第8話 決死隊

「人は幸福を知ると、弱くなるのかしら」

 ゆらめく蝋燭の灯りの中、白い肌にほんのりと汗を纏っただけの姿で、アマーリエは独り言のようにつぶやいてみせた。

 寝台の傍にいる男は横向きになり、彼女の額に張り付いた銀色の髪をそっと整える。

「弱さを知るのも、また強さだ」

「珍しい…」

 アマーリエは、男の手を取り、自分の頬へと寄せる。その頬は、笑いを堪えるかのように震えていた。

「何がおかしい?」

「いえ」

 今度はその手を胸に移動し、両手で包み込む。

「ただね…以前のような、焼けるような情熱を感じないのよ。できれば、今すぐにでもハロルドへ帰りたい。人族の未来だとか、ハイランドの民の苦しみだとか、君主会議の盟約だとか…全部、放り投げたい」

 クルトの指は、ゆっくりと束縛から脱出して、女性の脇腹へと移動する。

「まだ、痛むか?」

 切り傷だらけの、長くがっしりとしたその指先が、一際大きな刀傷を、ゆっくりとなぞる。

「お尻を拭こうとすると、時折すごく」

「よせよ、想像しただろ」

「だって、本当だもん」

 二人は笑い合った。

「俺の夢は…」

 一息置いて、クルトは静かに語り始めた。

「お前との間に、子どもを作り、その子どもたちがパヴァーヌをも凌ぐような王国を築き上げることだ」

 頬に手を当てて、アマーリエは傍の男を眺めた。

「とことん、戦争好きの野心家なのね」

 男は指を振った。

「違う、パヴァーヌを攻めて弱体化させることが目標じゃない。クラーレンシュロス領をパヴァーヌを呑み込むほど拡大させて欲しい、と言ってる訳じゃない。パヴァーヌを凌ぐような強さを持つ、ということだ」

「軍事力、というだけじゃなさそうな言い方ね」

「その通りだ。だが、もちろん軍事力で負けていては、凌ぐほどにはなれない。言いたい事が、わかるか?」

 アマーリエは瞳を閉じて、うなづいた。

「もちろんよ。国を豊かにして、平和な時代を築きたいのよね」

「その通りだ。だが、国全体のことは、俺には手が余る。だから、自分の役割は細分化して考えるんだ。そのために俺が努力することは何か。俺が得意とする分野、練兵で民兵たちを鍛え上げる。パヴァーヌと言えども、クラーレンシュロスの民兵たちは、一筋縄ではいかない強敵だぞ、と思わせる…それどころか、どの列強諸国からも恐れられる存在にしたい。これが当面の俺の役割だと思っている…で、お前の夢は何なんだ?」

「私の夢か…」

 仰向けになり、天幕の暗い天井を見据えながらアマーリエは考えた。

「奪われた国を取り戻したけれど、まだ国土は荒れたままだわ。民の安らぐ姿を早く見たい。食べ物や住まいに困らない日々の安寧を与えたい」

「民が聞いたら、涙を流すだろうな」

「ふふ…そうかしらね。でも偽善じゃないわよ。本心からそう思っているわ」

「そうだろう、疑わないよ。でもな…」

 クルトはアマーリエの額を撫でた。

「もう、それは数年のうちに叶えられそうな目標じゃないか?」

「…そうかしら。こんな状況の中で?」

「今の状況も、バヤール平原の民のためだとか、君主会議の決議だとか、そんな風に考えるから、自分のやりたいことじゃないと思えてくる。だが、どうだ、もっと先の事を考えてみては?この先、自分にできる範囲で、何を成し遂げたい?どんな未来を想像すると、心が沸いてくるんだ?」

 銀髪の女性は、眉間に皺を寄せながら思案した。

「心が躍るような、未来像ということ?」

「あぁ、そうだ。どんな未来になって欲しい?」

「民が増え、都市が栄え、他国からの侵攻に怯えず、蛮族たちも遠くに追いやり、それこそ、騎士たちがトーナメントやジョストのお遊びに興じて、溢れる情熱を消費するだけでいい未来かしら」

