瀕死の標本

夜行性

第1話 

 紙の上を滑る鉛筆の音。小学生でもあるまいし今どき鉛筆って、と思いながら、それでも衣擦れや咳払いよりはずっと心地が良かった。


 鉛筆の持ち主はいつも後ろの席にいて顔は知らない。どう見ても、いやどう聞いても真面目に講義をノートに取っているとは思えない。それくらい鉛筆は紙の上を長く、短く、自由に走り回っていた。


 いつからかその音が聞こえてくるのを待っている自分がいた。ああ、始まった。そうしてどこか満足して頬杖をついた時、サラサラと心地よい音が途切れ、代わりに鉛筆は乾いた高い音を立てて床に落ちた。


 机の下のつま先のすぐ横に青い鉛筆が転がってくる。後ろの席にいる持ち主が落としたのだろう。五秒ほど迷ったあと、その鉛筆をつまんで拾い上げると、それはどうにも不恰好に削られて芯が長く飛び出ていた。


 こんな鉛筆で字を書いたらきっとすぐに折れてしまう。そんなことを思いながら後ろを振り返り、鉛筆を見せて、数人がまばらに並んだ中から持ち主を探した。


 顔を上げてチラリとこちらを見、そしてまたノートに視線を落とす何人か。一人だけ、慌ててノートを閉じながらこちらに手を伸ばしたのは大きな黒縁メガネをかけた学生だった。


 目も合わせないまま、黒縁メガネは鉛筆を受け取ってそれを机の上に置いた。長さ十センチほどに縮んだ青い鉛筆が数本並んで、それらはすべて同じように芯が長く削り出されていた。変な奴、そう思いながら前を向き頬杖をつく。鉛筆が走る音はもう聞こえてこなかった。




 それからしばらく経って、その鉛筆のことはすっかり忘れていた。その日もまた欠伸を噛み殺しながらぼんやりと黒板を眺め、きっと数分くらいは居眠りをしていたのだと思う。


 意識が沈み、講義の声が遠ざかる。そこでカクンと肘が緩んではっとした。黒鉛が摩耗する音の向こうからこちらを凝視している視線を感じる。


 そのあと学食で黒縁メガネが一人でいるところへ声をかけた。驚いて強張ったその表情には好意も喜びも含まれていない。それでも人をこっそり盗み見て絵を描いていたことに引け目を感じたのか、黒縁メガネは観念したように相席を許した。


 一体何をそんなに熱心に描いているのかという好奇心から、大事そうに抱えているノートを見せてもらう。適当に開くと、想像よりもずっと丁寧に描き込まれたスケッチが紙面を埋めていた。


 描かれているのは靴を履いた足、誰かのカバン、メガネ、特に繰り返し描かれているのは手だった。男の手女の手子供の手に年寄りの手、ずっと見ているとそれがそういう生き物に見えてくるくらい、執拗に詳細に描かれていた。


 もっと子供っぽい落書きを想像していたのが申し訳なく思えてくる。パラパラとめくるページには虫や花もあった。図鑑のように精密に描かれたそれらは、色が無いことでかえって生々しく見える。


 最初から最後まで、全てのページのスケッチを眺めるあいだ、黒縁メガネは不安げに黙ったままだった。最後のページを右から左へ裏返し、厚紙の裏表紙を閉じる。


「絵、上手いね。好きなの?」


 そう言ってノートを差し出すと黒縁メガネはほっとした顔で手を伸ばす。


「……本当は絵の学校に行きたかったので」


「へえ。でもあんまり絵ばっか描いてると単位落とすよ」


「……はい」


 黒縁メガネは黒縁メガネを外すと綺麗な顔をしていた。メガネをかけている時もどこか怯えたような表情だったのに、メガネを外すとそれはもっと顕著になり、泣き出しそうな顔になる。きっかけはスケッチの内容に対する好奇心だったが、その顔が気に入って、もう少し見てみたいという気になった。


 二人揃って一限に遅れたのはそれから一週間ほど経った頃だった。黒縁メガネは顔を褒めるのを特に嫌がった。だからメガネを取り上げて、まじまじとその目を見つめながら唇に触れると、震えながら息を止めてきつく拳を握りしめていた。それでも皮膚を柔らかく撫でて黒子のひとつひとつを結ぶように舌を這わせれば、体は設計図通りに機能する。そんな当たり前のことを酷く気に病んでいるようなのが不思議だった。


 初めは体を硬くして震えているだけなのが、緊張は次第にだらりと溶け出すように緩んで、荒い呼吸を繰り返しながらそこで初めてこちらの目を覗き込むように見る。重なった肌を離そうとすると、手を強く握り返してきたりもする。


