第11話 言の葉の巫女

 騎士団から馬を借り、生まれ故郷の港町に戻ると、今までに見たこともない喧騒に包まれていた。

 人々は家財道具を山積みにして持ち出し、幼な子を小脇に抱きながら荷車を引く。あまりに多くの者たちが行き交う道は、深く沈んでぬかるみが生まれ、人々の足と、荷車の車輪を深く沈ませ、立ち往生させた。

 町を出て行こうとする人のうねりを逆らい、イナヤは苦労してその流れを突き抜けた。馬がいなければ、きっと呑み込まれてしまっていただろう。町の中では、自宅の扉や窓に板を打ち付けている者たちがいた。略奪から逃れるためか、はたまた籠城でもするつもりなのか。

 これは、戦の支度だと、イナヤは確信した。

「騎士団とは戦って欲しくない、父と会わなきゃ」

 完全武装に身を包んだ門兵たちは、イナヤの顔を見ると、あっさりと道を開けた。

 城館の中は、静寂が満ちていた。

 反対側の階段から、パタパタと、荷を持って走る使用人たちの足音。

 それもすぐにしなくなる。

 城館の内部には、兵士たちの姿も無い。

 久しぶりに入室する父の執務室は、また新しい絵画が増えていた。

 その奥で、父は一人、藍色に焼き染めされた胴鎧の革紐を留めているところだった。

「お前か…よくぞ、戻れたものだ」

「お父様、お久しゅうございます。私もすでに嫁に行く年頃、ご心配には及びません」

 手を止めて、フラム伯は怪訝そうな表情で娘を眺めた。

「心配だと?…まぁ、良い。お前はそういう奴だったな。間も無く、戦が始まる。部屋に隠れているか、村人たちと共に、山にでも逃げるが良い。そうの方が、お前にはおあつらえ向きだろう」

「皆は、山へ逃げているのですか?彼の地は、民を受け入れてもらえるのでしょうか?」

 フラム伯は、今度は手甲の止め紐を結ぶのに苦労し始めた。

「…お手伝いしましょう」

 イナヤは、片膝をついて、父の作業を手伝った。

「お前が行けば、受け入れてもらえるのではないか?儂も良くは知らん。土着の民の信仰のことなど」

「私にその長たる立場、言の葉の巫女になることをお命じになったのに、ですか?」

 フラム伯は、口を歪めたが、イナヤには見えていなかった。

「女の役目だ。どの道、巫女以外の人間には、詳細は明かされぬ」

「では、私がどんな目に遭うかも分からぬまま…」

「くだらん事をぐだぐだ抜かすな!今は貴様のくだらん愚痴を聞いている時ではないわ!」

 突然の恫喝に、イナヤは思わず縮こまった。

「もう良い、あとは自分でやる。自室へ下がれ」

 イナヤは立ち上がり、少し距離を置いてから振り返った。

「お父様、戦争をお始めになるおつもりですか?」

 父は無言のまま、手甲の袖口からレースが綺麗に出て来るように、太い指先で懸命に引っ張り出している。

「…父上、戦争はおやめください」

「…もう、騎士団の嫁になったつもりか?お前が戦争について口を出すなど、百年早いわ」

「父上は、和平のために私を輿入れさせたのではないのですか?それとも、それは当面の間だけの、ほんの数ヶ月だけの時間稼ぎのおつもりだったのでしょうか?そのために…私は…」

 フラム伯は、銀の腕輪を嵌めようとして、途中でそれを放り投げた。

「それがどうした、騎士団とは和平もするし、戦争だってする。だが、なるべく戦いを避けつつ、弱体化を図る計画だった。たとえ数年、数十年をかけてでもな!急拵えの騎士団なぞ、時が立てばいずれ自壊する!」

