02. 偶然・奇跡・運
芽依から「今度、わたしの家にきて」と言われたとき、ぼくはその場でフリーズし、いままで妄想してきた「彼女の家」を舞台にしたシチュエーションが、高速で脳内に展開していった。
「どうしたの? イヤなの?」
「いえ……この上ない
「びっくりした。優理が『僥倖』という言葉を知っているなんて。だれに教えてもらったの? ほかのオンナ……だったら、僥倖の対義語に相当する言葉をすべて味わわせるから」
ひどい言われようだ。「僥倖」くらい聞かないこともないだろ。相変わらず、ぼくへの評価が低いなあ――けど、芽依のことならほとんどのことを許せてしまう。
名実ともに学校一の美少女である芽依と付き合うまでには、長い道のりがあった。それは、時間にすれば短いものだけれど、あまりにも内容の濃いものだった。喜怒哀楽すべての感情を、痛いほどに味わった。
「ぼくには、芽依しか見えていないよ」
「…………」
「好きなのは、芽依だけだよ」
「…………」
「だから、安心して」
「ばか……でも、わたしも好き」
閉鎖された屋上へと続く階段で、火災報知器が鳴るんじゃないかと思うほど、ぼくたちは煙を出すくらいに赤くなった。
* * *
栗林家の外観は、マンガの世界の金持ちの家――よりはいくらか庶民的だったけれど、傷ひとつ寄せつけようとしない高級感と、品のいい貴婦人のような雰囲気があいまって、チャイムを鳴らそうにも、その圧倒的なオーラを前に、人さし指が前へと押し出されなかった。
ずっと固まっていると、もうすっかり聞き慣れた声が、後ろからぼくに呼びかけてきた。
「あれあれ、芽依の彼ピのわたしの彼ピッピじゃん。どうしたの? 昼なのに夜這いしにきたの?」
「彼ピッピって……いつの間に、ぼくは、美月さんの彼氏候補みたいなのになっているんですか!」
「わたしに好きになられるのは、嬉しくないのかなー?」
「そんなことはないですけど……じゃなくて!」
「あれー? ツッコミの腕がなまっちゃった? 夜這いの方をまずツッコまないと」
「通ぶってる常連客みたいな感じで言わないでください!」
「すごい! たとえツッコミだ! よく分からないけど!」
「白々しく拍手しなくていいで――」
「へえ……嬉しいんだ。そうなんだ。じゃあ、お姉ちゃんと付き合えば?」
今度は家の方から声が聞こえてきて、おそるおそる振り返ると、やはりそこには芽依が――怒りの表情をみなぎらせている芽依がいた。
「まあまあ、とりあえず家に上げてあげなよ。話はそれから」
と、美月さんはフォローしてくれたが、芽依は「今日は帰って」と冷ややかに言い放つと、家のなかへ引っ込んでしまった。
「朝から一生懸命服選びをしていたのに……サイテーね、わたしの彼ピッピは」
「一体だれのせいだと思っているんですかっ!」
「偶然、ナカグロ、奇跡、ナカグロ、運――じゃない?」
「なに『銃・病原菌・鉄』みたいに言ってるんですか!」
「ウソでしょ……なんで優理が、ジャレド・ダイアモンドを知ってるの……文庫本の一頁を読むのに4年かかる優理が……」
「芽依の口調を真似しなくていいですから!」
と言っても、芽依の――じゃない、美月さんの驚きももっともだと思う。うぬぼれるわけではないけれど、『銃・病原菌・鉄』を知っている高校生というのは珍しいだろう。無論、読んでないけど!
「あらー、ほかのオンナのにおいがするわー。まさか、書店員さんとかと不倫しているんじゃないわよね?」
「そっ、そんなわけないじゃないですか!」
勘のいい美月さんに「秘密」を見破られないように、平静を装う。いや、不倫しているわけじゃないのだけれど、夏鈴さんのバイト先で働くことになったのを、芽依に言えずにいたのだ。
オシャレだけでなく本も好きな夏鈴さんからは、一方的に、たくさん本の話を聞かされた。そのなかに偶然、さっきの本のタイトルがあったのだ。
たぶんバレなかったと思うけど、美月さんはため息をついて、両手を合わせてきた。謝ってくれるんだ――と思ったが、
「どうか成仏してください」
と、まだふざけるつもりらしい。
「いまは未練しかないですね!」
悲しいかな、いままでのクセでツッコミを止めることができない。
「悪霊退散!」
「どっちが悪霊なんですかね!」
「じゃっ、わたしもそろそろ家のなかに入るから。またね!」
「ちょっ、えっ、ぼくはこのまま帰るんですか?」
「だって、芽依に『帰って』って言われたじゃん」
「そうですけど、そんな……せっかく……」
美月さんは、もう一度両手を合わせて、「ごめん、ごめん」と、軽い調子だけど謝ってくれた。
「芽依には、わたしから言っとくから。ほんとうにごめんね」
なんだろう。ふざけてもらわないと、こっちが気後れしてしまう。
ぼくはもう、「ツッコミ」から逃れられないのだろう。
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