15. 3回目の漫才
前説を担当するのは、まだ名が知れ渡っていない芸人がほとんどだ。「前説芸人」と言われることもある。しかし、そんな「前説芸人」がいなければ、テレビ番組のおもしろさは減退してしまうと言い切れる。
また、お笑いのコンテストの予選では、出場する芸人がネタを披露する前に、観客を温める役としてベテラン芸人が呼ばれる。
ベテランの技で、観客の笑う準備を見事に整える。だから、たとえネタ順が最初になったとしても、おもしろければ、ドカンと笑いが起こるようにお膳立てされているのだ。
決して主役とはいえない芸人たちだけれど、その人たちがいなければ、笑いが起こる空間は生まれない。
* * *
西岡さんは、絶叫さんとの電話に気を取られていて、ぼくが舞台に上がろうとしていることに気付かないみたいだった。
ぼくは堂々と、舞台の上に足を踏み込んだ。幕はもう上がっていた。オープニングの曲は流れない。目の前には、いつもとは違い多くの観客がいて、ぼくの方を凝視している。
好奇の目――そのなかに、特別な視線でぼくを見ているひとがいる。たえずグラデーションを往復させている視線。それはもちろん、芽依の眼差しだった。
久しぶりに芽依と会うことができた。しかし彼氏と彼女という関係ではなく、演者と観客として
衝動に突き動かされて舞台に上がったけれど、絶叫さんが来られないかもしれないということを、どういう風に話せばいいのだろう。そして、どう笑いに繋げていけばいいのだろう。足がすくむ。
もう、逃げることはできない。この場でなにかをしなければならない。そんな不安そうな目でぼくを見つめないでよ、芽依。大丈夫だから――大丈夫じゃないけれど、なんとかするから。
大紀と良彦は、ぼくと周りの様子を忙しなく見まわしている。美月さんは、どこか落ち着いた様子でいる。「こういうとき、なにをしてくれるのかな?」とでも思っているようだ。もうすでに、舞台裏での混乱を看取しているのだろう。
その場で泣き崩れてしまいそうなほどに、怖かった。一歩も動くことができなかった。すると急に、尺八を乱暴に吹いたような曲が流れだした。ネタ前に流す予定でいたテーマソングだ。
会場にいるだれもが、なにが起こっているのか分からなかっただろう。ぼくだって、戸惑ったし、意味が分からなかった。
舞台袖から姿を現した西岡さんは、右手で持ってきたセンターマイクを、舞台の中央に置いた。
「俺がリードする。お前はツッコミに集中しろ」
西岡さんは、こっそりとぼくに耳打ちをした。すっかり漫才師の顔になっていた。ぼくは無言で頷き、西岡さんが第一声を発する前に、大声を張りあげる。
「どうもー! 『四条と西岡』です。よろしくお願いいたしますー!」
突然スイッチの入ったぼくを見て、西岡さんは、ぼくにだけ分かるぎりぎりの声で笑った。
「せっかく前座を任せていただいたわけですから、楽しく漫才をやっていきましょう!」
なんの打ち合わせもしていない。それでも、西岡さんは口火を切る。
「こんな狭苦しいライブハウスにこれだけたくさんの人が来てくださったわけですからねえ……暇なんですかね?」
「思ってても、言わないでください!」
「毎日これくらいのお客さんがいるといいんですけどね」
「そうですねえ」
「ほんと、いつも暇人の集まりを見てみたいですね」
「お客さんのことを『暇人』呼ばわりするのを止めましょうね」
「じゃあ、『お暇な方々』がいいですかね」
「暇って言うのが問題なんですよ、分かります?」
ぼくたちは、お互いの呼吸を探り合いながら、蛇行していく。
西岡さんは、どこでボケのアクセルを踏むかで迷っているようだった。
よくある「客いじり」からはじまった漫才は、前座としての役割を逸脱しない程度の話題へと進んでいった。しかしどこかで、一山を作らなければ、この漫才は漫才として合格点を出すことができない。
よく考えてみれば、これが大勢の人の前で披露する漫才としては、3回目だ。最初は琥珀紋学院大学の学祭、そして次がうちの高校の文化祭。だからこれは、それ以来の漫才になる。
しかし、お客さんからしてみれば、そんなことはどうでもいいのだ。おもしろいか、おもしろくないのか。笑えるのか、笑えないのか。その指標を左右するのは、漫才の内容でしかない。
このままでは、ダメだ。素人のぼくにだって分かる。平坦な道を悠々と歩いている。どこかで、一気に駆けださなければならない。だけどその一歩が、なかなか踏み出せない。
ぼくたちの即席の漫才は、このまま自壊してしまうのだろうか?
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