「では、なぜ急に戦争を!?」

 フラム伯は、天井を向いて数回、ゆっくりとうなづいた。

「なるほど、今来たばかりなのだな…誰とも話さずにこの部屋に直行したのだ、なるほど。お前は、そういう奴だった…」

 イナヤは、父の言葉を理解できなかった。

「今朝方、『向こう岸』から男が一人、海を泳いでやって来た。信じられんことに、荒海を泳いで横断してきたのだ。で、その男はこう叫びながら、町中を駆け巡った」

 深い翠色のビロード生地で仕上げた外套を羽織りながら、フラム伯はなぜか奥の壁に向かって言った。

「蛮族の艦隊が攻めてくる!迎え撃て!とな」

「そんな、まさか…」

 フラム伯は、窓に歩み寄り、カーテンを開いた。

 執務室は城館の最上階にあり、周辺を遠くまで見渡せるよう造られている。

 イナヤも窓に近寄り、水平線を見つめ…そして、思わず息を呑んだ。

 東の港のはるか沖合に、ぼんやりと霞の中に浮かぶ5つの船影。

 イナヤは目を細めてしばし見つめ、そして明るい声で否定した。

「違います、あれは聖教皇国の紋章です!あの、左から二番目の船です。見えませんか?目を凝らして、見てください。私にははっきりと見えます!」

 フラム伯は、黒い鮫皮で装飾された、長い筒を取り出すと、娘に放り付けた。イナヤは、それをあたふたと受け取る。

「遠見硝子だ。高価なものだから、落とすなよ」

 それで見よ、という意図を悟り、イナヤは片目を瞑って覗く。

「違う、逆だ」

「なんでしょうか…背の高い人やら、子ども?みんな黒いボロを纏っているように見えます。あれは、そう。きっと難民たちなのでは?」

「愚かな娘よ、儂は先ほど何と言った?あれは、蛮族どもだ。様々な種族による混成部隊だ」

「いえ、それはだから、そのお方の思い違いでは?虚言かも知れません」

「お前が世間知らずなのは、再婚したあいつが面倒を見てやらんかった所為だな。不憫ではある。愚かな娘よ、良く考えろ。聖教皇国はどこにある?儂の生業は海運業の端くれだが、かの国が大型のガレー船を所有していることなど、寡聞にして聞き及ばん。あれは、奴らのやり口なのだよ。有名な紋章を真似て、帆に描き、相手を油断させるのだ」

「そんな…」

 フラム伯は、衛兵を呼んだ。

「誰かおらぬのか!?この口うるさい娘を自室へ閉じ込めておけ」

 それから娘の鼻先に顔を近づけて、人差し指を立てながら宣言した。

「奴らは、朝からあの場所を動いておらん。夜を待っているのだ。蛮族どもは夜目が効くでな。それまでに、防衛態勢を整えねばならぬ。儂は、忙しいのだ!裏切りの者のお前などに、構ってはおられん!」

「父上、ひどい…私はフラム家の名と名誉を守るため、必死に…」

「ここまで馬を飛ばしてきたのだろう、わかるぞ。だが、儂の間者はお前よりも早くこの町に着いたのだ。だから、儂は知っているのだ。知らいでか?騎士団の求心力をおとしめる為の策を、よりにもよってお前に妨害されるとはな、幻滅したぞ。フラム家の名誉が聞いて呆れるわ!」

 イナヤはしばしの間、時が止まったかのように硬直した。

「まさか…父上のはかりごとだったのですか?」

「ふん。要望を出したのは、山の主たちだ。儂はその解決策をハルラーンめに提示したに過ぎん。だが、妙計であったはずなのだ。しかし、実行役が短気なあいつでは、役者不足ではあった。どの道、全て水泡に期したが…いやしかし、幸いと言うべきか。まだ騎士団との関係を改善する手は、まだ一つ残されている。おい、誰か、おらぬのか!?」

「そのために、サリサは…」

 唇を噛み締めながら、つぶやいた。その手は、ゆっくりと腰に刺した短剣へ伸び…しかし、背後からその手は掴まれた。

「私が、お連れいたしましょう」

「お主か、もう動けるとは、大した偉丈夫だ。なら、頼もう。だが、余計な計らいは無用だ。しっかりと鍵を閉めてくれ。娘の部屋には、外からも鍵をかけられる」

「承知しました。して、その鍵は?」

「不要じゃ」

 この男は、隣の控えの間に潜んでいたのだろう。だが、この城館で育ったイナヤの記憶の中に、この男の顔はなかった。

「誰…兄の服を?」

「お借りしています。さぁ、お父上の仕事をこれ以上邪魔しては、流石にお怒りになるでしょう。今日のところは、自室でお静かに過ごされますように」

 イナヤは、抗うことができなかった。両手首を握られたまま、まるで覚えたての社交ダンスよろしく、身を寄せ合って退室するしかなかった。廊下を大股で進みながらも、尚も体は自由にならない。

