第48話 仕掛け

 鬼女の左腕に視線を向け、わずかながら剣尖が届いた。


 その一連の流れを鬼女が視認したのを確かめ――俺は鬼女から距離をとり大きく後方へ跳んだ。


「……どうしたの? こんな小さな傷をぼくの腕につけて満足した?」


「でも、痛いでしょ?」


「ほんのちょっとだけだよ? 戦えない程じゃない。すぐに君を倒せる、ぼくには余裕がある」


「この刀は――実は特殊な式神でしてね。刀身から水が出てるのが解りますか?」


「……それが、なに?」


「これは毒です」


「は?」


 鬼女だけでなく、雫まで『は?』と言っているが聞こえません。

 今の下衆な俺には聞こえません。


「刀身から任意で毒が出せるんです。今、あなたの左腕を切った時の毒は――あなたの腕を腐らせます」


「はあ? そんなの有るなら最初っから使ってるでしょ。何はったりを――……ぇ」


 鬼女の左腕は、傷口から徐々に黒褐色こくかっしょくに染まっていく。


「……ぁ、え?」


「痛むでしょ?」


「――ぃ、いたい!! 痛いよ!? あ、ああ、腕が!! ぼくの、ぼくの左腕!! せっかく、せっかくまた帰ってきてくれた、ぁあっ、ぁああああアアアアアアア!!」


 現実には痛む筈が無い。

 だってその左腕は、実在しないのだから。


 全ては俺が刷り込んだ錯覚だ。


 幻覚を駆使して左腕を自分のものだと認識させて、さらに感覚フィードバック情報と視覚情報を同期させた。


 こうすることで脳は錯覚を起こす。

 そこにあるのは自分の腕である、と。


 これを俺がいた世界ではラバーハンド錯覚、という。


 とある実験から生まれて以後、多くの研究が成されてきた脳研究の一領域だ。

 鬼女は自分の腕に強い執着があったようだから、この錯覚に陥りやすい下地もあったのだろう。


 だから――人の弱みにつけ込むこのやり口は、出来ればやりたくなかった。

 最後の手段として、極力使いたくない手段として用意だけしていた。


「ぁあ、あああああアアアアアッ!! やめて、止まれ、とまってよ!?」


 慌てて左腕を抱えている鬼女は、驚くほど隙だらけだ。

 こちらのことなんて意識の範囲外だろう。


 今ならすぐに致命傷を与えられる。

 ……本当に心が痛む。

 キシキシと音を立てて痛めつけるようだ。


 ――俺は、俺は……。

 人を助けるために。

 人の笑顔を取り戻すために生きてきた。

 学んできた。

 積み重ねてきた。

 ……耐えてきた。


 患者さんからの『ありがとう』それだけを生き甲斐に。

 どんな理不尽なことや汚い世界でも。

 その一言だけをやりがいに。


 理学療法士などという、軽視されがちで報われない職業に就いて、この身命を捧げてきたというのに。


 一体、俺はいま何をしているんだ……?


 いや、迷うな!!

 早く、早く。

 終わらせるんだ!!

 彼女のためにも、仲間のためにも。


 ――自分のためにも。


 斬る!

 躊躇うな。

 斬れ!

 斬れッ!!  


「――ごめんッ!!」


 鬼女の身体の上を、袈裟に走り抜ける刃。

 煌めく剣閃は障気を掻き消し、深く血肉を掻き分けた。


「ァ……っ」


 障気が晴れ、邪悪な憑きものから解放されたのだろうか。

 力なく崩れゆく鬼女の顔が、一瞬だけ人間の、優しく美しい女性の顔に戻った……?


 俺は人をこの手で斬ってしまったのだ。

 そう改めて認識した瞬間に手が、体中が戦慄し小刻みに震えだした。


『早う調伏せよ、安綱!!』


 雫の声にハッとする。

 そうだ、障気が晴れて妖魔の力が弱まっている今が最大のチャンスだ!!


「わ、我が神による太刀筋。煌めく剣閃、汝が発する邪を絶ち、我が神へ献餞奉けんせんたてまつる。急急如りっ――ッ!! ぐぁ……!!」


 横たわる彼女の傷口から、それまでと比べものにならないほど禍々しい障気が溢れ出した。


 濃い障気は直接浴びると人間には毒だ。

 視界は塞がれる。

 暗闇に包まれる。

 息が出来なくなり、無理に呼吸をすれば喉の奥から灼熱痛が身を襲う。


 言霊を封じられた。


「く、くるしぃ……ッ!?」


 音は遅れて聞こえてきた。

 まず最初に気が付いたのは、自分が宙に投げ出されていることであった。


 地面に強く叩き付けられたかと思うと、砂の上を身体が転がっていく。

 砂を巻き上げながらどこまで飛ばされたのだろうか。


 次に気が付いたのは、左肋骨を中心とした激しい痛みであった。


「ごぼっ……げぼッ!!」


 口から、血が溢れ出る。

 これは内蔵が傷ついているな……。

 折れた肋骨が臓器を傷付けた、のか?

 深いようであれば、致命傷だ。


 即死ではない。

 だが、放っておけば遠くないうちに死ぬ。


『しっかりせよ、安綱!!』


 右手にがっちりと。

 実際には震えて筋肉が強ばっているが故に。

 手が開かず握り続けていた雫が、月明かりのように優しく光る。


 雫からは文字通り朝露のように冷たく、でもスッと肌に染み渡るような液体が染み出して、俺の右手を濡らしていく。

 本当に少しだが痛みが軽減して息が楽になってきた。


『く……。今の此方の神力では、回復に時間が掛かりすぎる……だが、諦めぬ!! 絶対にそなたを死なせんぞッ!!』


「ナン、で、そこまで?」


『もう喋るでない!!』


「――そうだよ、もう喋らないでよ」


 激しい怨嗟えんさ

 障気を漂わせ、低く、憎しみの籠もった声で喉を震わせる鬼女が――血を流しながら、幽鬼ゆうきのように近寄ってきていた。



―――――――――――

ここまで読んで下さり、誠にありがとうございます!


楽しかった、続きが気になる! 

という方は☆☆☆やブクマをしていただけると嬉しいです!

ランキング影響&作者のモチベーションの一つになりますのでよろしくお願いします!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る