27. 笑わせたい人がいて
目の前にはキスを待ち構えて目をつむる
このままキスをしたとしても、美月さんに見られていたということを知っているのは、ぼくだけだ。それに、もしここでキスをためらったら、芽依はどう思ってしまうだろう。
いや、大事なのは、ぼくの気持ちひとつなのかもしれない。美月さんにはあとで抗議するとして――ぼくも目をつむり、芽依と唇を重ねた。
ひんやりとしていた。それは室温のせいだろう。だけれど、一秒、二秒……と経つうちに、温もりが生まれてきた。芽依から漂ってくる良い匂いが、頭をよりいっそう、くらくらとさせる。
ぼくは、そっと唇をはなした。十秒くらいキスをしていたような気がする。それが長いのか短いのかは分からない。黒目勝ちな芽依の両眼が、ぼくをじっと見つめている。なにか言いたいことがあるのだろう。
だけどそれは、言葉としてまとまっていないらしい。芽依の
初めてのキス――世界で一番好きな芽依とのキス。幸福でこころが満たされすぎて、思考回路が完全にショートしてしまっていた。
芽依は紅茶の残っているカップの方へ目線を投げたままで、ぼくは
どくどくと高鳴った心臓。顔に朱を差す恥ずかしさ。ぼくたちはもう、勉強をするだけの「理性」を持ち合わせていなかった。
赤点、取ってしまうんだろうな……。
* * *
明日は、
ただし、ひとつだけ条件を提示してきた。
「オンリーワン・グランプリの1回戦で披露するネタをすること」
もうすぐ、日本一のピン芸人を決める〈オンワン〉の予選がはじまる。そろそろ披露するネタをブラッシュアップする時期に入っている。
2回戦、3回戦……それぞれでネタを変える芸人もいれば、一本のネタで準決勝まで押し切っていく芸人もいる。
「長期的に考えると、毎回ネタを変えた方がいいと思う。ネタのレパートリーを増やしていく機会にもなるだろうし。2回戦に進むことができるかどうかは、分からないけれど」
夏鈴さんからオススメしてもらった短篇集は付箋だらけで、ノートは真っ黒になっている。
来週の月曜日から期末テストがはじまるから、合同ライブまでにネタを試すことができるのは、2回だけだ。土曜日と日曜日――夏鈴さんへのネタ見せと「フィロソフィING」での舞台だ。
テスト明けの休日に、合同ライブがある。
いまの段階でもっちゃんから
そして――7月31日が〈オンワン〉の1回戦だ。
合同ライブで披露するネタを持っていくつもりだ。
* * *
金曜日の夜。ぼくは思い切って、リビングのソファーに腰をかけて、夕刊をめくっている父さんに話しかけた。
「父さん」
「……なんだ」
父さんは、新聞から目を離すことはない。
父さんは、ぼくと目を合わすことができなくなってしまったから。
あの事件が起きる前までは、ぼくが良いことをすると褒めてくれた。悪いことをすれば叱ってくれた。よく笑った。悲しい顔はあまり見せなかった。
ねえ、父さん。ぼくのせいなんだよ――そう言ったときの父さんの顔は忘れられない。どういう形容詞も当てはまらない表情。ぼくはすぐに、自分の言ったことを反省した。
《父さんのせいだよ。優理たちがいじめられていることに気付いてあげられなかった、父さんが悪いんだ……》
だけどね、ぼくは〈殴った〉んだ。暴力をふるったんだ。そのせいで、ややこしい事態になってしまった。後始末に奔走しているうちに、父さんは疲弊してしまった。
だからね、ぼくは父さんにたいして、ひとつの義務を負っていると、いまでは――お笑いをはじめてから、気付いたんだ。
父さんを笑わせる。
ぼくは父さんの横に座って、おどおどとしているその顔に真っ直ぐな視線を向けて、芯の通った声を出す。
「明日、芸人仲間の前でネタを披露するんだ。でもその前に、父さんにも見て欲しくて」
「テストが近いんだから、勉強をしなさい」
「いま道具を持ってくるから、見てほしい」
ぼくはリビングを飛び出すと、階段を駆け足で上っていった。どうしてだろうか。涙があふれそうになっていた。
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