第5話 それでいいって疑わなかった

 時刻は八時を回っている。恋人との待ち合わせに設定した時間は七時だったから、かれこれもう一時間の遅刻だ。

 普段であれば最悪な気分だったが、若い男は妙な気分で駅の広場を歩いていた。

 遅刻による自己嫌悪と投げやりな感情から、恋人にも機嫌の悪さを悟られてしまい、デートも散々な結果になるのが、ここ最近の流れだった。

 毎度毎度遅刻することを、恋人に悪いと思っていない訳では無いのだ。デートの日に限って何故か毎度仕事でイレギュラーが重なり、結果残業、遅刻。それが申し訳なく、最近はデートの回数もかなり減った。

 相手は、必ず約束の時間から待っていた。それも男の神経を逆撫でした。遅れることがほぼ確定なのだから、相手だって多少は遅れてくればいいのだと、半ば逆ギレの様なことを思った。時間ぴったりから待っていることが、逆に自分への当てつけのような気がした。

 男は白い息を吐いた。こんな寒い日に、彼女は一人待っているのだろうか。


――だって、好きなんですから!


 先程の少女の言葉が脳裏に過ぎり、チクリと胸が痛む。

 本当に自分は今の恋人のことが好きなのか?

 これだけ平気で待たせていて、勝手な都合で疎遠になって。オマケにクリスマスというこんな日にすら遅刻して相手を待たせている。

 息をもう一度吐く。白く染まって、すぐ消える。

 そうして暫く歩いていると、見覚えのある小さな背中を喧騒の中に認める。

「――京子」

 名前を呼ぶと、ゆっくりと彼女が振り返る。

 最初見た時、自分には勿体ないほどの美人だと思ったことを覚えている。肩ほどの柔らかい髪が揺れ、色素の薄い瞳がこちらを向き、表情が柔らかくなる。

「あぁ、健さん。お仕事、お疲れ様でした」

 上品に笑う彼女がいつも通りで、一方でその頬は真っ赤に染まっていて、男は胸が傷んだ。

 気づけば、深深と頭を下げていた。

「遅れて、ごめん」

 え、と彼女がわずかに動揺するような声が聞こえても、顔をあげなかった。許してもらおうとは思っていない。もっと言えば、今更きちんと謝ることすら自己満足なのかもしれない。

 自分の未熟さ故に、仕事の疲れから彼女に当たっていたことを悔いていた。

「……とりあえず、顔を上げてください」

 彼女の静かな声が聞こえて顔を上げる。合わせて目線をあげた時、彼女の表情を見て息が詰まった。

「私は長い時間待って体が冷えてしまったわ。だから、どこか入りましょうか」

 彼女の声は厳しく、男は思わず何も言わず頷いた。


 ***


 街中はカップルばかりだった。イルミネーションが輝いて、明るい空気に包まれている。二人は無言で歩き、何度か二人で行ったことのあるバーに入った。飲食店はどこも混んでいたが、そのバーは分かりづらく入りづらい雰囲気もあって、すぐに席に案内された。

 軽い食事を頼んだが、二人とも飲酒する気分にはなれなかった。京子が頼んだノンアルコールカクテルに合わせる形で、男も適当なノンアルコールを選んだ。

「……私は」

 ドリンクで軽く喉を湿らせてから、ポツリと京子が行った。知らず男は背筋を伸ばす。

「あなたのことが嫌いなわけではないの。お仕事が今大変なのもわかっている」

「……うん」

「でもやっぱり、一人で待つのは、寒いよ」

 男は真っ直ぐ恋人を見つめた。彼女が、自分のために丁寧に言葉を選んでいることが男にも伝わった。

 男はなんと言うべきか悩んだ。今までだったら、心のこもらない謝罪をして曖昧にしていた。だがそれが誠実でないことは、もうとっくに気づけていた。

「……俺は」

 掠れた声で切り出すと、京子が頷くように顔を上げた。

「京子の優しさに甘え過ぎてた」

 店と街の賑わいの中で、二人のいる空間だけが静かに感じられた。

「それでいいって疑わなかった。でもそれでいいはず無かったことに、今更気づいたんだ」

 続く言葉を発するのは、随分と躊躇われた。

 重い沈黙が二人の間に落ちて、しばらくしてから食事が運ばれてきた。二人は一度目を合わせてから、無言でそれを食べ始めた。料理は美味しかったが、食べた気がしなかった。

 食べ終えて、二人同時にフォークを置いた。店員が静かに皿を下げて行った。

 男は何もなくなったテーブルに、そっと髪飾りを置いた。

「……これ」

 京子は目を見開いた。

「……これって」

 男は京子を真っ直ぐ見つめた。

「クリスマスプレゼント。……本当は、渡すつもりはなかったけど」

 京子は曖昧に笑った。そしてありがとう、と言って受け取ると、カバンからブランケットを差し出した。

「……私も、これを貴方に。あんまり仕事で無理なさらないでください」

「……ありがとう」

「こちらこそ、ありがとうございます」

 そっと沈黙が落ちて、店内で向き合う二人の双方が、終わりが近いことを感じていた。

 切り出したのは男だった。女は少し沈黙してから了承した。席を立って、会計は男がもった。


 男は一人帰路に着いた。吐く息は白かった。不思議と、そこまでショックはなかった。自分がどこまでも自己中心的だったことに気づくことが出来て、すっきりしているくらいだった。


 ただなぜか、今日の結末を、あの無垢な中学生に知られたくないな、とぼんやり思った。

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