第六章 逸る鼓動
逸る鼓動(一)
教会の敷地内は、外がいくら騒がしかろうと常に静寂に守られている。門を入った途端に自ずから来訪者の感情を抑え、内省へと導く。
それは常にここに住まう者に対しても同じ。特に今日は住居棟がいつになく精気を欠いていた。
「セレン、いま大丈夫かしら」
戸の外で控えめな老婦人の呼びかけがある。寝台に座っていたセレンは反射的に顔を上げた。鋭敏な五感を持つ自分が、戸を小突く音にも気がつかなかった。
何か思考に沈んでいたわけでもない。その逆で、頭の中に言葉すら浮かばず無為に座っていたいただけなのに、感覚までも働いていなかったとは。普段ならあり得ない。
「セレン? 寝ているかしら?」
「あ、はい。大丈夫です」
自分の状態に衝撃を受けていたセレンは、ミネルヴァの再度の呼び声に慌てて立ち上がった。
「クルサートルが来ていますよ」
「会議は終わったのですか」
カタピエから馬を走らせ、セレンがケントロクスに到着したのは一昨日の昼前だった。市門から教庁に直行したが、クルサートルはセントポスへ赴いていると言う。しかも帰庁後は各地に配属されている秘書官らとの会議のために、数日間は手が空かないと言われた。定期集会となれば、その間はクルサートルに会うのは難しい。
セレンの来訪となればクルサートルなら事情を察知してうまいこと時間を割いてくれるかもしれないが、今はセレンの方が顔を合わせる気になれなかった。クルサートルがいない教庁はやや居心地が悪いのもあって、約束も取り付けずにそのまま出てきてしまった。
手に入れた珠の報告を一刻も早くするべきだと理解していながら、クルサートルにメリーノと会った時のことを話すべきかと思うと息が詰まった。
「やめておきましょうか、セレン?」
ミネルヴァが
「ずいぶん疲れていそうだし、会うのが億劫なら今日は帰ってもらいますよ?」
「あ、いえ……大丈夫です」
まだうまく働かない頭を振り、セレンは無理矢理笑顔を作った。
「帰り際にこちらから訪ねましたから。すみません、部屋を整えるので呼んできて頂けますか?」
乱れた布団を簡単に整え、そこに腰掛けた。常日頃と同じく、いつでも来客を迎えられる整頓された部屋を見回し、たったいまついた言い訳に後ろめたさを感じる。
本来ならミネルヴァに迎えを任せるのは立場上失礼なのだが、少しでも気持ちを切り替える時間を稼ぎたかった。
そう考えると、またも背筋に寒いものが走り、無意識に手が耳飾りに触れる。せっかくの贈り物を落とすのが怖くて、カタピエには持っていかなかったのだ。再びそこに在る小さな石の確かな感触が、わずかであれ気持ちを落ち着けた。
「セレン、入りますよ」
扉を開けたミネルヴァの背後には、書記官の紫紺の上着を手にしたクルサートルが立っていた。
「わたくしはご飯を作りに戻りますけれど、嫌になったらこの人は放ってしまいなさい」
「ちょっと先生」
「少しでも失礼をしたら追い出していいですからね」
クルサートルの抗議を完全無視して言い放つと、ミネルヴァは廊下を厨房の方へ戻って行った。
老婦人の姿が見えなくなると、クルサートルは「敵わないな」と苦笑を浮かべつつ後ろ手に部屋の扉を閉めた。
「先生からあまり元気がないと聞いた。疲れているようなら手短かに済ますが」
朗らかに話を切り出した直後、クルサートルの視線が鋭くなった。
「珠を手に入れた、とみていいな?」
セレンが頷くのを確認して寝台まで近寄る。クルサートルが隣に腰掛けると、逆にセレンは寝台から立ち上がった。
「恐らくこの石で間違いはないと思う」
「よく見つけた。というか、どうして分かった?」
背を向けたセレンに問いかける。すぐに振り返ろうとはせず、セレンは文机の引き出しを開けて中から布に包まれた何かを取り出した。
それを無言で受け取ると、中を見たクルサートルも息を呑んだ。
「サキアか」
白い布に守られていたのは水の神を意味する青の珠ではなく、銀の玉飾りだ。鏡のように磨き抜かれたその表面に古来伝わる徽章が彫られている。
手のひらを傾けると、古の印を描く切り込みの向こうで淡い光がちらついた。
「青い鉱石だな」
玉を目に近づけてクルサートルは切り込みの中を覗き込む。
「サキアの徽章を見ること自体が珍しいし、恐らく、正しいと思う。ただ」
「ただ?」
「確証はない。一体どうしたらこれが四神の珠だと言えるのか」
メリーノと相対した時、もう一つの可能性はあった。耳元で揺れる海の色。
自分の経験をもとに選択肢から除外してしまったが、理由はそれだけでもなかった。両耳にある碧玉を奪おうとすれば刃を二回当てる必要が生じる。一瞬で成し遂げるのはあの至近距離では難しかっただろうし、何よりも身体が拒絶した。
あれ以上、メリーノの手がすぐ届くところに身を置きたくなかった。
「だから、もし違ったらすまない。任務不履行になる」
「なんだ、そんなことか」
もやついた気持ちを抱えて言ったセレンとは逆に、クルサートルはけろりとしている。そして文机の上に置かれていた水差しを指差した。
「あれを借りても?」
「構わないけれど、何を」
質問には答えずクルサートルはセレンを促して文机の前に立つと、首飾りから外した玉を水差しの口に近付ける。
「見ていれば分かる。覚えていないか。珠の力の話を」
「珠の……」
記憶を辿り、セレンは「あ」と声を上げた。一つ頷くと、クルサートルが玉を摘んだ指を開いた。
ぽしゃりと威勢のいい音を立てて水飛沫が硝子面に散る。水滴が硝子に作った模様の向こうで、銀色の玉が勢いで一度底まで沈んだかと思うと、途端に器のなかばまで浮き上がった。
だが、ただ浮き上がったと言うには違和感がある。
「あの話は、本当だったのか」
セレンの目は水に釘付けになり、動かそうにも銀の玉から離せない。
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