「開墾地を増やし、食を安定させる必要があるな」

「食が安定して、平和な時代が続けば、民も増えるわ」

「平和を確立するには、防衛力の強化は大事だな。恣意的な意味で、立派な城もあるといい」

「クラーレンシュロス城を、より堅牢で、さらに以前よりも美しい城砦にしたいわね。そうしたら、先祖にも誇らしいわ。でもこれは、民には負担をかけるだけかしら」

「そんな事はない。城は攻め込む側にとって、常に脅威だ。立派な城があるというだけで、平和を維持するための礎にもなるし、民たちにも心の拠り所になるだろう」

「じゃあ、民兵組織の再編成と、城砦の再整備、農地の拡大と不可侵協定が目標というわけね」

「いやいや…」

 クルトは額にあった手を開き、天井へと伸ばす。

「それらは、当面の目標だ。俺と違い、お前はもっと先を夢見るべきだ」

「…わからないわよ、そんな急に言われても」

「いや、そこはすぐに答えられないといけない。いいか、お前は時に兵たちや、民たちに苦難を強いなければならない時がある。そういう立場だ。それは、今までにもあっただろう。その時には、民を僭主たちの悪政と搾取から解放するためだと、即答できていたはずだ。これからは、別の目標が必要なんだ。騎士や民たちが憧れるような輝かしい未来像を、お前が示すために。そしてそれは、お前自身の心をも魅了するような未来でなくてはならないと思う」

「でないと…私自身が疲れてしまうから?」

「そうだ。自分のためと思えなければ、成し得るまで続けるのは困難だろう。俺たちは、むしろお前のわがままについていくのが役割だと思ってくれていいんだ。アマーリエ、お前の心が踊る未来は何だ?」

「私の心が踊る…」

 アマーリエの脳裏に、たわいのないイメージが湧き上がった。それは、あまりに稚拙で、漠然としている。

「たくさんの子どもたちが、楽しく笑っているような世界?」

 パチン、とクルトが指を鳴らした。

「それを忘れるなよ。そうだな、20年後にパヴァーヌの人口を抜こう。それが、お前と俺の目標だ。その目標が叶ったら、クラーレンシュロス城を…まぁひとまずは修繕しておいてだな、その先にどんな君主も羨むような立派な城に大改修するんだ!とても、あの国には手を出せない、そう思われるような権威のある国にするぞ」 

 アマーリエは、ニヤリと微笑んだ。

「やっぱり、あなたは野心家だわ」

「何を言う。俺は全力で手助けするが、これはお前がやるんだ。俺は、相続権を得なくてもいい。これは、騎士団長であり、女領主でもある輪光のアマーリエが描いた夢なんだからな。いいか、忘れるなよ」

「そうね…あぁ…昔は、陰気な小娘だったのに、分からないものね」

「誰にだって、自分が何者か解らない時期はある。逆に言えば、パヴァーヌ王だって、最初から深謀遠慮に長けた王と恐れられていた訳じゃない。誰だって、昔は鼻垂れ小僧だったわけさ」

「いいわ、覚悟した」

「いい娘だ。弱音を言いたくなったら、いつでも俺を呼べ」

 そうする、と言ってアマーリエは傷だらけの騎士の胸に抱きついた。

「あなたのように、私も成長しないと…」

「何だ?」

「何でもない」

 胸に収まった銀色の後頭部を撫で下ろし、クルトは躊躇いがちに口を開いた。

「なぁ…ところで、剣の方は、大事はないのか?」

 アマーリエは顔を上げずに、片目だけで脇に立てかけた魔剣を見た。

「ずっと、それを言おうとしてたわね…」

 くぐもった声で、続ける。

「正直、手放したいわ」

「そうか」

 あっさりと肯定。

「だって…全ての言葉に、嘘があると注釈を入れてくるのよ?信じられる?そもそも、言葉というのは、意図の方が大事であって、言葉じりをかいつまんで、それが虚言だとか言われても、さして意味があるものではないわよ。病気の人を見舞った際に、思ったよりも元気そう、なんて言うのは嘘だなんて、ナンセンスだわ」