「ちょっ、腕を…やめなさい、無礼でしょうに!」

 すると、男はいとも容易く、イナヤの身体を持ち上げて、両腕の中にすっぽり収めてしまった。

 まるで、まだ寝たくないと駄々をこねる幼児を大人が抱きかかえ、寝室へと運ぶようなあり様だ。

「あなた、何者なのです」

「その前に、ご自室の場所を教えてください。詳しいお話は、それからにしましょう。その方が、私も誰に聞かれることもなく、知っていることを貴方にお伝えできます」

「分かりました。でも、自分で歩けます」


 数ヶ月ぶりの自室に、イナヤは心の平安を覚えた。お気に入りのカーテン、寝台を飾るレースの天蓋。オーク材に精緻な意匠が施された小ぶりの机。輸入物の深い色合いの絨毯。

 どれも、懐かしい。

 しかし、どこかよそよそしいと感じるのは、何故だろう。

 この部屋に、どれだけのお金が使われているのか?かつて自分は、一度たりともそんな事を考えはしなかった。

 懐かしい香水の残り香に誘われて、胸いっぱいに深呼吸して…むせ込んだ。

「埃っぽいわ、窓を開けましょう」

 イナヤは椅子を二つ用意して、その片方にどかっと腰を降ろす。

「お話の続きを」

 一礼し、着座を辞退した男は、先だっての失礼をまず詫びた。

「モルテ=ポッツの第二戦隊司令を務めていました。彼の地より脱出し、蛮族の襲来を警告するために、この町に来た者です」

「…名乗れないの?」

 男は、軽い笑みを浮かべて首を垂れた。

「説明がややこしくなるので、それは後ほどに、まずは肝心な事柄から…」

 イナヤは、改めて男の風貌を観察した。

 背丈は人並み程度だが、細身でしなやかな四肢は、実際よりも高く感じさせる。顔立ちは、精悍。目はややつり気味で、長いまつ毛に縁取られた瞳は、夏の青空の如く美しい。涙袋はやや黒ずみ、髭を綺麗に剃った細い顎に残る、青黒いあざが痛々しい。力強く太い金髪は無造作に結ばれ、あちらこちらに巻き上がりながら、胸元まで達していた。アランディールのお気に入りだった空色の肌着は、胸元が大きく開けられ、元の持ち主とはまったく異なる着こなしでありながら、彼には良く似合っていた。

 まるでナイフのような男だ、とイナヤは感じた。

「荒海を泳いで渡ったのは、本当?」

「途中からです。船を失ったので、仕方がなく」

「魔物がいると聞く海を、よくぞご無事で…」

 男は、小首を傾げながら尋ね返した。

「近況を聞かなくても?」

 息を大きく吸って、イナヤは瞬きをする。

「そう…一体、どういう状況なの?」

「蛮族たちの艦隊が攻めて来ております。数はおよそ800体。様々な部族がいる混成部隊、とはお父上から聞いておりましたね。その中には、人族も含まれます」

「なぜ、人が人を襲うの?」

「…戦争ですから」

 イナヤは額に指を当てて、頭を整理するよう努めた。

「そうね、そうだわ。あちら側は、人間を奴隷として使役しているのでした。彼らを仲間にはできないのかしら?」

「寝返る者は多少いるでしょう。実のところ、私もその一人なのですから。しかし、この戦いを蛮族と人族の勢力争いと捉えている者は、全てではありませぬ。中には、クェルラートとフラムの戦争だと、考える者たちもいます。フラム側に付けば、無条件で拍手喝采にて迎えてもらえるとは、単純には思わないでしょう」

「でも、それは試みる価値はあるかと」

「お父上は、私の話を聞き、港に様々な地方語で人族に帰化するよう、メッセージを書かせております」

「そうなのね…戦いには、勝てるのかしら?」

「難しいでしょう」

 あっけらかんとした答えだった。

「そんな、どうして!?」

 イナヤは膝に頭をつけて、しばし沈黙した。男は、静かな声でゆっくりと補足する。

「もとより、港の防衛拠点が連携できる配置となっておらず…ひとことで言えば、戦の構えがなっていません。この町はクェルラートの貿易相手の一つだったのでしょう。それを、モルテ=ポッツも昔から懸念していました。蛮族との共存を願うつもりかと。だから、クェルラートの脅威を感じずに今まで過ごしていたのでしょう。とはいえ、防衛そのものを失念していた訳では無い。ですから、準備万端ならば対処は可能でしたでしょう。しかし、民たちは船影に怯え、町を捨てる者が多く、兵の補充がままなりません。籠城をするには、食いぶちが少なくなることは好機とも言えますが、この城館はいかんせん上品すぎる。火攻めを受けたら、ひとたまりも無い」

「随分と…はっきりと言うのね。戦争は時の運とも言います。確信があるのですか?」

 イナヤは顔を上げる。その瞳には、男の姿がとても大きく映った。

「私は戦闘の専門家です」

「ならば、あなたが指揮を執れば…」

「それは、お父上がお許しにならないでしょう。私の立場は、微妙なのです」

 イナヤはたち上がった。

「いいわ、それなら別の専門家たちに協力してもらう」

「それは?」

「辺境騎士団です。私は、そこへ輿入れするはずでした。今は、お父上のはかりごとの所為で関係性は良好とは言えませんが、私が指揮官を説得すれば、きっと聞いてくれるはず」

