13. 美月さんとの約束
「フィロソフィING」で開催されるライブに参加する芸人たちの中で、SNSのアカウントを持っているのは、
じゃあ一体、お客さんはどういう経緯で「フィロソフィING」に来るのだろう。さらに疑問なのは、わざわざホテルを予約してまで遠方から訪れるひともいることだ。
ともかく、知る人ぞ知るライブハウスだし、お笑い通だって知らないかもしれない芸人ばかりがネタをしているところだから、急に目立ち始めると、みんなが混乱してしまうかもしれない。だから――
「ということで、SNSとかに投稿しないでいただけると助かります」
「えー、そんなルールないんでしょ。ネットで見たら、映えそうな外観だったし、写真をアップしたいんだけどなー」
「ルールはないんですけど……なんというか、オーナーがてんやわんやしちゃうと思うので……」
SNSのフォロワーが100万人を越える
「でも、四条くんのネタを見にいくのはいいんだよね?」
もちろん、それを拒絶する権限はぼくにはない。
それに――ぼくは、こう思うのだ。
笑いたいと思うひとを笑わせることが、芸人のあるべき姿であって、笑っていいひとと、そうでないひととを、なんらかの指標をもって選別するような芸人は――もしくは、お前にはこの笑いが分からないだろうと冷評するような芸人は、芸人として認められない。
だからもし、ぼくたちのネタを見たいと思ってくれるのなら、それを拒絶することはしない。けれど、美月さんが来るからという理由では、来てほしくない。
ぼくたちのしていることは、ある意味で分かりやすいのだ。
目の前にいるひとを笑わせること。笑いを起こすことができるひとこそが、芸人の鏡だ。
「もちろんです。来てくると嬉しいです」
「でも、わたし目当てのひとには来てほしくないってことだね」
「そうです……ごめんなさい」
「なんで謝るの? そういうとこ好きだよ、わたしは」
美月さん?――なんで、ぼくの頭を撫でているの? なんで、ぼくを抱きしめているの?
パシャリ。シャッターを切る音がした。
「この写真、芽依に送るね。《彼氏を取っちゃったぞ》って」
「…………」
「ええと……四条くん? ツッコんでくれないと、いたたまれないんだけど」
「ごめんなさい! 血の気が引いてしまって!」
「いつものように、『なにやってるんですか!』とか言ってくれないと、わたしも動揺するじゃない!」
美月さんは、あたたかくて、こうしていると、不思議とすっと気持ちが楽になる。甘えてしまう。このままでいたくなってしまう。
「こらこら。芽依に見られたら今度こそ弁解できないわよ。もう離れなさい」
「わっ! ごめんなさい!」
このまま後ろを振り返って、そのまま帰ってくれたら、どれくらいありがたいだろう。もう、美月さんの顔を見ることができない。
「……この前のことは、ほんとうに悪いと思っているわ。四条くんにも、もちろん芽依にも。だから、仲直りができるように、わたしからも微力ながら手伝わせてもらいたいの」
ぼくたちの仲違いは、元はといえば、芽依の家の前で美月さんといちゃいちゃしていた(実際は、美月さんにからかわれていた)ところを見られたことから始まっている。
「四条くんのかっこいいところを見せて、もう一度
ほんとうに来てくれるかどうか分からず、気がかりだっただけに、美月さんに協力してもらえるなら願ったり叶ったりだ。
「でも、芽依と出かけるからとか、ウソをついてごめんね。そうでもしないと、来てくれないかもしれなかったから。ちゃんと会って話すのが誠意だと思ったから……ね?」
美月さんが背負った影が、少しだけ傾いた。ぼくは、ゆっくりと顔をあげる。
肝心のネタといえば、すべてアドリブですることに決まってしまったし、スベってしまうのではないかという不安もある。
だけど、こうした困難に立ち向かわなければならないシーンは、これから先、何度もあることだろう。
これから先――そうだ、ぼくの目標は、ずっとずっと遠くに、もっともっと深くに設定するべきなのだ。夏鈴さんが教えてくれたように。
その目標というのは、まだ漠然としているけれど、今回の舞台は、目標に向かうためのワンステップだと考えてみたらどうだろう。
夕陽のでかかった空には、輪郭をきらきらとさせた、いくつもの白雲があって、ぼくたちを影に投げ入れたり、明るみに引き出したりしている。
美月さんは、男の子をイチコロにしちゃうウインクをして、「じゃあね!」と手を振り、帰っていった。
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