24. もう、名前で呼んでいい

 テスト期間中はシフトを入れることができないということを報せると、夏鈴さんは、がっくりと肩を落とし、

「わたしはいったい、誰をからかってストレスを発散すればいいの?」

 と、悲嘆にくれている演技をしてみせた。


「まず、ぼくをストレスのはけ口に使わないでください!……ていうか、大学生って試験とかないんですか?」

「あるよ。あるけど、わたしは地頭がいいから」

「遠まわしに、ぼくが馬鹿だって言ってます?」

婉曲えんきょくに、自分は頭がいいと思ってるの?」

「ええと……夏鈴さんが思っているよりは、いいかと……」


 ごめん、ごめんと、夏鈴さんはクスクスと笑う。


「誰かと勉強会をしたりしないの? 分からないところを聞くことができる友達がいると……ごめん、四条くんに友達はいないんだったわね」

「勝手に決めつけないでください! いますよ!」


 大紀と良彦は立派な友達だ。勉強会をしても教え合うことなんてできないくらい、ぼくとどっこいどっこいの学力だけれど……もう、赤点覚悟でカードショップに入り浸っているし。


「せっかくだからさ、四条くんよりずっと頭が良いっていう、絶賛喧嘩中の彼女さんと仲直りをするきっかけにしたら?」


 ――芽依のことを想う。


 絶叫さんの単独ライブで、ぼくたちは、文化祭で披露したネタをベースにして、即興で漫才をした。そのとき、漫才の相方として芽依とは相性がいいけれど、恋人としては、もしかしたら長続きしないのではないかと、舞台袖で思ってしまった。


 もしあのとき、芽依が「大丈夫」と言ってくれなかったら、ぼくは別れの言葉を放っていたかもしれない。芽依の気持ちをまったく考えていない、自分勝手な言葉を、ぶつけていたかもしれない。


 芽依と長いあいだ一緒にいられないと、芽依に対して考えることすべてに、弱気な気持ちが宿ってしまう。だけど、事態は見事に好転してくれた。


     *     *     *


 最初は、美月さんからの言伝ことづてという形ではあったけれど、芽依はぼくに寄り添ってきてくれた。


『芽依が、今度の日曜日に、うちに来てほしいって』

「えっ……なんで急に」

『女の子が家に誘うってことは、そういうことでしょ?』

『お姉ちゃん! ヘンなこと言わないで! そういうのじゃないから!』

「めっ、芽依?」

『もう……それなら、芽依が電話をしなよ。ほれっ』


 芽依が慌ててスマホを受け取った気配がした。投げないでよ――という抗議の声も聞こえてきた。


「どうしたの? めっ……栗林さん」

『いい。もう、名前で呼んでいい』

「……芽依」

『ひゃっ』

「芽依?」

『ひさしぶりに、名前で呼ばれたから……』


 かわいいねえ――と、美月さんの声がかすかに聞こえてくる。あとはご両人で――という声とドアを閉める音も。


「かわいい……」

『うるさい』

「ごめん、こころの声がでちゃった」

『ばか』


 こういうやりとりをするのは、ひさしぶりだった。いままで抱いてきた寂しさが朝陽を浴びてとけていくのを感じる。


『……優理は頭が悪いから、このままだと全教科で赤点を取るのは必然でしょ? その結果、補修と再テストを受けないといけないでしょ? でもそうしたらネタを作ったり舞台に立ったりできなくなるだろうから、せめて赤点を回避できるように、勉強を教えてあげる』


「芽依とこうして話せることも、勉強に誘ってくれることも、すっごく嬉しいんだけど、ぼくへの評価の低さは相変わらずだね」

『優理は、死ぬ前にようやく、素因数分解が理解できるようになるくらいだろうから』

「ええと……死ぬのはそう遠くはないってこと?」

 折角、仲直りができそうなのに、こんな意地悪を言ってしまった。

『ごめん……』

「芽依……?」


 その「ごめん」は、ぼくを罵倒するだろう。でも、どんなことを言われても(芽依だから)傷つかないし、罵倒のレパートリーの豊富さには感心するくらいだ。さすが、ネタ作りのほとんどをしてくれていたくら――


『そういうつもりじゃなかったの。優理が死んじゃったら、わたし……』

 えっ? まさかぼくのことを、真剣に想ってくれているの?


『第一発見者になるから疑われちゃう』

「他殺かよ!」

 そんなことだと思ってたよ。でも芽依はこうじゃないと。


『ごめん、うそ。悲しいから。ずっと、優理と一緒にいたいから』


 きっと、ぼくの顔は真っ赤になっていることだろう。体温計がエラーを起こして、額に乗せた氷が蒸発してしまうくらいに。

 そしてぼくは、喜ばしいことに、芽依の家でテスト勉強をすることになった。


     *     *     *


 ところで、バイト終わりに、夏鈴さんからオススメの文庫本を教えてもらった。


「四条くんは、長篇小説を読み切ることができないだろうから、短篇集を選んだ」

 と、軽くディスられはしたのだけれど、実際、の長篇は、読破する自信がなかった。だけれど、どうしても近代文学を読む必要があった。


 マハが敷いたレールの上を走る――ぼくも、もっちゃんと同じように、ネタのヒントを近代文学に求めてみようと思い立ったのだ。

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