「ご懸命ですな」

「では、行かないと!」

 退室しようとしたイナヤの行く手を、男の細い腕が遮った。

「何を…まだ私を監禁する気でいるの?今は、一大事なのよ!」

 イナヤの恫喝にも、男はゆったりとしたペースを崩さなかった。

「お父上は、すでに騎士団への共闘を願う使者を送っておいでです。どうか、お座りください」

 イナヤは、呆然と立ち尽くした。エスコートに従い、着座させられる事にも抗わない。

 開け放たれた窓からは、石畳の目抜通りを進む荷車の音。

 泣き喚く赤子の声。

 窓枠に一羽のヒヨドリが留まり、ピーとひと鳴きすると、人影に気づいて慌てて飛び去った。

 イナヤは、ふと思い出したように、襟元から首飾りを取り出す。

 それは、石灰岩の欠片だった。

 鳥の羽根の化石。

 しばしそれを見つめ、やがて両手でそれを握る。

「私を逃して」

 男は、イナヤの前に片膝をつき、目線を揃えた。

「私にしか、できない事を思い出しました」

 男の表情が、ガラリと変化した。

「ほぉ。そういうのは…嫌いじゃない」

 言うなり、男は短刀を抜いて、カーテンを切り裂き始めた。

「何を!?絹のカーテンですよ!」

 イナヤは、飛び上がった。

「尚の事、良い」

 小さく悲鳴を上げる娘を脇目に、男はてきぱきとカーテンを割き続け、いくつもの結び目をつけたロープを作り上げた。

「さっき持ち上げてみて判ったが、あんた、かなり筋肉量があるだろ。差し詰め、おてんば姫といったところか?だが、それが今回は役に立つぞ」

「な…失礼なっ」

「俺は、この館の中では目立つし、道もわからん。あんたを隠しながら、一緒に厩まで行くのは難しいだろう。だから、馬を調達する役は俺がやる。さっきの話…馬には乗れるんだろ?そうか、ならあんたは、その間に窓から外の通りに降りるんだ。なに、町の連中は自分の事に精一杯で、見つかっても問題はないだろう」