 クルトは、愛する者の頬をそっと撫でた。

「無理するなよ。何なら、俺がいつでも捨ててきてやる」

「あなただって…」

「俺は、いつだって無理なんてしてないさ」

 アマーリエは一瞬、頬を膨らませた。

「でもね、ギレスブイグが言っていたの。魔剣は、その製造過程で大量の人の魂を消費するって…あまりに恐ろしくて、なるべく考えないようにはしているけれど…それを知ったからには、大切にしたい」

 クルトは眉間に皺を寄せた。

「なんだって?そりゃ、本当か?お前の心を揺さぶるために…」

「誰にも内緒よ」

「嘘かも知れないだろ、その頃、ヴァールハイトは無かったんだし」

「…かもね」

 クルトは身を起こして、髪をかきむしった。

「…まじかよ」

 アマーリエは彼の姿を見て、言いかけた。

「あなたの…」

「?」

 一息ついてから、アマーリエは言葉を繋げた。

「あなたの従者、ル=シェールの消息はまだつかめないの?」

「ル=シエル?何だ、急に。気にしてたのか?じゃぁ、謝らないとだな。実はまだ話して無かったが、手紙を受け取ったんだ」

 彼女も身体を起こした。

「本人から?」

「あぁ、そうだ」

 クルトは目を合わせない。

「どんな内容?」

いや、あの…と額をポリポリとかいた。

「真偽のほどが不明だったんだ。だから、まずは確かめるのが先だと」

「どんな内容?」

「いや、そうだな。確か、北の国では跡目争いの内乱が起きていて、正統王家は後ろ建てに欠いているらしい」

「そう。悩んでいたのよね?国に戻って、ル=シエルと一緒に王家に尽くすか否かを」

「…敵わないな」

 アマーリエは一度首をたれ、髪を掻き上げながら顔を上げ直した。

「あのね、魔剣が無くたって判るから!」

「あぁ、そうだ。その通りだと思う」

 クルトは宥めるように、両掌を見せる。

「あなたは気にしないかも知れないけれど、私たちの馴れ初めは、歌にもなっているのよ?聞いたことあるでしょ?皇帝軍との戦いの話よ。それが、私を置いて出ていきましたって顛末に書き換えられたら、私はどんな顔して酒場に入ればいいのよ?」

「酒場なんて、普段から行かないだろ?」

「騎士たちを労うために、行く時もあるわよ」

「そうしたら…きっと、みんな奢ってくれるさ。可哀想な姫君のために」

「嬉しくない!想像したくもない!私がかわいそすぎる!」

「騎士たちだって、自分で金を出すさ。オラースだって、きっと優しく慰めてくれる」

「いやだ」

 再び、二人は笑い転げた。

「そういえば、北の国からの手紙って、配達人を雇ったのかしら。定期便があったのは昔の話よね?」

「それだ!確かに、配達人を雇ったらしい。それに、驚いたんだが、どんな人物だと思う?」

 アマーリエは片眉を曲げた。

「何?嘘の香りがするんだけど、意味が分からない。人間じゃないってこと?」

「あぁ、確かに厄介だな。会話が盛り上がらない。その通り、人間じゃなく、小鳥だった!」

 アマーリエは目を輝かせた。

「何、それ!?小鳥が手紙を咥えて飛んできたの?」

「流石に、長旅の間、口に咥えっぱなしじゃ、顎が…くちばし?が疲れるだろう。脚に括り付けられてたんだが、いやぁ、ヒヨドリが窓の外でガラスを突くんだ、驚きだろ?」

「待って、落ち着きましょう。ル=シエルくんは、動物使いなの?」

「鳥の声が解る、とは言っていた時があったけど、正直、聞き流してたからな」

「なんでよ、すごいじゃない!?鳥と意思疎通ができるのよ?敵軍の偵察もできるし、諜報活動にだって便利じゃない?でも、話し始めたら、長そうね。いつもピーチク言ってるんだから」

