最後まで両親と和解することができなかった。デビューの舞台にも解散ライブにも、家族は姿を見せなかったし、マハも次第に、実家に帰るのを止めたらしい。
だからきっと、芸人を引退したいまも、実家ではなくどこか別の場所で生活をしているのだろう――と、お笑いフリークのブログには書いてあった。
一応、情報元の雑誌が出典として上げられていたけれど、書かれていることだけでマハの心境や事実を推測することはできないし、書かれていないことにこそ、マハが抱えていた葛藤や真実があると考えてもいいと思う。
夏鈴さんに教わったことを応用するならば、このお笑いフリークがしていることはテキスト論の一種であって、その方法論への代表的な批判が、書かれていることだけを分析対象とすると、書かれていないことを分析することができなくなる、というものだ――と思う。自信はない。
ところで、夏鈴さんからベルクソンというひとの『笑い』という本をもらったのだけれど、難しすぎてよく分からなくて、最初の数ページでやめてしまった。
だけどいま、近代文学だけではなくて、哲学書を参考にしながらネタを作れないかと考えている。だって、マハや、ダイナマイト
だからぼくが、夏鈴さんへのネタ見せのために――合同ライブで披露するために、そして、〈オンワン〉の予選のために作り上げたネタは、意味は完全に分からない(というかひとつも分からない)けれど、形式だけは理解できた哲学書を参考にしている。
* * *
ぼくと父さんの間にあるのは、確執ではなく断絶だ。ふたつの岸に架かる橋を作るには、「笑い」しかない。だからぼくは、父さんを笑わせたいと思っている。
父さんは、ぼくを拒絶する。それはぼくのことが嫌いだからではなく、きっと、自分を守るためだ。
夕刊を畳まないのなら、それでいい。ぼくは勝手に、ここでネタをするから。
「どうも、四条優理です! 今日はですね、みなさんに、ぼくの考えた〈スーパー人間〉を披露したいと思います」
哲学の歴史は、ニーチェによって断絶された――らしい。その断片的な情報だけで、ちょっとかっこいいと思ってしまい、駅近くの本屋さんで、『ツァラトゥストラ』を購入した。正直、まったくよく分からなかったし、どう哲学の歴史を転倒させたのかも
ただ、〈超人〉という概念と本の形式は、まるでフリップ芸のように思えた。だからこそ今回は、近代文学ではなく『ツァラトゥストラ』にアイデアを求めた。
しかし――ぼくのネタは、すぐに中断となってしまった。
「近所迷惑になるから……また今度」
一枚目のフリップをめくる前に、父さんは夕刊を投げ出して、リビングを出て行ってしまったから。
* * *
もうここから見える景色に、新鮮さを感じることはない。ただ今日は、観客席に座っているのは夏鈴さんだけだ。「フィロソフィING」に足を運ぶお客さんの数は、元から少ないのだけれど、ひとりだけということは、いままでない。
「うーん。言いたいことは星の数ほどあるのだけれど、一番に言っておきたいことはね……」
「はい」――〈星の数ほどある〉のネガティヴな用法は、はじめて聞いたかもしれない。
「単調なんだよね。ボケがどれも同じくらいの笑いしか生んでない。見ている方からしたら、『あれ? ずっと同じことをしてない?』みたいに感じてしまう。よくいう言葉を使うと、ただの〈羅列〉になってる」
「どうすればいいんですかね?」
「それは、四条くんが考えること。でも、わたしはこれだけは言いたいな。伏線と起伏を意識すること」
「伏線と起伏……といいますと?」
「これ以上、詳しく言うつもりはないかな。ちゃんと、自分で考えてみて」
伏線といえばミステリー小説、起伏というと山道がまず連想される。ミステリーと山道と言えば事件のにおいが――いや、間違いなくそういう意味ではないだろう。
けっこう自信のあるネタだったのだけれど、三十分にわたりコテンパンにダメ出しをされてしまった。明日の舞台までに、どこまで修正することができるだろうか。来週の合同ライブまでに、そして〈オンワン〉の予選までに、このネタを磨き上げることができるだろうか。
それでも夏鈴さんは、ひとつだけ褒めてくれた。そして、前向きなアドバイスをくれた。
「ツァラトゥストラからネタの発想を得るというのは、おもしろいかも。だけどね、もしこの形式でネタを作るのだとしたら、『誘惑』とか『蠅』の方がいいかもしれない」
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