 5階の窓から見下ろす地面は、お天馬と言われた頃に見た景色より、ずっと高く感じた。

「ひゃっ」

 男はイヤナを持ち上げると、窓枠へと座らせる。

「この方法以外に、道はないの?」

 男は指先で彼女の鼻をチョンと触れた。

「あんたがこれからやろうって決意した事は、こんな程度のものじゃないだろ?俺はあんたの一言でそれを察して、手伝う気になったんだぜ」

 屋敷と通りの間には、鋳物で造られた柵があり、その内側は地面で、人も入り込んでいない。落下しても、土ならば大丈夫だろうか…いや、そうは思えない。

「やっぱり、無理かも…」

 イナヤは、すでに男の姿が無い事に気づいた。

「もう、動いている。ここで、止める訳にはいかないのよ、イナヤ。貴方は、フラム伯のイナヤ。貴族の血が流れているのよ。恐怖に勝て、イナヤ!」

 絹のはしごは滑りが良く、イナヤの握力は大人になって重くなった体重を支えかねた。

「ぎゃっ」

 手が痛んだ。いくつかの結び目が指をすり抜け、それでもなんとか落下を止めた。

「手首を返すと、滑らない。コツは掴んだわ。さすがイナヤよ」

 恐怖と戦いながら、イナヤは時間をかけて下りてゆく。町の人が、自分の姿を見つけて指さした。

「イナヤ様だわ、危ないわ、何を?」

「どうせ、逃げ出すんだろう、この町はもう終わりだ、さっさと行くぞ」

 そんな言葉を聞きながら、「ハイ」と小声で返してしまうほど、イナヤの心は切迫していた。

 ようやく地上に降りて、痛みと疲労でプルプルと震える手を眺めると、爪が一つ剥がれて血が出ていた。

「イナヤ、早く来い!」

 振り返ると、人混みを掻き分け、男が馬を駆る姿があった。

「早いわね…もう少し…ゆっくりでいいのにっ」

 格子をよじ登り、先端を跨ぎ越そうとした途端に、足を滑らせて反対側に落下した。石畳に腰骨を打ち付け、スカートは破けてしまった。

「…痛っ…なんなのよ、昔はこんなんじゃなかったのにっ」

「ちょっと見ない間に、魅力的になったじゃないか」

 男は笑いながらイナヤの手を取り、馬の背にひょいと引き上げた。

「掴まれ!」

 そう言うが早いか、男は人混みを怒声で掻き分けながら疾走し、町の外まで来た所で、馬をとめた。

「ここまでだ。後は、幸運を祈るとしか言えない」

 華麗に馬を降り、手綱を渡す。

「あなたは、どこへ行くの?」

「町へ戻るさ。蛮族たちに、積年の恨みってやつを、返してやらにゃぁならん」

「死んでしまうわ!」

「言ったろう、俺は、戦闘の専門家だ」

 最初の印象とは、まるで違うチンピラのような歩き方で、男は背を向けて歩き出した。

 絶望的だと、自らが語った戦場に向かって…。

「待って、名前を教える約束だわ!」

 男は振り返って、両手を広げた。そうだったけか?という風に。

「モルテ=ポッツの三男坊、タンクレディ・ディ・チッタヴィルだ!いつか、また会おう!」

「ポッツァンゲラの第三王子なの?まだ、生きていたのね…」

 イナヤの独り言は、離れゆく背中には届かなかった。


 3時間ほど馬を飛ばすと、あたりはオレンジ色の夕日に包まれ始めた。

 聳え立つ白い砂岩の岩塊は、まるで数多の困難に満ちる地上から逃れ、天界へと上がろうと願う人々の祈りを聞き入れた神の御業による天への架け橋を思わせた。天まで伸び切れなかった岩塊たちは、今ではオレンジ色の光を浴びて、まだ明るい空に神秘的なコントラストを生み出す。

 まるで海と蜜蝋。

 イナヤはそう感じた。

 馬を降りて、林の中を岩塊に向かって歩を進めると、周囲に人影を認めた。

 5人…10人…いや、もっと。

 白いフードを被ったリザードマンたちが、イナヤの前に立ち塞がった。

 夕闇に包まれつつある林の中には、まるでそこに誰もいないかのような静けさ。

 獣や鳥たちさえ、鳴りを顰めていた。

 イナヤが無言でペンダントを掲げると、一人だけを残して、フードの影は木陰へと消えてゆく。

「血がデテイルな」

「問題ないわ」

「あるじをシゲキツル。ミコの服、着替えてシケツスル」

 直線的に切り揃えられた岩山の麓に、三角形にぽっかりと切り抜かれた不思議な通路を抜け、ランタンの灯りがともる部屋にたどり着いた。

「意外に、真新しいのね」

「百年ほどマエ、何もシマナイ人間たちがキテ、ワレラはこの土地を追いヤラレタ。これは、その時にホラレテ穴。おかげでトオルヤスクなった」

「フラム家の最初の人たちね。ここで採掘した石で、町を造ったのよ。でも、その人たちは、さぞかし驚いたのでしょうね」

「ヨソ者は常に迷惑のミヲ植えツケル」

 リザードマンに全裸にされ、月桂樹の枝につけた冷たい水を撒かれても、不思議と恥じらいは感じなかった。爪が剥がれた指先に軟膏が塗られて、白い布を巻いて隠される。巫女の服といっても、それは彼らが着ている服と変わらないものだった。ただ一つの違いは、胸元にある化石のペンダント。

「このイシは、お前のイノチヅナだ。求められても、渡スナ。中ではサワグナ。静かに会話シル」

 古めかしいランタンを渡され、長い下り階段を降りた。

 まるで地獄まで続いているみたい、とイナヤは思った。

 途中で来た道を振り返るが、そこには漆黒があるだけだった。

 下に目線を戻し、しばらく静止する。


 …寒い。

 息が白いかもしれない。

 乾いた口腔から唾液を無理に引き出し、ゴクリと飲み込むと、再びゆっくりと歩き出した。


 無限と思われた階段は、唐突に平らな岩盤に変わった。

 踊り場では無かった。

 どこまでも、ノミで削られた平らな地面が広がっているようだ。手を伸ばしても何も触れない。天井にも、壁にも灯りは届かず、何も無い。

 何も無い。

 イナヤはハッとして、後ろを振り向いた。

「帰り道が分からなくなるっ」

 その時、うぅぅぅぅんと、地響きのような振動が轟いた。

「ひゃっ!」

 イナヤは座り込んだ。

「用を済ませておくべきだった…」

 何かが、ここに居る。

 何か…それは、イナヤが求める相手であることは自明だった。

『気にするな、大抵は皆、そうなる』

 ごごごご…というまるで巨大な猫が喉を鳴らすような音に同期して、頭の中でパヴァーヌの地方語が紡がれる。それは、イナヤが日常で使う言葉で、古代バヤール王国にルーツを持つ、この地方独特の訛りとは異なった。