「その頃は、軍隊での活動なんて真面目に考えてなかったからな。それに、鳥は人間じゃない」

「解ってるわよ。何が鳥は人間じゃない、よ。当たり前じゃない」

「いや、その顔は解ってない。いいか、まず、鳥の話は長くはない。言葉は多くても20種類くらいしかないらしいんだ。内容と言えば、『敵が来た』『助けて』『機嫌がいい』『好きだよ』といった具合だ」

「まぁ、でも必要最低限、伝わればいいわ。鳥の方が、人間の言葉を理解できないのだから、諜報活動は難しくても、偵察くらいになら使えるじゃない」

「しかし、鳥にとって、武装した人間は危ないとは思っても、敵とは思わない。彼らの敵とは、自分を食べるもの、巣にいる雛を食ってしまうもの、そういった輩のことだ。きっと、関心の対象が違うと思う」

「つまり、蛇の接近は教えてくれても、人間の刺客は気に留めないってこと?」

「そうだな、せいぜい仲間が来たぞ、と教えてくれる程度なんだろうと思うぞ」

「でも、そんな鳥を使って、どうやって手紙を?今の話だと住所を教えたって、意味ないじゃない」

「それだ。あいつが、動物を使役する魔法を身につけたか、あるいはそれが出来ることを黙っていたか…」

「あるいは…別の人が放ったか…」

 二人は急に押し黙った。

「…まさかね」

 だとすると、その目的は…。

「あぁ、まさかだな…」

 ふと急に、クルトの身体に緊張が走った。

「アッシュです」

 天蓋の外から、アマーリエの従者が声をかけてきた。

「夜襲です。酒保隊が襲われています」

 二人はすぐに寝台から降りた。

「当番は?」

「スタンリー卿は隊を連れて、すでに向かっておいでです」

「なら、大事は無いと思うけど、念のため甲冑を着ておくわ。アッシュ、手伝って」

「はい。失礼します」

 躊躇なく、灰色の髪を後ろに束ねた青年がタープを押し除けて天外の中に進み入る。

「おいおい、まじまじと見るなよ」

 クルトはズボンを履きながら、従者に命じた。

「ご心配なく、もう見慣れています」

 クルトの目線を受けたアマーリエは、身体を隠すこともなく、こめかみをコンコンと叩いてから答えた。

「どうやら、嘘は言っていない…」

「嘘だと良かったよ!」

 二人のやりとりを意に介さず、アッシュは手際良く綿詰めを取り出して止め紐を解いていく。

「甲冑の準備をしているうちに、とっとと肌着を着てください」

 これは、誰でも見て判る。どうやら、アッシュは本心から苛立っていた。


 翌朝、アマーリエの一隊は昨夜の襲撃犯が籠る村に到着した。

 村の外周には、ところどころ石垣が残るが、建築資材として転用されたのだろう、これでは途切れ途切れで防衛の要を成さない。石垣は、きっと古バヤール帝国時代の名残と思われた。

 このバヤール平原は、西にハイランド王都、聖教皇国のある山岳地帯と、東に大河が縦断する間にある縦長の平地だ。辺境騎士団は南西にある山脈の切れ目から平原に進出し、西端にある大橋を目指して進んでいる。しかし、ここはまだその行程の半分も消費していない。

 平和な村だったのだ。

 蛮族や野党たちが跳梁跋扈するには、このどこまでも続くかのような、なだらかな平地は適さない。かつて山岳に住む好戦的な部族として有名だったハイランドの戦士たちは、今では馬に跨がって平原を駆ける騎士たちに様変わりしている。防衛能力に欠けていた訳ではない。此度の蛮族たちの侵攻の規模が、桁外れだったのだ。

 かつて子どもたちが走り回り、母親たちが編み物を持ち合って語り楽しんだ井戸、家の軒先、男たちが働いた農園、牛舎、鶏舎は…崩れて泥に覆われ、あるいは焼け跡となってガランとした黒い空き地と成り果てている。 

かつて平和だった村は、まるで時が止まってしまったかのように、無機質な残骸の塊だ。

 人が営む場所には、独特の雑多とした活気と温もりを感じる。しかし、蛮族に襲われた村には、それらがまるで無い。まるで、確固たる意思を持って、それらを徹頭徹尾、破壊することを目的としたかのようにさえ感じてしまう。

