熱と代償(五)

 一体いつから冷徹非情のカタピエ公の名を利用するようになっただろうか。

 窓辺の桟に肘をつき、メリーノは宮廷庭園の向こうに広がる市街をぼんやりと眺めた。

 アンスルの歴史書を巡れば冒頭数頁にはもう名前を現すのがカタピエだ。セントポスを守るように囲んで大陸中央に領地を得た歴代の君主は、自国には良政を敷き、他国への助力は厭わず、貴賤のどちらからも信頼を得て、それゆえにこそ力を伸ばしてきた。

 史書の記述が質を変えるのは、激動の時代を迎え、血を血で洗う戦乱が大陸内部に広がるようになってからだ。武力で抜きん出た者たちは、他を見下ろそうと躍起になってきたらしい。

 そんな中でも長きにわたり力の衰微を知らないカタピエである。父と祖父、そしてさらに過去の公国領主が何代もかけて築き上げた「無慈悲なカタピエの脅威」は、計画を遂行するに当たって実に都合が良かった。

「神の罰だと思え、か」

 人々の口の端にのぼる自分の名も「冷徹非情のメリーノ公」だ。軍功に覚えある諸侯もカタピエの紋章を前に剣をしまう。他の公国は、カタピエのしるしを見て抗おうとはしなかった。娘をカタピエ公国にと後宮入りを求めれば、武具を掲げる代わりに愛娘を大陸の中央へ送って寄越してくる。零細国が体面を取り繕って保身を図るときのように、無理に仮面夫婦を演じる必要すらない。たやすい話だ。

 しかし後宮の女が一人また一人と連れ去られるようになり、彼女たちの失踪が国外に漏れ始めてそろそろ策を変えようとした時だ。もとよりさほど関心を持たなかった女たちへの興味が本当に失せたのは。

 ――興味が失せた? いや、違うな。

 頭に浮かんた思考を自分で否定する。

 ――私は、女性に初めて興味を持ったのだ。

 あれは桜の花を待つ頃からだったろう。巷の噂が領主である自分の耳にも聞こえてきた。

 セルビトゥの公女を連れ去ったのは、神の遣いだと。

 神聖なる姿を前にして、非情たる領主はついに心を入れ替えたのだと。

「いい得て妙だな」

 人聞かぬ部屋で苦笑する。まさしく神の遣いかもしれない。人々が囁く意味とは違うが、確かに自分は心を変えた。

 これまでは、策のためなら訪れる気もない後宮を埋めるのもやむなしと思っていた。だが今は違う。

 後宮など空で良い。

 ただ一人、主人である自分と同じ棟にいると分かればそれだけでいい。

 他の女など置けるものか。


 ***


 カタピエ公国の首都に立つ宮廷は、四季の草木溢れる庭に囲まれた平城である。宮廷の扉をくぐり廊を抜ければ、そこではいくつもの梁が連なる回廊が花咲き誇る中庭の周りを巡る。

 星屑がいまにも降ってきそうなある夜、宮廷のほとんどの者が寝静まったというのに、その部屋の窓からは光がこぼれ、中庭の隅を照らしていた。

 回廊を歩いてきた人物は庭に落ちる燭台の影を目に止め、上階を見上げてほぅ、と安堵の溜息を漏らす。

 ——まだ彼女は、宮廷ここにいる。

 草木の若々しい香をゆっくりと吸い、メリーノは廊を進んだ。


 ***


 部屋に入ると、窓辺に座り庭を眺めていた女性は、首だけを回して振り返った。緩く編んで下ろした漆黒の長い髪がふわりと揺れる。こちらを見つめる銀を帯びた瞳は、月光の輝きを映したようだ。

 その美しさを見て何度、魅入られたことか。

 桜花の蕾が膨らむ頃に初めてこの娘を見て以来、他の女など要らぬと思った。探し求め、望み続け、ようやく見つけ出したのだ。

「まだ消えては、いなかったのだな」

 意識して押し出さないと言葉も音にならない。一公国領主として、彼女と出会う前にそんな想いは経験がなかったはずなのに。

 宮廷に連れてきて自分のそばにおいてなお、寝ても覚めても不安が胸をざわめかせた。娘がいつするりと逃げ出してしまうかと。

「言っただろう。私は何の権力にも属さない。帰るところなど、もう……」

 凛とした娘の声は鐘のようによく通り、聴く者の目を覚ます。

「あの生業なりわいは、もう辞めたのか」

生業なりわい?」

「私とここで会った時、剣を携えていただろう」

 娘は義賊が何かだと思っていた。セルビトゥの公女とカタピエ領主である自分の間に立ち、剣を交えたのだ。鋭く相手を射る瞳を自分に向け、各地の女を嫁がせた横暴を愚行と呼び、手を伸ばす前に、公女もろとも自分の元から姿を消した。