「お…お初に、お目にかかります。フラム家の次女、イナヤと申します。今日から、お話のお相手を勤めます。ご覧の通り、世間知らずの小娘ではありますが…どうぞ、よしなに」

『うむ…』

 短い唸りは、肯定する意思を感じさせた。

 …沈黙が続く。

 暗闇のどこかから、とても緩やかな風を感じた。それが一定の周期で止まったり吹いたりを繰り返すのを知って、それがここの主人の吐息だと悟ってゾッとした。

『先に言っておくが、おぬしたちが懸命に覚えて来る物語は、もう話す必要はない。全て聞き飽きた。おぬし個人の話をするがよい。それを喜ばしく思うのも、疎ましく思うのも我の勝手なのだから。気にせず話すが良い』

「…あの本かっ」

 イナヤは思わず口に出して悔やんだ。幼少期に渡された古ぼけた革表紙の書籍たちは、衣装箱の底で今も眠ったままだった。

「その前に、お姿を拝見させていただいても?」

『すぐ側におる。好きにするが良い』

 イナヤは右足だけ前に進めて、ジリジリと慎重に進んでゆく。

 手のひら大の鱗が、ランタンの赤い光を反射した。

 足元に、剣ほどもあろうかという、恐ろしくも巨大な鉤爪が姿を現した。

 徐々に照し出された姿は、それでも、なかなか全貌を見せてはくれなかった。

 それほどに、巨大な生き物。

 水晶球のような眼が、ランタンの灯りをギラリと反射したかと思うと、半透明な内瞼が下から上にと現れ、ぬらりと瞳を覆った。その口元からは、はみ出た鋭利な杭ような歯が無数に並び、その頭部には立派な角が伸び、先端はあまりに長い所為で光の届かぬ暗闇に溶け込んでいた。

 竜。

 かつて、先人たちが魔法や魔剣を駆使して戦いを挑み、人族の生存圏を勝ち取ったという仇敵。

『あえて姿を見ようとしない者が多かった…満足か?』

「…え、はい。でも…お尋ねしても?」

『話すのがおぬしの役割だ』

「はい。それでは、お気に触るようでしら、すぐにやめますので…その、お身体が…体調が優れないのでは?」

『これか…よもや、我を縛ったその子孫にそれを聞かれるとはな…時が経つというのは、不可思議なものだ』

「す、すみません。やめます」

『良い。我は、ずっとこれと争っていた。おぬしが我と語らうのが役目であるように、それが、この穴蔵での我の役目ぞ』

 ぐるぐると喉を鳴らしながら、竜が片手を地面からもち上げると、赤くネバネバとした菌糸のような束が、ブチブチと音を立てて千切れた。

 イナヤは、心の内側で、痛みを感じた。

「おやめください、どうか…」

 竜の鼻先が急接近し、イナヤは死を覚悟して目を閉じた。

『…妙な気配だった。いつ食われるやも知れぬと恐怖する者は多い。死を覚悟の上で望む者もおる。覚悟がつかず、いつまでも泣きじゃくる者さえもおった。しかし、おぬしからは、最初から妙な意思を感じる。それは、意気込み…といったところか。我の姿を見ておきたかったのは、好奇心からではあるまい。その意気込みにとって、確認しておく必要があったからだな』

 イナヤは息を呑んだ。

『心を覗くこともできるのだぞ』

「だ、え?だったら、千夜物語を話す意味がないじゃない?」

『それでは、退屈しのぎができなくなるであろう。蜥蜴人どもの頭は空虚で、どれも似たような言葉しか返さない。だが、人間の思考は時に突拍子もなく、稚拙だが、奇異に溢れる。それは、引き出しに閉まって置いたものではなく、話を紡ぐうちに新たに、次々とまるで源泉のように湧き出す類だ。それは、心を読んだとて、見えるものではない。我はそれを娯楽とし、この屈辱と痛切の日々に耐え抜いてきたのだ』

「眷属なのでしょう?それを聞いたら、彼らは悲しみますよ?」

『奴らが勝手に思っているに過ぎん。我らの寿命は長い。子が育つまでに千年かかるのだ。たかだか数万年で、あそこまで小さな種になる訳がなかろうに。そもそも、皮膚に鱗がある、なしで眷属が決まるのならば、おぬしら人間の眷属は、果てしない種類がいることになろうぞ』