 そうして日暮れから真夜中まで狭いベッドから出ることもなく過ごす日が増えた。疲れて眠りに落ち、気がつけば朝になっていることもある。これは自分でも意外だった。他人のベッドで目を覚ますのは生まれて初めてだ。


 教室で、黒縁メガネは相変わらず分厚いプラスチックと髪の毛の奥に隠れて世界を観察していた。青白い肌と、恐らく一度も染めていない髪。デコレーションもエフェクトもなく、ポツリと置かれた遺失物のように静かに座っている。少し離れてそれを眺めるのが日課になった。他人のベッドで、ましてや他人の隣で眠ることができるというのはとても新鮮な驚きだったし、興味深かった。


 少し長くかもしれないな、部屋に連れ帰るのはしばらく後でいい。缶ビールを開け、冷凍庫の中を眺めながらなんとなくそう思った。自分の部屋に連れて来る相手は慎重に選んでいる。だから二人で会うのはいつも黒縁メガネの部屋だ。テレビもない、なんの匂いもしないその部屋は自分の部屋のように居心地がよかった。


 何度か部屋に泊まるようになっても、それ以外では大学の同期であるという範疇を超えないように細心の注意を払った。何事も慣れてきた頃が危ないという。三人目とはいえ謙虚さは重要だ。


 最初の経験を思い出す。初めての相手は年上だった。その頃は膨らみ続ける欲求を自分でも持て余していて、それをどう処理すればいいのか分からなかった。毎日毎日夕方のフードコートや繁華街で暇を潰しても、いつまで経ってもその焦燥感は消えなかった。それどころか刻々と過ぎていく時間が、みすみす下水のように流れていくことになお一層苛立ちを覚えた。


 満員の電車の中では、まるで社会人の手本のような顔をした大人が子供の体を撫で回し、同級生は十代という刹那のゴールドラッシュに沸いた。手にしたのがほんのはした金だということには誰も触れようとしない。担任の教師がこちらに向ける視線にも欲の匂いがした。ふつうは気づかないそんな微かな色や匂いに敏感なのは、生きていく上であまり得にならない。


 塾の講師が分かりやすく取引を持ちかけてきたとき、代わりにこちらの望むものを要求してもいいんだと気づいた。二度と取り返せないものを引き渡す代わりに、二度と取り返せないものを手に入れる。それは等価交換という合理的な取引だった。


 こちらに対する警戒心が微塵もなくて拍子抜けするほど簡単だった。いまでも大事に保管しているが、もう五年が経とうとしているので流石に少し傷んできている。




 相変わらず黒縁メガネは暇さえあれば絵を描いていた。覗いてみれば何枚も描かれた顔や手や耳があった。大して代わり映えもしないそんな絵を、延々と描き続けて何が楽しいのだろうか。止めなければベッドの中でもスケッチブックに手を伸ばしそうな勢いだ。


 それほど絵を描くのが好きだというだけあって、その部屋にはスケッチブックが数え切れないほど無造作に積まれていた。黒縁メガネが眠りに落ちたあと、眠れるかどうか悩んでいる時間がいつも退屈だった。だからそのときスケッチブックを拾い上げたのは特になんの意味もなかった。


 無造作にページをめくると、そこには蜂が描かれていた。いろんな角度からありとあらゆる器官と質感が精緻に描き出され、今にも動き出しそうな蜂が数ページにわたって続いている。五、六ページも同じような蜂ばかりでその執拗さに違和感を覚えつつ、どこまで続くのかが気になって手が止まらない。


 蜂が終わると、次はインコのような小さな鳥だ。羽繕いをする姿、こちらを見上げて小首を傾げる姿、それらがやはりとても繊細に描かれる。生き物が好きなんだろうか、そう思いながら次のページを見る。


 そこには仰向けに脚を縮めて横たわる鳥の姿があった。鳥を飼った経験どころか近くで見たことさえないが、その鳥が生きていないことがありありと伝わってくる。


 可愛がっていたペットに死なれてその姿を写したのか。そう思ったのも束の間、ページを進めると、みるみる小鳥は朽ち果てていく。


 夢中で追いかける。タイムラプスのように小鳥の体がみるみる縮み、目だったところは穴になり、まるで魚の干物のように変わっていく。最後に抜け落ちた羽根だけが作り物のように形をとどめている絵にたどり着いた。


 さっき見た蜂の絵を改めてもう一度見ると、はじめは生きていたものがやがて死んで干からびていく様子の描写のようだ。花も、虫もあらゆる生き物が静かに朽ちていく様子を描いているのだ。


