07. ダブルボケ・ダブルツッコミ

 漫才師の日本一を決める大会――通称「漫才ワン」は、その何十年もの歴史の中で、と言われるものをいくつも残してきた。


 審査員はもちろん、観客、視聴者に大きなインパクトを与えるような漫才は、「漫才ワン」の歴史のダイジェストでもピックアップされる。


 この大会で唯一、審査員のひとりから「100点」という採点を受けたコンビがいた。この大会の歴史上「100点」という数字が出たのは、いまのところこのときだけだ。


 そのコンビのネタは「ダブルボケ・ダブルツッコミ」のスタイルが採用されていた。目まぐるしく変わるボケとツッコミの応酬は、観る者を圧倒し爆笑のうずに巻き込んだ。


 しかしこの年、彼らは優勝をすることができなかった。上位3組の決戦ステージでの2本目のネタが、他のコンビのものより審査員に評価されなかった。


 たとえ「100点」を叩きだす漫才をしても、優勝をすることができるとはかぎらない。そこに、この大会の難しさがある。


 漫才の調子と会場の雰囲気がぴたりと合えば、とんでもない爆発力を発揮する、まくしたてるような「ダブルボケ・ダブルツッコミ」は、熟練の技術が必要なもので、絶叫さんはともかく、ぼくにできるはずがない。


 それでも絶叫さんは、このスタイルでのユニット漫才をすることに決めた。

 即席コンビでできるものなのか?――という疑問は、ぼくにつきまとう。


「土曜日は朝から夕方までネタ作りをするから、そのつもりでこい」

 絶叫さんは、あの精悍せいかんな表情で――漫才師の顔つきで、ぼくを見据みすえている。


「緊張しろよ」

「すんなよ……じゃないんですね」

「当たり前だろ」


 ぼくは目を伏せて考える。言いたいことがひとつだけある。

 絶叫さんは「言っていいぞ」という目をぼくに向ける。というより、「言うまで帰らせないぞ」というすごみを感じる。


「ぼく、漫才をしていいのか分からないんです」

「元相方のことだろ、前聞いたよ。オレからすれば、だからなんだよって話だけど……気持ちは分からなくもない」

「ほかの人と組まないと約束したんです。だから……」

「一度限りのユニットだよ。コンビ結成というわけじゃないんだから」

「そうなんですけど、ぼくのなかでもやもやとしたものが、どうしてもあって」


 折角の誘いに対して乗り気にことが、申し訳ない。ほんとうに失礼だと思う。絶叫さんと漫才はしたい。胸を借りたい。だけどそのあとに、残響のように、あの日の約束が思い起こされる。


『組まないよ。だって、ぼくの相方は、栗林さんだけだから。たとえ将来、栗林さんが、もう漫才はしないということになったとしても、まだ1パーセントでも可能性があるのなら、ぼくの横に、栗林さんが立てるスペースを作っておきたい』


 ――あの日、たしかにぼくは、芽依の前でそう約束したのだ。


「だったら、その子としっかりと話すことだな。ユニットで漫才をすることになるって。なんでも話し合いをすることが大事だぞ。そうしないと、取り返しのつかないことになる」

「取り返しのつかないこと?」

「……取り返しのつかないことは、取り返しのつかないことだよ」


 きっとなにかがあったのだろう。深入りしてはいけないなにかが。

 絶叫さんは、ぼくの背中をトントンと叩いて、先に帰ろうとする。


「あっ、デリートさんが奥で待ってますよ」

「笹岡が? なんで?」

「絶叫さんの打ち合わせが終わったら、一緒に飲みに行くって言ってました」

「…………」


 口元に人差し指を持っていった絶叫さんは、足音をさせないように慎重にドアのところまで来ると、ノブをゆっくりと回した。が、そのとき、鈴のようなものが上から落ちてきて、床の上で音が弾けた。


 どうやらひもでかませてあったようで、ドアを開けると落ちてくる仕組みになっていたらしい。


「笠原! 行くぞ!」


 引き戸が一気に開け放たれて、奥の畳部屋からデリートさん(笹岡さん)が、ずかずかと歩いてきた。


「今日は遠慮しとくわ」

「なんでだよ。前から約束してただろ」

「急に飲む気がなくなったから」


 きっと、漫才モードになっているからこそ、大好きなお酒より「お笑い」を優先したいのだろう。頼もしい――と思ったのだが、


「さっき2人の子とやれることになったんだよ!」


 と、いつもの調子の絶叫さんに戻ってしまっていた。


 芸人らしいといえば芸人らしいけれど、ちょっとはお笑いのことを――いや、これでいいのだ。絶叫さんは、こうでなければ。

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