「…その理屈は解らないけれど、そこは、もうその程度にしてあげて。不憫でならないわ」

『では…まずは、話すが良い。何ぞ、望みがあるのだろう』

 イナヤは身を正して、竜の問いに返答した。

「ご慧眼に敬服します。永劫の時を生きるあなた様には些細なお話かも知れませぬ。しかし、私にとっては違います。一世一代の賭けに出るつもりで、ここに参りました」

 イナヤは、蛮族たちの船団が故郷に迫っていることを告げた。

『それで、我の力が役に立つのでは、と踏んだわけだな。不憫な人族の娘よ、我はここから離れること叶わぬ。それが、我に掛けられた太古の呪い故に』

 イナヤはゆっくりと、その場にしゃがみ込んだ。

 …。

 深く長い、竜の呼吸音がどこまでも広い、暗黒の空洞にこだまする。

「…息苦しくならないの?」

『蜥蜴人どもが、風車を回して外の空気を送っている。四六時中な』

「夜も昼もなく?」

『夜も昼もなくだ』

 イナヤはくすくすと笑った。

「リザードマンも、太古の竜も、大変なのね…」

『それに人間もな。生を紡ぐと言うのは、一世一代の覚悟の連続だ。太古より、生きとし生ける者たちは、死力を尽くし命を繋いで来たのだ』

 イナヤは、首元の化石を眺めた。

「太古より…か」

 ぐるるる…と竜はイナヤの手元を片目だけで見下ろし、いっそう喉を鳴らした。

「ねぇ、この化石は何の意味があるの?」

 やや、間が空いた。

『歴代の巫女の中で、おぬしが群を抜いて不勉強だの』

「や、歴代って…ひどいわ」

『フラム家がこの地を統治するようになるよりも、遥か以前からの…』

「わかったわよ、ごめんなさい!もう、聞きません」

 再び、沈黙。

『初日にして、職務放棄とはな。巫女が聞いて呆れるわい』

「だって、知らないんだもん。私には、話しようがないわ」

『これでは、どちらが言の葉を紡ぐ語り部なのか分からぬが、まぁ良い。これも退屈しのぎには変わりない。心を鎮めるが良い』

 イナヤの頭の中に、イメージが湧いてきた。

 それは、永劫の時を生きる、竜の思い出話…。


 その時の大気は今よりも暗く、火山の噴き上げる瘴気と煤で澱んでぼやけていたが、今よりも格段に暖かく、かつ精霊の力に満ちていた。

 長大な翼を持つ二対の竜たちは、生気に溢れ、自由に満ちた空で共に生きる喜びを存分に謳歌していた。

 だがしかし、冬の時代が到来する。

 世界から無尽蔵に供給されていた力は弱まり、竜たちは飢えた。

 骨ばかりの生き物たちを食し、口を汚し、その体内にわずかばかりの魔力を補充することで、何とか痩せ細ろえた体を維持する日々が、彼らから万物の王者たる誇りを奪い、少しずつ心を削ってゆく。

 苦境に満ちた数千年の後、訪れたのはかつての火焔と精霊に満ちた楽園の再来ではなく、新たな力ある地上の支配者の台頭だった。

 新たな種族は、とても小さく骨ばかりの体で食する価値もなかったが、鉄と魔術を用い、無謀な戦いを竜たちに挑み始める。

 殺しても殺しても、小さき者たちはその数を増やし続け、何度も何度も、無謀な戦いをやめなかった。その無尽蔵の戦意に竜たちは困惑し、やがて疲弊した。まるで彼らが世界からの刺客であり、かつての恵みを竜たちから取り上げ、今は彼らだけに分け与えているのではないかとさえ思い始める。

 戦う度に、小さき者たちの力は増し、反して竜たちの体は痩せていった。

 ついに、小さき者の魔術が一方の竜の四肢を岩肌に封印した。残された竜の目の前で、その岩は無惨にも砕かれる。無機質なレリーフと化した竜は、二度と復活できぬ無数の石の破片へと変わり、残された竜は、再び空へ飛び立つ気力さえ失い、平伏したまま大地の底に封印された。


 イナヤの手のひらには、夫婦だったのだろう、砕かれた竜の羽根が化石となって残されていた。

「もう一人には、羽毛が生えていたのね」

『一翼というらしい』

「…これが、その最後の欠片なのね」

 化石の上に、一粒の水滴が垂れた。

「ごめんなさい、大事なものなのに。私、泣いていたみたいね。へへ、不思議」

 竜は黙したまま、化石を見つめていた。

「…これが欲しいの?そうよね、だって、きっとそうだわ」

『大地を安んじれば、その対価として愛しき者の面影を与えん』

 重苦しい音が、暗闇に反響する。

「え…?」

『この地に眠る病巣を滅することが出来れば、自由とする。役目を完遂した後、我を解放する鍵が、その羽根なのだ。だがこれはあくまで、呪詛である。可能性のある条件をつけることで、その力を増幅させているのだ。羽根を受け取っても、解放される訳では決してない。病巣の元凶は得体が知れず、我の体を相手取ってなお、この通りに蝕んでおる。この呪いの目的は、我を永遠にこの穴蔵に縛り止めることなのだ』

