14. 単独ライブの当日

「もしわたしが芽依めいだったら、どれだけ幸せだろうな」


 公園のベンチ。美月みづきさんは、ぼくにもたれかかってきて、ほほをすり寄せてくる。ぼくの手を包みこむように握ってくる。


 この世の美しい花のすべてが憧れる、高嶺の花――美月さんは、どんどんぼくに身体を密着させてきて、耳元に「ふー」と甘い息を吹きかけてくる。


「かわいいね、は」

 ぼくにしか聞こえないように、耳に唇がふれるほど近くで、そうささやいてきた。もう一度、「ふー」と息を吹きかけられて、頭がくらくらとしてしまう。


「ねえ、わたしじゃダメなの?」

「えっ?」

「わたしは、芽依にできないことを、なんでもしてあげられるけど?」

「なんでも……」

「信じられないかもしれないけれど、いま、わたしの人生で、一番の恋をしているの……優理くんのことが、好きなの」


 身体の芯が抜けてしまって、美月さんから受ける刺激に身をゆだねるだけになってしまう。美月さんの甘ったるい息が頬をかすめたかと思うと、ゆっくりと唇が迫ってくるのを感じとる。


 オトコならだれもが憧れる、あの美月さんのキスが、ぼくを待ち受けている。


「ぐわあっ!」


 頭上からとスマホが落ちてきて、夢の世界を砕いてしまった。床に落ちたスマホはたえず震動し、まだ日差しのささない部屋のなかで、細かくうなっている。


 ロック画面の時間の上に表示されている日付をみる。間違いない。今日が、絶叫さんの単独ライブの日だ。


 いつの間にか床で寝てしまっていたのも、スマホが落ちてきたのも、絶叫さんの「念」みたいなものが、伝わってきたからなのかもしれない。


     *     *     *


「フィロソフィING」の入口に、単独ライブを報せる看板がでている。大々的に宣伝したわけではないのに、お客さんの数はいつもより少し多くて、このライブハウスの常連でない人の姿もちらほら見えた。


 楽屋の上にしつらえられた旧型のテレビには、舞台の光景が映し出されており、西岡さんが音響や照明の確認作業をしていた。


 オープニングやブリッジに流す映像や音楽は、夏鈴さんを通してプロの方が作ってくれたらしく、そのクオリティは目を見張るものだった。


 しかし、あと十五分くらいで開演となるにもかかわらず、絶叫さんの姿が見えない。スマホを確認する回数が増えていく。だが連絡は入ってこない――と思ったら、


《きーたよっ!》

 と、変装をした美月さんの自撮りが送られてきた。嫌そうに顔をそむけている芽依の姿もある。


 絶叫さんが来なくて気が回らないぼくは、〈ありがとうございます〉とだけ返して、何度もテレビの横の掛時計を見たり、外の様子をうかがったりした。


 窓を開けてみると、日差しの強い晴れわたる青空のなか、子どもたちの喚声かんせいが、公園の方から聞こえてきた。


 開演5分前。メッセージが届いた――と思ったら、それは、良彦からのもので、

《大紀と来たぞ。今日はがんばれ》

 と、ぼくを気遣ってか、事務連絡のような文面だった。


「あれ? 笠原くんはまだ来てないの?」

「はい。連絡も全然こなくて……」

「参ったなあ。電話をかけてみてくれる? 寝坊をしたのかもしれないから」

「分かりました!」


 スマホを取り出すと、おりしも絶叫さんから電話がかかってきた。びっくりして床に落としそうになった。


『ユーリ、助けてくれ……』

「どっ、どうしたんですかっ?」


 尋常ならざる深刻な声。絶叫さんの息づかいは荒い。


『怖いんだ……朝起きたら、見える景色が妙にしんみりしてて、と思ったら急に、死ぬかもしれないなんて気がして、そうしたら急に呼吸が苦しくなって、身動きが取れなくて……』

「きゅっ、救急車を呼んでください!」

『怖い……』

「なに言ってるんですか! はやく、病院にっ!」

 ほとんど叱りつけるように、絶叫さんに呼びかけた。


「おい、どうしたんだ? 救急車? 病院?」

 事務室からでてきた西岡さんに、いまの状況を説明して、スマホを手渡した。


「笠原くん、大丈夫なのか? うん、うん、もうお客さんは入っているけれど……いまさら中止とはいかないし、いったい、どうすれば……」


 もう、開演まで時間がない。絶叫さんは、いつ来るか分からないし、そもそも来られるのかさえ不明だ。


 だとしたら――ぼくは、覚悟を決める。ひとりで舞台の方へと向かう。


 いま、しなければならないことは、笑うためにここへ来てくれたお客さんを、がっかりさせないことだ。

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