23. もっちゃん
フリップ芸――イーゼルや三脚の上に何枚もの紙の束を置いて、紙芝居のようにめくっていくこともあれば、スケッチブックを使うひともいるし、スクリーンに映像をうつしてプレゼンのように画面を切り替えていく技法もある。
イラストや文字を描いた(書いた)用紙が相方となり、ボケになり、ツッコミにもなる。間違えて次の次のところまで一緒にめくってしまったり、遠くの席からは見えにくかったりと、緊張や環境に打ち勝つことができるかという、己との勝負な一面もある。
ぼくの尊敬する漫才コンビであるヴィ・バ・ラは、方向性の違いで解散した。その後、ボケのユアは芸人の世界から去り、ツッコミのマハはピン芸人として活動を開始した。しかし、マハは一度も「地上」へ
そんなマハも、ピンになってからはフリップ芸をしていたとのことだが、どこにも映像が残っていないし、記録を見つけることもできない――と、お笑いフリークのブログには書いてあった。だから、フリップ芸をしていたというのは、
仮に、フリップ芸をしていたとして、いったいどんなネタを作っていたのだろう。深い近代文学の素養を武器に、元来の形式にとらわれない、革新的な設定を作り出す彼女のネタは――ユアを失った後の彼女のネタは、観客席に、どのように響いたのだろう。
しかし、これだけは強調しておきたいのだけれど、どんな芸人のネタも、だれかの記憶には残り続ける。マハのツッコミは、上方の漫才師ダイナマイト柑橘類に受け継がれ、そしてぼくのツッコミの雛形となっている。
いま、どこで、なにをしているのかなんて分からない。だけれど、マハという芸人が、いなかったことになるわけではない。
* * *
予選落ちさんの知り合いであり、ピン芸人であり、フリップ芸をしている「もっちゃん」は、暴飲暴食の果てに、ぶくぶくと太ってしまい、本の読みすぎで眼が悪くなり、度のきつい眼鏡をかけていて、彼女いない歴三十四年の34歳で――とんでもなく、おもしろい人だった。
そして、マハイズムの継承者だった。
「これからするネタには、実在の人物を連想させるひとがでてきます。きっとお客さんのなかに、あの人だなーと思いつく方がいるかもしれないですけど、ご内密にしてくださいね」
という
このネタの形式は、芥川龍之介の『或阿呆の一生』を参考にしたのだという。そして、そうした近代文学にネタの材料を求める方法というのは、マハから学んだものだと言っていた。
なによりすごいのは、もっちゃんのネタは、だれかを傷つけることがないように作られているということだ。
誰かのゴシップを掘り返すことも、容姿や性格をいじったりすることもしない。時事問題に乗せて、思想やイデオロギーを訴えることもない。ヘンな言い方になるけれど、どこかほほえましい。
こんな人生あったらいいな――みたいなものを、精一杯に書き連ねている、
「もっちゃんのあとに、ネタをやりたいなんてゆうやつおらん」と、予選落ちさんは言う。
本当にそうだ。あんなにウケているのを見せられたあとに、ネタを披露したいと誰が思うのだろう。もっちゃんより、おもしろいネタができるわけがないと痛感させられるのだから。
でも、不幸なことに、合同ライブの
「だって、自分が最後で、スベったら嫌だし……」
下を向いてもごもごと言うもっちゃんの横で、焼き鳥の串をフルートのように持って鼻歌をうたっている、予選落ちさん。まだ昼だというのに、すでにできあがっている。
「いやいや、あんなにウケてるじゃないですか」
ベートーヴェンの
「たぶん、
「そんなことないですよ」
「四条くんだって、こころの底では、僕のことを蔑んでいるでしょ?」
もっちゃんは、聞いていた以上に、自己評価が低いひとだった。
「僕なんて、いいネタを書けないし、間も悪いし、しゃべりも下手だし、童貞だし……」
「最後の関係ないでしょ!」
「ちなみに、こいつは童貞やないで」
「予選落ちさん! 余計なこと言わないで!」
「ほら! 僕のことをせせら笑ってるんだ!」
「違いますよ! ぼくも童貞ですし!」
おい! なに言ってんだよ、ぼくは!
ところで、会場をおさえたり、照明さんや音響さんを集めたり、金銭の管理だったり、フライヤーの準備だったり……そうしたことは、もっちゃんがすべてやってくれているらしく、ぼくはネタ作りだけに集中すればいいとのことだった。
しかしよく考えてみれば、合同ライブの前日まで、期末テストが行われる。将来的に進学を予定しているし、親とは学業の両立ということでお笑い活動を許してもらっているから、適当に済ませることはできない。
予想以上にタイトな日程になりそうだけれど、やるしかないのだろう。まさかこんなに忙しい日々が訪れるなんて、一年前には思いもしなかった。
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