とある日の記録

冬の分岐点

 夜道を歩くのは久しぶりだ。

 子どもが生まれてからは、一人で歩くということもほとんどなくなった。だからこうして夜道に一人でいるのはおよそ数年ぶりのことで、なんだか不思議な感じがする。

 転勤でこの地に来てから出来た年の近い友人と、1年以上ぶりに夕飯を食べる約束をして、妻もそれを了承してくれた。ちょうどこちらも話さなければならないことがあったからだ。


 どこでもいいよ、と彼に連絡すると、彼はある韓国料理店のリンクを送ってきた。自分も一度行ったことがある場所で、少し駅から離れている。

 自転車は捨ててしまったので、歩いて駅まで向かう。夜風はだいぶん冷たくなってきていて、今年初めて出した上着の袖を手繰り寄せる。流石にマフラーはいらないだろうと出掛けに妻に言ったが、こちらも無理矢理巻かされた。どうやらそれは正解だったらしい。

 鋭い切先の三日月がひとつ、空に浮かんでいて、やけに物悲しく輝いている。


 彼とはそう深い仲であったわけではない。けれども彼は知り合ってしばらくして、自分の秘密を打ち明けてくれた。それは信頼しているもう一人の友人だけが知っている秘密だった。彼は言った。あなたの仕事は、心を救う仕事だと思っています。でも、救ってくれなくてもいいと思ったから、話しました。


 急に寒くなったよね。そうですね、まだ体は秋の感じが残ってて。そう、全然追いついていかなくて震えが止まんないよね。でも今日行くお店は韓国料理なんで。さては確信犯だな。たまたま個人的にブームが来てるだけですよ。

 そんな会話をしながら、二人でがたがたと歯を鳴らしつつ、そんなことさえおかしくて笑い合いながら店まで歩く。二人で歩けば、寒ささえも笑い飛ばせる気がした。


 彼を残して去っていかなければならないことは心残りだった。彼の抱える秘密と、それによって引き起こされる痛みから、彼を救うことは出来なかった。けれども今となっては、それでよかったのだろうし、多分その痛みが、彼とぼくを今日まで結びつけてくれていたようにも思う。

 転勤するんだ、と僕は言った。転勤先を聞いた彼は、気軽には来れない距離ですね、と寂しそうに笑った。それ以外は他愛もない話をした。いつでもできるような意味のない話を、限られた時間いっぱいを使って、また明日も会えるような雰囲気を保ちながら店を出る。

 いってらっしゃい。そう彼は別れ際に言った。ただいま、久しぶり、とまた言える日が来るだろうか。きっと来ないだろう。それほどの距離で、離れてしまえば彼とぼくには何の接点もなくなってしまう。彼はすべてを知っていながらそう言って、手を振ってくれた。それはたぶん、ぼくのための祈りだったのかもしれない。


 夜道を歩くのは久しぶりだ。そして、こんなに寒い帰り道も、久しぶりだった。三日月だけが、変わらずその帰り道を照らしていた。

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