 それが一度ならず二度も街娘と変わらぬ姿で現れ、いまは失った剣を求めもしない。

 娘の返事はない。

 燭台の灯りに照らされ、深い黒の髪が輝いた。

 その強く、そして冷ややかに美しい瞳に魅入られた。

 彼女をもう一度見ることができるのならば――そう願うと領主としての自分の立場を忘れそうになる。他国との姻戚関係も、彼女が異を唱えたならばたとえ政策として効率が良くても続けようとは思わない。

 描いてきた未来図が崩れるより、いまこの瞬間に嫌われる方が怖いとは。

 運に味方され見つけたのだ。門衛が力づくで仮宿へ連れてきたのに怒りを覚えるほど、手荒な真似をして娘の心が離れていくのを恐れた。もう決して失うまいと、剣をしまい、縄の代わりに手を差し出し、やしきへ留まらないかと誘った。

 一番初めの若葉が芽吹いてから、葉が枯れ落ちないようにとこんなにも望んだことはあっただろうか。彼女の気を引くものが何もない邸宅でわずかに楽しませることができるのは、きっと窓から見える自然の美しさしかない。

 しかし自分を蔑んだ当の娘が、すぐに態度を変えるはずもない。宮廷に入れ部屋を与えても、はじめは自ら動こうともせず、話しかけてもほぼ口をつぐんだまま、冷ややかな視線をよこすだけだった。

 他を圧し支配力を広げるカタピエの領主として、世から冷酷とそしられ怖れられていることくらい解っている。解っていながら、この世を見渡して定めた目的を果たせるならばそれも結構、と思っていたはずであった。

 しかしどうだ。焦がれる女性の蔑視が、居並ぶ群雄よりも恐いとは。

 公女の輿入れという最も効率的と思えた策も簡単に捨てられるほど。むしろいまや、恐怖に囚われ束縛されているのは自分の方かもしれない。

「なにか、不足のものはないか……ああ、水ならば侍女に言いつけてある。他に不自由があれば、何でも」

 卓上の水差しを取り二つの杯を満たす。美しい月が成せるわざか。なぜか今宵はいま一歩、踏み出してみようと思える。

 恐れを表さぬよう、威圧的にならぬよう、娘を手招いた。

 我が目を疑った。

 きっと応えてはもらえないだろうと思っていた。それでも、わずかな希望が捨てきれず、震えを殺して賭けに出たのに。

 娘がこちらに、自分の方に歩み寄ってくるとは。

「非情の大公が、どこのものとも分からぬ娘にやたらと優しくするものだな」

「貴女のその美しさがそうさせるのだろう」

 これまで他の恨みなど気に留めまいと、自己を律して生きてきたはずだった。それがどうしたのか。この娘だけは違う。彼女の心だけは失いたくなかった。だからこそ無理強いはせず、邸宅内で自由を与え、見守り、いつくしんだ。

 無駄ではなかったのか。娘は次第に部屋を出て歩くようになり、二言、三言、口にするようになり、そして今はどうだ。

 彼女が自分の招きに応じ、眼前に近づき、こちらを見上げている。

「変わったな……色好みの名を欲しいままにした大公らしからぬ振る舞いではないか? ただ一人をやしきへ置き、愛でるなど」

「貴女を見てしまっては、もう他の女など求めようとも思わない。貴女だけ隣にいてくれれば良い」

「私を側においたとしても、土地も権力も手に入らないというのに?」

 そう言って娘は皮肉っぽく微笑した。以前の行いは娘の言う通りだろう。女を抱いても、見据える先にあるのは彼女らの背後にある力だ。

 だがそれももう遠い昔に思える。やっと手が届きそうな今は、柔い花に触れた途端、脆くも折れてしまわないかと危惧するような臆病な自分がいた。

 娘は試すように上目遣いで自分を見る。それでいて光を称えた瞳の中にさげすみや嫌悪はない。長い睫毛が目元に影を落とす。自分でも信じがたいほど心奪われ、愛を注いだのが報われたのだろうか。すぐ触れられる位置にある娘の細い身体に、内心恐れながら手を伸ばした。

「貴女に触れることが許されるなら、土地も権力も要らない」

 続きを言えば拒まれるのではと、震えが込み上げる。

「このやしきに……私のもとに、この先も……居てはくれないだろうか」

 一つ一つ、単語を続けるだけで必死なのが相手に分かるのではないか。意気地のない男と呆れられるのではないか。

 だが娘は何の抵抗もせず、抱き寄せられるままだった。白く小さな肩をそっと押すと、自分のものではない熱が自分の熱と重なり合う。

 女性を抱くとは、こんなにも柔らかで優しい温もりがするものだったろうか。

 腕の中から吐息混じりに、小さな声が聞こえた。

「それでもいい。貴方の目が私ただ一人に注がれるならば」

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