 その美しさに心臓が大きく跳ねる。妬ましさすら感じた。口からこぼれかけた声を飲み込んで、ベッドで寝息を立てる黒縁メガネを見た。その瞬間、ふっと聞こえない音を立てて明かりが消えた。代わりに充電していたスマホの画面が点灯する。カーテンを開けてベランダの向こうの家並みをみると、どの窓も暗く沈んでいた。


 ――停電だ。そう気づいた瞬間、慌てて服を掴んで着替え、部屋を飛び出す。急いで帰らなければ。表通りまで走ってタクシーを捕まえ、住所を告げる。幸いここから部屋までは二十分もかからない。冷凍庫の中身が融ける前に帰宅することができるだろう。


 イライラと親指の爪を噛みながら、何時間にも思える車中の時間をやり過ごす。目立ってはいけない。些細なやり取りがこの中年の運転手の記憶に残ってはいけない。そう自分に言い聞かせながら支払いを済ませ、部屋まではあと数百メートル離れた場所でタクシーを降りる。


 ようやくたどり着いた部屋のドアを開け、玄関で靴を蹴り飛ばして冷凍庫のドアに飛びつく。その感触はまだ硬く凍りついたままで、どうやら無事のようだ。胸を撫で下ろし、再び電気が戻るまでのために氷を大量に買い込んだ。



 昨夜、突然部屋を飛び出したことをどう思っているだろうか。嫉妬深い人間なら何があったかとしつこく問い質してくるに違いない。他の学生の前でそうした痴態を晒すのは避けたい。


 なるべく早めに適当に言い繕っておこう、そう思って黒縁メガネの姿を探すが、どこにも見当たらない。今日は取っている講義がないのだろうか。いずれにせよ人前で揉める心配がないのは助かる。今日の夕方部屋に行くとメッセージを送ると、わかりましたと短い返事が来た。


 缶ビールと、適当なつまみを買って黒縁メガネの部屋に行く。飼っている熱帯魚が心配で慌てて帰ったとか適当な言い訳も考えた。珍しく食事の支度をしていたらしく、部屋のドアを開けると、焼けた肉の匂いがした。


 他人の作ったものを口にするのは久しぶりで、少し緊張したが、それはどうってことないハンバーグだった。二人で食事を済ませ、買ってきたビールと、部屋にあったワインを開けた。もらい物で一人では片付かないのだという。ワインには詳しくないが、少し苦くて酸っぱく、たくさん飲めば頭が痛くなりそうな気がした。


 夜中に目を覚ます。やけに喉が渇いて仕方がない。なにか飲み物が欲しくて玄関のすぐそばの小さな冷蔵庫を開ける。そこには白い皿の上に置かれた薬指があった。


 いま自分がどこにいるのかが分からなくなって混乱する。だがこの薬指を見間違えるはずもない。肌の色、爪の形、関節の大きさまで何もかもすっかり覚えてしまったその薬指だ。


 震える手で、皿の上の薬指に触れる。ずっと冷凍してあったものだから、その指が肉の柔らかさを取り戻したのは一年ぶりだろうか。腐らせるのが惜しくて凍らせていたそれをそっと掴む。恍惚はやがてすぐに怒りに変わった。このままでは傷んでしまう。一体どれほどの時間、この冷蔵庫にあったのだろう。


「綺麗ですよね、それ」


 突然声をかけられて薬指を落としてしまった。ぼと、と湿った鈍い音を立てて床にこびりつくように落ちたその指を慌てて拾う。一度融けてしまった指はきっと傷みやすいに違いない。そっと扱わなければ肉が崩れてしまうだろう。


「いつ、これを――」


 自分の声が震えているのが分かるが、怒りのせいか恐れのせいか自分でもよくわからない。でもきっとこの薬指とその以前の持ち主について、咎めたりしないだろうと何故か確信していた。


「いつもよく眠ってたから、合鍵を作ってしまいました。冷凍庫を開けて驚きましたよ」


 嬉しそうにそう話すのを、耳は聞いていても脳が理解しない。


「我慢できなくて。どうしても描きたくなったから、もらってきてしまいました。――ただの腐った肉と骨になるより絵にしたほうがずっと綺麗でしょう?」 


 そう言いながら、黒縁メガネをベッドから拾い上げて顔にかけると、こちらに近づいてくる。どういうわけか足が床に張り付いたように一歩も動けない。ひどい眩暈がして、座り込みそうになるが、手を引かれてベッドに腰掛ける。


「もう見ましたよね? これ」


 ぐるぐると天井が回る気持ち悪さに思わず目を閉じる。


「これ、あとこれも、これも、あなたですよ。とても綺麗な手をしてますよね。羨ましい」


 スケッチブックをめくりながら、そう言ったところまで覚えている。


「心配しないでください。あなたの絵もたくさん描きましたから、あとは待つだけです」

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