17. 振り払った手
絶叫さんは、なんとか来られるみたいだった。
だけど、到着するまであと少しかかるらしい。2時間のライブのうち、1時間くらいしか、絶叫さんのネタが見られない。観客のひとたちは、いったいどう思うだろう。でも、もしかしたら、いまの絶叫さんは、1時間でも舞台に立つことは難しいかもしれない。
舞台裏に帰ると衣装に着替えているデリートさんがいて、ブリッジの音楽に急かされるように、早口でネタの確認をしていた。近くにいたから、急きょ繋ぎできてもらったのだと、西岡さんが説明してくれた。
「これが終わったら、たらふく酒を飲ませてもらうからな」
デリートさんは、「もうひとりの前座がきました」と言う顔をして舞台に上がった。ぼくは袖からデリートさんのネタを見ることにした。ピン芸人の大先輩のネタは、絶対に見ておきたい。
デリートさんは、パジャマ姿で眠そうなそぶりを見せながら、家のポストを開ける。そこに家とポストがあるということが分かる演技は、ものすごい完成度だ。そして、中に入っていた封筒をはさみで切る。
ここまでが「フリ」だ。このあと笑いが起こるかどうかは、届いた報せの内容に左右される。
手品のように気づかないうちに手に持っていたA4用紙を、観客に見やすいようにバッと広げて、デリートさんは「絶叫」する。
「督促状に、世界観を出すなあああああ!」
A4用紙には、シュールレアリスムなデザインの中に、奇怪なフォントで借金額が書かれていた。120万円。よく分からないけれど、たぶんリアリティのある数字なのだろう。
デリートさんが督促状を破り後ろの方へと放ると、ライトに透かされて、吹雪のようにきらきらと
電話をかけていると分かるジェスチャーとオノマトペ。なかなか繋がらないと思いきや、すぐに繋がるというところに、借金をした相手が想像される。きっと、怖い取り立てをする人たちなのだろう。
それなのに――いや、だからこそ、強気な口調でデリートさんは怒鳴る。
「シリアスな場面で、プログレッシブロックを流すなあああああ!」
デリートさんは、始終こんな感じで、芸術センスのある取り立て屋とのやりとりを、見事な演技力で続けていく。
この演技力と世界観を、ぼくは尊敬していた。細部の作り込みや、伏線を見事に回収する技術にも圧倒させられた。デリートさんの出番のときは、必ず袖でネタを見ている。
「さっきからお前の脅し文句に、秋の季語が入り過ぎだろおおお! あと、自由律俳句で脅してくんなあああ!
デリートさんのネタ数は多い。だけど、こうして絶叫をしているネタはあまり見かけない。たぶん、絶叫さんの単独ライブだから、あえてこのネタをしているのだろう。
ねえ、みんなが絶叫さんの不在を、なんとかして埋め合わせているのだから、早く来てくれよ。
そのとき、目の前にうっすらと影ができた。ぼくの後ろにだれかが立ったということに気づく。その主がだれかなんて、分かりきっている。
「ユーリ」
絶叫さん――ようやく、主役がきた。
だけれど、その顔色はあまりに悪かった。あのときのように、レプリカの包丁を持っている。ぼくが最初にみた、あのネタをするのだろう。でもいまは、その包丁があたかも「本物」に見えるくらいに、絶叫さんの体調となじみきっている。
「笠原くん、水を持ってきた」
舞台ではデリートさんが声を張り上げ、観客席でも笑いが響いている。
公園の自販機で買ってきたのであろう水を西岡さんから受け取り、絶叫さんはポケットから薬を取り出し、なんのためらいもなく胃の中に落とした。
「お笑いのセンスが上がる薬だよ。ドーピングしてんの」
そんな冗談が通じる状況じゃないのが分からないのか?
きっとぼくは、とんでもなく険しい顔をしていたのだろう。絶叫さんは、少しひるんだような仕草をして、無理に笑って見せた。
「酔い止めだよ。これを飲めば大丈夫だから、心配すんな」
怒りや不安がごちゃまぜになって、うつむいてしまったぼくの頭を、絶叫さんは乱暴に
ぼくはその手を、振り払った。
なぜ、そんなことをしてしまったのだろう。大事ななにかをなくしてしまった――そんな後悔が、
ごめんな――そう言い残して、デリートさんに代わり、絶叫さんが舞台に上がる。
あの乱暴に吹かれる尺八の音色が、イライラするくらいにはっきりと聞こえてくる。
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