「じゃぁ、あげるわ」

『…なんだ、と?』

「あげるって言ったのよ。大切なモノなのでしょ?あんなのを見せられたら、こうするしかないじゃない。どうせ、封印も解けないんだし」

 イナヤは立ち上がり、犬歯のように飛び出した牙のひとつに、ペンダントをかけた。

「本当なら角がいいんだろうけど、私じゃ届かないし。ごめんなさいね」

 ぐるるるる…と竜は低く、静かに唸り続けた。

 それはまるで、久方ぶりの恋人との再会を愉しむかのようで…。

『おぬしが、大馬鹿の類であることは確かなようだ。先ほどまでは、恐れを知らぬ娘と買い被っておったが。長きに渡る隠遁生活で、どうやら我の勘も鈍っていたようだ』

 竜の良からぬ話ぶりに、イナヤは戦慄を覚えた。

 ぶちぶちと激しい音を立てながら、赤い菌糸が剥がれ始めた。手足ばかりでなく、腹部や尾にも深く蔓延った菌糸は竜の厚い鱗をボロボロに溶かして、筋肉の奥にまで手を伸ばしていた。それらを引きちぎりながら、竜はいく百年ぶりに、その身体を起こし始めていた。

「痛いっ…死んじゃうわよ!無理しないで!きゃっぁ」

『これが、無理をせずにいられようか』

「なんで?いったい、どうしちゃったの?」

 竜はついに、菌糸の最後の一本をちぎり、四本の手足で悠然と、そして毅然と立ち上がった。

『呪詛はまだ生きておる。だが、大地の戒めは解けた』

「それって…つまり?」

 恐る恐る…。

『病魔は、この地を離れ、どこぞを散歩しておるのだろう。感じるぞ…そう遠くはない。ふむ、よもやよの…。娘よ、今すぐここを去るが良い。我が岩盤を撃ち抜く前に、この山から離れるのだ』

「ちょ、それは、明日には伸ばせないこと?」

『それでは、おぬしの願いに応えられぬぞ。良いから急げ。いくら気の長い我でも、今はそれほど待てそうにないでな』

 竜は首を動かし、牙に掛けられたペンダントを空中に投げ上げたかと思うと、器用にゴクリと飲み干した。

「私、とんでもない事をしたのかしら?」

『それを聞く相手を間違えておるのは確かだ。千を数えるまで待つ。急げ、小さき勇者よ』

 リザードマンたちに追われながら、イナヤが喉をカラカラに枯らして地上に這い出た時、岩山が割れて崩落する爆音と、足を掬われるほどの大きな地震に襲われた。

 星空を隠しているはずの、岩山の影は消え失せ、次いでもうもうと上がる黒い土煙が夜空を覆い隠したかと見るや、次の瞬間には目も眩むほどの鋭い閃光が、宵闇に隠れていたはずの、はるか天空の雲たちをも暴き出した。

 まるで髪を焼かれるかのような、灼熱の熱波がイナヤを襲う。

 それは、いく千年か振りの竜の咆哮。

 かつて千里を駆け、天の覇王として無限の時代を生きてきた太古の老兵が、再び紅く燃える夜空に飛び立ってゆく。たとえ朽ちかけた四肢と、肋が浮かび上がった哀れな姿であっても、いったい何人がその進軍を阻めよう。

 リザードマンたちは、腑抜けたように空を眺めるばかりで、もはやイナヤのことなど気にかけなかった。

 東の空に消えた翼を追って、この日三度、馬上の人となる。


 イナヤがフラムの町を見下ろす丘に登った時、すでに竜は何処かの空へ飛び去っていた。

 だが、あの一翼が何をしたかは明白だった。

 まるで昼間のように港を照らす、燃える船団。

 その灯りの中で、優美な甲冑を輝かせながら蛮族たちを切り伏せてゆく辺境騎士団たち。

 イナヤは、風のない丘の草原に降り立ち、セレスティーヌに祈りを贈った。

 恵まれた機会への感謝を、そして、剣の子らである自らが犯した罪への陳謝を。

 それでもイナヤには、魔剣の仇敵たる者への熱い想いを焦さずにはいられなかった。

 今宵、一度も風が吹くことはなかった。

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