 人族を根絶やしにし、生活の痕跡を一欠片も残すまいという、すさまじい否定。

 

 平原を東から西に吹く風が、色とりどりに立ち並ぶ軍旗を靡かせる。

「お前は、私たちが死ぬのを待っているの?」 

アマーリエは空を見上げていた。遥か上空、白みがかった青空に一羽の鳶が旋回している。

 孤高の雄は、地上を見下ろし何を思っているのだろう。

 早くご飯にありつきたいと願っているのだろうか。はたまた、やれやれ、またもや人間どもは徒党を組んで殺し合いを始めるのかと、呆れているのかも知れない。

 さもありなん。

 風と太陽が支配するその大空と違い、私たちのいる地上では、甲冑のひしめく音と男たちの怒鳴り声、馬のいななきで満ちていた。

 この地方では、初夏に雨季が来る。まだ芽吹いたばかりの草花は、二千の蹄と四千の足でもって踏み躙られ、その度に土肌が削がれてゆく。数多の命が芽吹くこの季節は、その反面、多大な金と物資、そして義憤と命とを浪費する戦争を始めるにもまた、適した季節でもあることは皮肉とさえ感じた。

「姫、蛮族どもは逃げるつもりは無いようだ。村の中で息をひそめているぞ」

 背こそ低いが、ひときわ立派な巨躯を誇る騎士オラースが、私の元に馬を寄せて来た。以前に別れた時と比べ、輪郭をぐるりと囲む髭は夏の草原のように伸び、まるでからみつく海藻のようにも見える。しかし、その下にある頬の肉は幾分か痩け、身体は以前よりも引き締まったかのように見えた。白かった肌は陽に焼けて、全身から放つその精悍さは、以前の二割増しといったところだ。

「村の周りをぐるぐる回っている、狼に乗った奴らは、さしずめ好戦派ってことかしら」

「蛮族たちにも、いろいろあるからな。いつも、小グループで言い争いを続けている。協調性が無く、反抗心が強いが、一族のボスの命令は絶対だ。いざ戦いが始まれば、見違えるぞ。気をつけろ」

「あなたが特定した場所なのだから、一番槍が欲しい?」

 オラースは甲冑の傷を指差して言った。

「もうとっくに、それは頂いている。血の気の多い奴に任せたらいい」

 オラースにして、この言葉か、とアマーリエは内心舌を巻いた。

「ところで、あの村がシュバルツェンベルグ領だという話は本当?」

 騎士はあぁ、と息をつき、籠手で顔を掻きながら面倒臭そうに答える。

「ここらは、事情が複雑なようだ。二百年ほど前は平原一帯が巨大な一つの国だった。竜を信仰し、周辺国を傘下に治める古代バヤール帝国だな。が、蛮族の大侵攻の時にあっけなく壊滅した。なんだったか、あの有名なやつだ」

「戦記にある“穢れの三年“」

「あぁ、それだ。三年後に剣の民たちが連合を組み、大掃討戦を実施した。今回のようなやつだな。そして、ようやくこの草原から蛮族たちを追い払った後、戦に参加した者たちは平和の到来を賛美し謳歌しつつも、しっかりと勝者の権利を欲したわけだ。誰だって、働いたら褒美は欲しい。だが、解放軍が目にしたのは、骨になった人や馬や羊。金銀は各部族の本拠地へと運び去られた後だった。畑は枯れ果て、放置された死体と、蛮族たちの糞尿で小山ができていたらしい。まぁ、誇張だと思うがな。蛮族から、戦利品を得た者たちもいただろうが、それは稀な幸運だったらしい。その結果、何が起きたと思う?戦いは終結しなかった。兵士として徴用した者たちへの恩給と、自国の民たちを納得させるために、今度は人族同士、解放した土地と、互いの軍資金とを奪い合ったわけさ」

