熱と代償(四)

 突然横からした声にセレンの喉がキュッと締まる。短剣は無いのだ。瞬時に腰を落とし蹴りかかる構えを取る。声の主はと四方に目を走らせると、及び腰で両手のひらを前に向けた男が右手の曲がり角にいた。

「そう警戒すんなよ、おっかない」

 見慣れた衛士服の男は、口の端に皺を刻んで苦笑いする。その情けない様に拍子抜けしてセレンもあっさり構えをほどいた。それに今は客人扱いなのだから廊下で誰に見つかろうと警戒する必要もないのだ。

「なぜあなたが……ああ、今は休憩の時間か」

「さすが勤勉な元同僚。おっと勤勉は違うか。侵入者だったもんな。今回は手荒な真似してすまんよ」

 すっかり馴染みの顔をして衛士は悪かったと手を合わせる。もっとも、セレンは彼に対する怒りなど微塵も感じていなかったのだが。

 それを伝えてやると、衛士は「そりゃありがとな」ところっと人懐こい笑顔になって気安い調子で話し始めた。

「いやぁ見つけたら屋敷にって言われていたから捕まえたのに、いざ捕まえたら怒られたわ。怪我でもさせたらどうするって」

「それは、なんだかむしろ申し訳なかったな」

 何故か悪い気がしてセレンが謝ると、衛士は「いやそこ、あんたが謝るとこじゃないから」と笑い飛ばす。確かに言う通りだが、この衛士の調子は不思議と相手の気を和らげるところがあるのだ。

「しかしあんた、美形だとは思ったけど女だったんだね。そういう格好してるとほんとに美人だな」

 セレンを遠慮なく指差し衛士は裏のない賞賛を送る。普段こうも直裁に褒めるのはフィロ以外にいないので、あちこちがこそばゆくなってしまう。素直に受け止めていいのか謙遜するべきなのか分からず、セレンは身体の線に沿って流れ落ちた絹衣の裾を無為に蹴った。

「私としてはこんな高そうな服は妙に緊張するな。こう肌が出ているのも落ち着かないし」

 服は毎日侍女が着替えを持ってきてくれるのだが、どれもこれも修道院には縁遠い上質な織物で緊張してしまう。しかも鎖骨やら肩やらが露わで普段触れないところを空気に撫でられるのだからなおのことである。

「貴族令嬢でもあるまいし、私の性格にも姿形なりにも合わない気がして」

「女の子がみんなその手の服に憧れるもんでもないんだな。覚えとく」

「私の親友なら好きそうだけれどね。私はもっとこう、動きやすくてあまり肌寒くないのが」

「ああ、うん。言いたいことは分からなくもない。それなぁ、うちの領主様好みに仕立てられちゃってるからねぇ」

 衛士は納得した、と一人で何度も頷いてから、全く悪びれずに言ってのける。

「でも気に入らないなら捨てちゃえば? 俺は似合ってると思うけど」

「捨てるって。それは勿体無いよ」

 この男の人の良さが隠しようもなく現れているからだろうか。含みのない物言いと態度のせいで、セレンも自然と気持ちを打ち明けてしまう。相手も同じなのだろう。セレンの正体が分かったと言うのに、彼の応対は仮初かりそめの同僚だった時と変わらない。

「構わないだろ。だって特に女の子の服って男の好みでなくて着たいものを着るべきじゃん。偉そうな領主様の好みがあんたに合わないなら領主だと思って引き裂いちまえよ。こっちの気持ちもわからん奴はいらんって」

 こう、と引き裂く身振りをしながらまるで遠慮のない提案をするので、セレンは思わず吹き出した。

「いいのか、そんなことを言って。後でメリーノからどんな仕打ちがあるか知れないぞ」

「あんたが言わなきゃばれない。それに、あんたは言わないね」

 あっさり片付けられるが、そう断言する根拠はどこにあるのか。だが言う通りである。この男相手に駆け引きをする気も起きず、セレンも素直に肯定した。

 外から鳥の鳴き声が聞こえる。微笑したまま、示し合わせるわけでもなく二人揃って快晴の空を仰ぎ見た。

「しかしなぁ……捕まえた俺が言う話でもないけど、あんたはここにいてもどうかねぇ」

 この発言も聞かれたら免職ものだろうが、セレンを信用しているのだろう。衛士は世間話さながらに続ける。

「あんたは特別待遇だから感じないかもしれないけどさ、カタピエも落ち着かなさそうだなって思うわけだ」

「衛士の職務も増えているのか」

「増えてるっちゃ増えてて、休憩はあっても休日があるのやらだ。また近々領主様が外遊に行くって話も聞くし、その下準備で出張行くやつも多いし」

「外遊?」

 そんなことを漏らしていいのかと尋ねたいが、衛士の方はセレンの反応を待つでもなく面倒そうにため息を吐いて、「あんたは衛士のままじゃなくて良かったと心底思う」、とつぶやく。そして再び上空を見上げると、手のひらを翳した。雲間から昼下がりの太陽が顔を出す。

「でもそうかぁ。対外的にはともかくあんたは随分大事にしてるみたいだし、悪いようにはしないのかなぁ」

 誰に対する問いでもなく、自分の中にある晴れない想いをそのまま口に出しているふうに聞こえる。侵入犯だったセレンがかたわらにいることも知らないのではと思う反面、友人を気に掛けるような言い方が性格をやや呑気にしたフィロのようで親しみも感じてしまう。

「俺はなんとなくあんたは自由なのが似合う気がするんだけど。政治とかそういうのには関係なしで大国領主に寵愛されるならそれはそれで幸せか?」

 衛士は首を捻り捻り、つらつらと考えを口にする。

「あのおっかない領主もあんたが口づけの一つでも許してやったら他は全て忘れそうな感じすらするもんなぁ。ゴタゴタとは無縁であんたがのんびり暮らすならそれもある意味じゃ最高かねぇ」

「最高って……なんであなたはそんなに私のことを気にするんだ」

 延々続きそうな独白につい疑問をさし挟むと、衛士はようやくセレンを真っ向から見つめた。

「だってさ、あんた多分いい奴だろ?」

 まったくもって予想外な答えが当たり前だと言わんばかりに返される。咄嗟に反応できるわけもなく、セレンは口を開けたまま固まった。

 不自然な沈黙を破ったのは、頭上から聞こえる鐘楼の音だった。

「あ、やばい俺もう行くわ。休憩終わりだ」

 外から交替時間を告げる角笛の呼び声がある。庭の向こうを一瞥してから、衛士はまだ硬直の解け切らないセレンに「じゃあまた」と軽く告げるや、あたふたと廊下を遠ざかっていった。

 見送りの言葉をかけるのも忘れ、セレンは小さくなる姿を目で追う。ただ頭の中では、たったいま交わした会話が繰り返されていた。

 鳴り続ける鐘の音に包まれたまま、セレンはしばらくそこに佇んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る