19. あとは、任せてください
「こわい、こわい、こわい、こわいこわいこわいこわい、こわい……」
ネタが終わり楽屋に帰ってきた絶叫さんは、急にうずくまり、また立ち上がったと思ったら、頭を抱えてあちこちを歩きはじめた。
「これ終わったら、病院に連れてくわ」
「そうしてくれると助かる。でも、診察の時間とか、そもそも何科に行くべきなのかとか、そういうことが……」
「とりあえず、デカい病院にいくわ」
デリートさんと西岡さんが、痛々しい絶叫さんの姿を見ながら、そんな打ち合わせをはじめた。
「いますぐに、連れて行ってください」
ぼくは、ふたりを前に、そう言い切った。
「ユーリ! 大丈夫だ!」
絶叫さんは、こんな近い距離にいるのに、絶叫した。
「大丈夫なわけないだろ!」
思わずぼくは、絶叫さんにつかみかかった。
「デリートさん、西岡さん! はやく連れて行ってください!」
「おい、やめろって!」
西岡さんが、ぼくと絶叫さんの間に割って入ってくる。
落ちつかずに歩き回る絶叫さんを見たとき、なにより先に浮かんできたのは、あのときの父さんの姿だった。父さんも、ある日突然、不安がにじみ出た顔をして部屋中をうろつきはじめた。
「むり、むり、むりむりむりむりむり、むりむり、むりむりむりむり」
ぼくはむかし、ひとを殴ったことがある。ぼくと妹をいじめていたやつを、ぶん殴った。ぼくはそのとき、はじめてひとを殴った。それは、あまりにも大きな苦しみをともなう体験だった。だからもう、殴るなんてしないと決めた。
だけどいま、目の前のひとを張り倒そうとしてしまうほどの激昂が、ぼくを襲っている。冷静を装うことができない。だって、ぼくはこの症状のことを知っているから。苦しみと悲しみ、不安と恐れ、あらゆる感情にぐちゃぐちゃにされて、昼間が夜の底に変わる。
でも、そんなことは、みんな知っているわけではない。それなのにぼくは、先走って、絶叫さんを、いますぐ病院に連れて行ってくれと叫んでいる。愚かだよ、ぼくは。でも、大切なひとなんだ。だから、お願いだから無理をしないでほしい。
ぼくの影の上に、ボタボタと涙が落ちていく。子供のように泣いているぼくを、西岡さんは抱き起こそうとする。けれど、ぼくは床へとへばりついたまま、離れることができない。
「ユーリ、大丈夫だから、大丈夫だから……」
大丈夫じゃないよ、絶叫さん。ぼくの背中をさすっているその手が、どうにもならないくらい震えているし、冷たいのが伝わってくる。
「大丈夫じゃないですよ」
「大丈夫だから」
泣きべそをかいた声で、ぼくは語りかける。
「また、今度がありますから。次のチャンスはありますから。だから、いまは休みましょうよ。正直、こんな状態の絶叫さんに、ツッコむことなんてできないですよ」
ツッコむことなんてできない――その言葉とともに、絶叫さんの手が止まった。そして、すっと糸がほどけたような声で、「わかったよ」と言った。
ブリッジの長さにざわつきはじめた観客席。これも演出の一環なのか、それともトラブルなのか。期待と不安が入り混じった感情に、そわそわとしている様子だ。
「あとは、任せてください。ぼくが、爆笑をとってきますから」
* * *
最後のネタ――ぼくと絶叫さんの漫才は、幻となってしまった。
またもやぼくは、べつの相方を横に、漫才をすることになるだろう。きっと来てくれる。そんな予感がする。ぼくは、舞台の上から呼びかける。手を差し出す。
「栗林さん、ぼくと漫才をしてください」
あの日――芽依を校庭に呼び出した日。最初は告白と勘違いされて、冷淡な視線を投げかけられた。「また告白されるの?」と、うんざりとしたような表情をしていた。だけどぼくは、良彦と大紀の意志を継いで、文化祭で漫才をするために、芽依を相方にしたいと打ち明けた。
ヴィ・バ・ラという漫才コンビのネタを、一人二役でまるまるパクって目の前で披露してみせた。すると、そのおかしさからか、役を引き受けてくれた。そしてぼくたちは、様々な困難――周りからの好奇の目に、初めての漫才での苦い経験に、喧嘩別れに――を乗り越えて、漫才を披露した。そして、ひとまず解散した。
急にこんなことを言われて、さぞ戸惑うことだろう。というより、あのときのネタを覚えていないかもしれない。ぼくだって、完全に思いだすことができない。
けれど、ぼくたちならできる気がするんだ。あれだけ苦労をして作り上げたネタを、すべて忘れるわけがない。やっていくうちに、ひとつの漫才として歩き出すと思う。
ぐちゃぐちゃになってしまった絶叫さんの単独ライブ。それでも、だれもこの場から立ち去ろうとしない。だから、観客席のひとたちに誠実でありたい。たくさん笑ってから、家路についてほしい。
そのために、いまぼくが、漫才をできる唯一の相手は、芽依しかいない。
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