 オラースは、愚かな人間たちの性を嘆くかのように、戦の神を示す印を切った。

 当時の為政者たちも、この人の強欲さという愚かな病に、理性という秘薬を投じるための医者が必要だと感じたらしい。先に剣を収めたら負けの状況下で、互いに血を流し続ける人族らの行いに、さぞや幻滅したのだろう。この殺戮騒動の数年後、蛮族に対する剣の子らの軍勢を統括指揮する者が必要だと、各神殿を統括する聖教皇が一つの令を発布した。それにより創設されたのが、君主会議により選出され、聖教皇によって承認される連合軍指揮官、皇帝座の誕生である。

ただし、この場合の『皇帝』は他国を属領とする覇権国代表を意味する名詞ではない。

 年代記をさらに遡ること千年、竜たちとの抗争で疲弊し、一度滅亡することになるルドニア帝国の英雄をあやかった呼称だ。

 今現在はその責務は空席だが、シュバルツェンベルグ公がその前任者であった。

「まぁ、どの道あれだ。皇帝をぶち殺しちまった姫が、今さら気にしたってはじまらねぇって話だ」

 オラースは、どや顔で語る。彼にして、粋なジョークを吐いているつもりなのだろう。アマーリエは、かつてこの無骨で横柄な騎士を心底嫌っていた時期があった。

 今は、そんなことは無い。

 彼には嘘が無いからだ。

 語弊や誤解、いさかいやいざこざを歯牙にも掛けない彼は、思った事をそのまま口に出すか、口をつむぐかのどちらかしか無い。

 だから、こうして彼と話していても疲れない…。

「なぁ、作戦を聞かせてくれ。どうやって攻め込む?」

「住民たちにどれほどの生き残りがいるのかにもよるわ。斥候の報告を待たないと」

「姫、俺の経験から言えば、それは無い。望むだけ無駄だ。この一帯が占領されたのは、去年の秋口だ。それから、もう半年にもなる。もう、みんな食われちまったさ。生き残っていたとしても、さらにひどい目にあっている。そいつらは、きっとこう願っている」

 オラースは馬を近づけて言った。

「早く死にたいと!」

 アマーリエはため息をついた。

「準備に一年を費やしたのは、長すぎたわね」

 ランドバルト、クリューニ両男爵を相手どっての再占領を終えてから、立て続けに皇帝軍との存亡をかけた対決。それらを凌いでから、早一年。万全とはほど遠くとも、こうやって一軍を再結成して遠征行に繰り出すには、最短と言ってもいい準備期間だった。だが、蛮族たちに侵された人々にとっては、それは絶望的な時間だった。

「原因は、大橋の陥落だ。その頃、俺たちはそれにかまっていられる状況ではなかった」

「そうね…ありがとう」

 アマーリエは伝令に作戦会議の旨を告げ、近衛たちと一緒に急拵えの本陣へと馬を返す。

「イネス、あなたの意見は?」

 金色の髪を後ろで束ねた近衛騎士が、団長の隣に馬を付ける。

「攻め手の視線で言えば、あの狼兵を弓で射るのは困難です。引き付けて、槍で迎え撃つのが得策かと」

「遠くから弓を撃ってきたら?」

「それほど懸命な判断をするとは思えませんが、矢は無限ではありません」

「蛮族は毒矢を使うわ。軽装の者たちにとっては脅威よ」

「殲滅するためには、どの道、騎兵が必要です。荷を乗せたダイヤウルフと騎士を乗せた軍馬ならば、後者の方が機動性には負けますが、スタミナで勝ちます」

「守り手の目線もあるってこと?」

「はい。私が守り手ならば、集落中央にある古い神殿に立て篭もります」

「同意だわ、ありがとう」

 本陣が近くなると、忙しなく行き交う人々が増えてきた。その中に、栗毛の若い騎士が、武装した商人たちを相手に話し込んでいる姿を認めた。

「ミュラー、軍議をするわ。兵たちも出撃体制で整列させて頂戴」

 彼は私の声を聞くと、話を切り上げて馬の側まで走り寄る。

「アマーリエ、斥候は何と?」

「まだ、戻っていないわ。遅すぎるから、捕まったのかも知れない」

「この見晴らしでかい?いや、でも・・・となると、村の周りに塹壕を掘って潜んでいるのか。起伏や茂みで見えない部分に罠を張っているのかも」

「螺旋行軍で掃討する」

「それがいい、掃討が目的だからね。小隊ごとに時間差を付けて出立させよう。外周から円軌道で内側へと攻め込み、徐々に敵を追い込んで最後は本隊で一掃だ。そうだ、今回オラースは本隊先鋒にしよう」

