第2話 マフラーを忘れた

「……寒いな」


 白い息を吹きかけて、手をすり合わせる。一瞬仄かな温もりを帯びた指先が、しかし一瞬で氷のように冷たくなる。会社帰りの男はポケットに手を突っ込んで、思い切り肩をすくめた。

 隙間を縫うように首筋に冷たい風が通って、マフラーを持ってくるべきだった、と後悔した。


 その日家を出た後でマフラーを忘れたことを後悔して、しかし次の日の朝にはバタバタ家を飛び出すからマフラーのことなんか頭にない、そしてまた後悔する……までがいつもの流れだ。全く、自分のことながらもう少し何とかならないものだろうか。この性格は。

 足早に駅前広場を歩く。クリスマスの今日、世間様はクリスマスモード一色だ。知らず心まで冷え切る感覚がある。


「あのう……」


 控えめな声がこちらへかけられたような気がして、声の主を見やった。

 そこには、やけに厚着した一人の女性が立っていた。男を心配そうに見つめながら、ブランケットのようなものを差し出している。

「これ……よかったら、どうぞ」

 差し出されたものを見て、男は戸惑う。見知らぬ女性に声を掛けられるほどとは、先程の独り言が聞かれてしまっていただろうか。なにやらいらぬ心配をかけてしまったようだ。

同時に違和感も覚えた。女性は厚手のコートを着込み、マフラーまできちんと巻いている。それに加えてブランケットまで持っているとは、いくらなんでも過剰じゃないのか。

男は違和感を覚えながら、それを悟られぬよう笑みを作った。

「あぁ……お構いなく。要らぬご心配をおかけして、申し訳ない」

「遠慮なさらないでください……」

「大丈夫ですよ」

 深刻そうな顔をする女性に、男はヘラヘラと笑った。

「本当に大丈夫です、慣れっこですから。いつも忘れちゃうんですよ、マフラー。そんでいつも後悔するんです。なんで持ってこなかったんだろー、って」

 女性がくすりと笑う。

「少し、わかる気がします。忘れてしまうものですよね、それも、何日も」

「はは、お姉さんはしっかりしているから、そんなことなさそうですよ」

「……ええ。私はあまりないのですが、私の、恋人が」

 大人びた顔つきで、女性がふと雪を見やった。長いまつ毛が憂いげに揺れた。男はああ、と気楽に返した。

「ここでは、その恋人を待ってるんですか」

「ええ。待ち合わせは七時なのですが……」

 男はポケットから左手を出し、使い古した腕時計を確認する。時刻は八時を回ろうとしていた。

「もう一時間だ。それをこんな寒い中、ずっと待ってたんですか?」

「ええ。でも、いつものことなんです。だからこうして、厚着しております」

 そういうことではないだろうと、男は口をへの字に曲げた。女性はお淑やかに微笑んでいる。

「そんだって、風邪ひいちまいますよ」

「大丈夫ですよ。こう見えても、体は丈夫なので」

「あなたねぇ……」

 女性は首を傾げた。そして思わず感情が零れたというように、悲しく笑った。


「……怒りたくとも、怒り方がわからないのです」


男は言葉につまる。それはきっと、自分が知らない感情だ。

プライベートな話題をどこまで聞いていいものかと頭の片隅で考えながらも、好奇心に負けて男は問いを重ねる。

「怒り方がわからない、とは」

「そのままの意味です。……あの人のこと、嫌ってるわけではないんです。でも、それが正しく伝わらない気がしていて。本当のことを言ったところで、喧嘩になって終わる。……そんな気がするのです」

女性の語る真剣な思いを聴きながらも、男は今ひとつ腑に落ちないというように言葉を返す。

「俺は、それでもいいんじゃないかと思いますが」

「……何も言えずに終わるより、ですか?」

女性が目を丸くする。男は頭を掻きながら軽い口調で続けた。

「えぇ。俺はそいつに会ったことはないので、無責任を承知で言いますが、そのくらい言わないとわかんないやつなんじゃないですか、そいつ。だったらきっぱり言ってやって、それで終わりならそこまで奴だった、ってことですよ」

 女性は目を瞬いた。

「それでは……私達はどうなるのですか」

「どうなるも何も、それでお別れです。お姉さんお綺麗ですし、もっといい男見つかりますよ、きっと」

 男は手をパッと開き、最後は冗談めかして言った。あまり真剣に言うとナンパのようになってしまうので、バランスを取ったつもりだ。

女性は男性のその言葉に釈然としないようだった。

「いや……でも、それは……」

その先の言葉は分かるような気がして、さらに続ける。

「無責任な気がするって? いーんですよ、そんなもんで。そいつのことまで貴女が背負ってやることないでしょ」

「……なるほど」

 女性はようやく納得したように微笑んだ。その笑みは晴れやかで美しかった。

 男は最初声をかけられた時とは別人のようだと思った。

「それは、なるほど。腑に落ちてしまいました」

男は妙に嬉しくなり、笑い返した。

「落ちてしまって下さい。きっと、そんなもんでいいんです。もっと気楽に考えていいんですよ」

「……えぇ」

 その女性の憑き物が落ちたような顔を見送って、歩きながら男は密かに笑みを深めた。


 女性が付けていて、自分は付けていない防寒具。首を締め付けてしまうくらい思い詰めた考えなんて、必要ない。マフラーを忘れるのも、たまには悪くないのかもしれない。


広場を歩きながら、男一人盛大にくしゃみをした。……前言は撤回することにする。あまりにも寒すぎるので、明日からはマフラーを忘れまいと男は心に決めた。

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