「彼は少し休みたい気分みたい」

「本当かい?オラースが?では…クルトに任せよう」

「そうね、彼もそれを喜ぶ」

 私たちの前を大きな荷馬車が横切る。重そうにゆらゆらと揺れる荷台には、籠に入った鶏、繋がれた山羊、洋服や食器類、槍や弓矢、バックラーまで、あらゆる品々が満載され、私に手を振る子どもたちの姿まであった。

 アマーリエは、ため息をついた。

「アマーリエ、言いたいことは解るよ。酒保商人たちを陣営から遠ざけろ、だろ?実は、さっきもその話をしていたところなんだ」

「だったら、結果として示して頂戴。行軍を止めた途端にうろちょろされたら、即応に難ありよ。酒保に用がある時は、こちらから出向くように徹底して。女を買うのも、陣営の外だけよ」

「…了解したよ。徹底させるよ」

「ミュラー、時には強気の交渉も必要よ」

 ミュラーは首筋を撫でながら、わかったと返した。

 亡父の剣術道場で幼少期を共に過ごした少年期のミュラーは、顔立ちが整い、頭の回転も早いが、終始おっとりしていて、まるで少女の様な印象だった。しかし、類まれな才能と持ち前の勤勉さで剣術の腕前は、他の誰にも劣ることなく、アマーリエと同時期に師範格を拝命したほどだ。

 しかし、青年期を過ぎた今でも、その頃の頼りなさが抜けきらないように彼女には感じられた。それは、この一年でむしろ増したようにも思う。

再征服の最中にあった彼には、もっと頼り甲斐を感じたものだ。故郷を取り戻そうと張り詰めていた情熱が、抜けてしまったのだろうか?

「…あぁ…そうか。それで、クルトは私にあんな話を…」

 ミュラーには異世界から来たという、古エルフの紋章官ロロ=ノアの後釜を勤めてもらわねばならない。ロロほどの完全無欠の無慈悲で冷徹な頭脳を人間に求めるのは酷であるのかも知れない。だが、彼には彼なりの、ロロには無い誠実さと臆病さがある。それは、キングメーカーとして名高い男装の麗人をも凌ぐ、強力な武器となり得るはずだと、アマーリエは密かに確信していた。

 今度は、クルトが彼女にしたように、彼女が配下の心を導いてやらねばならないのだ。

 天蓋の入り口で馬を従者の一人に預ける。


「戦術は決まったか?」

 傷だらけの全身甲冑を纏ったクルトは、私の椅子で短剣の曲がりを直しながら話しかけた。

「ちょっと、その椅子は、私のお気に入りなんだから、傷をつけないで頂戴」

 騎士は大袈裟に驚いてみせる。

「気の毒だが、すでに傷だらけだ。きっと所有者が魔法の甲冑を着たまま座るからだ。でも、待てよ。この傷の深さは尋常じゃないな…椅子の所有者は、きっと驚くほどの巨漢に違いない!」

「こいつ、へらず口を」

 クルトの口をひっぱり、そして抱きついた。

「住民の生き残りがいるとすれば、中央の神殿に集められている可能性が高いわ。でも、その可能性はさほど期待できない。そして、そのどちらにしても、時間を無駄するのは良くないわ」

 互いの甲冑が軋む。

「悲観するな、お前のせいじゃない、蛮族が悪いんだ」

「どの村もそう。小集団の蛮行を食い止め、叩いたところで全体への影響力は微々たるもの」

 クルトは籠手でアマーリエの後頭部をコツンと叩いた。

「だが、それでも確実に蛮族の数は減らせている。救った命だって確かにある。この遠征は、過程の一つだ。お前の目標は何だ?こんな小さな村の惨状を見てきただけで、それは揺らぐようなもんなのか?」

「…私は、弱くなってる?」

 クルトは額にくちづけをした。

「そんなことはない。猪突猛進する前に、色々と考えるようになっただけだ」

「随分と一生懸命に励ますのね。尻に惹かれた弱みと言うやつね」

「ちょい待て、俺がいつ尻に惹かれたって?」

「あの時、先に声を掛けてきたのはあなたの方よ」

 アマーリエはアッシュにアーメットを預け、水を所望する。

「あの時の俺はどうかしていた。白いドレスに大剣を帯びた少女に声をかけるなんてな。可憐で繊細そうな見た目に、すっかり騙された」

 水を含むと、礼を言って木杯を返す。

「あら、知らなかったわ。可憐なのが好みなの?」

「ん、まぁあれだ…別に不満はないさ」

「そういう所が、世間では尻に惹かれてるって言うのよ?」

 アッシュが割って入った。

「騎士たちがご参集です」

 アッシュが天蓋を開き、クルトが先に出て、軍旗に一礼する。彼が騎士たちの列に加わるのを待ってから、アマーリエは整列した騎士たちに向かい合った。

 簡素なものから意匠を凝らしたものまで、勲章とも言える戦傷を刻んだ数多の甲冑たちが、陽光を受けて煌びやかに輝き、まるで騎士たちを守護する役目であることを誇っているかのように感じた。

「良い知らせがある!」

 アマーリエは、下腹に力を入れて力強く発した。

「あの村は、シュバルツェンベルグ領だ!誰に遠慮することはない、奪還し、領有する!そして、右手を見よ!遠くに霞む山塊の先には、グラスゴーの街がある。困ったことがあるとすれば、あの霊山深谷を切り開いて道を通さねばならんことと、騎士団本部の壁に掘った大理石の地図を、また修正せねばならんということだ。諸君、奮闘せよ!蛮族どもを蹴散らし、新たな領土を手に入れよ!」

 騎士たちが一斉に剣を抜き、天高く掲げて呼応する。

「騎士団に勝利を!クラーレンシュロス伯に勝利を!」

「ミュラー参謀、奪還作戦の詳細を説明して頂戴」

「御意」

 ミュラーが進み出て、一同に向き合う。

 彼は流暢に説明を始めた。

 先ほど、大まかな趣旨を伝えたばかりだが、この短時間で彼は具体的な編成を思考し終えていた。

 集落を螺旋進軍で締め上げる役は、軽装歩兵を分割した分隊で行う。弩隊は均等に分割し、各小隊の支援にあてる。指揮するのは、オラース、ナタナエル、ペルスヴァール、シュタッツ、タンクレディの五人。スタンリーとワルフリードの騎馬兵は、村の外縁を周回し、狼兵の対応と逃げた蛮族の掃討を担当。狼兵の掃討だけは、今回の目標から除外した。村の中心部に集結した蛮族たちを相手にするのは、アマーリエ、クルト、ミュラー、ミシェイル、イネスらの重装歩兵と近衛兵だ。

「蛮族どもに逃げ場はない。故に罠を仕掛け、物陰から急襲し、死に物狂いでかかってくるので、そのつもりで挑むように。こちらには時間と物量がある。孤立したら、遅滞戦闘に徹し、援軍を待つように!」

 ミュラーの言葉の後に、アマーリエが続ける。

「生存者の可能性もまだ残されている。此度も火を用いるのは禁止とする。言うまでも無いが、家屋に侵入する際には、最も警戒すべし。そして、もし、蛮族どもが村人を盾と使った場合だが・・・その場合は、やむなしだ!容赦をするな!人質が有効であると思わせてはならない!くれぐれもこれは忘れるな!私は、私の兵たちの命を優先させる!蛮族どもと交渉はしない!根絶やしにせよ!以上だ」

 ミュラーが最後の号令をかける。

「各人部隊を招集させて配置に付け!」

 一時の静寂が訪れていた平原に、再び人々の喧騒が満ち始めた。

 蛮族掃討戦の始まりだ。


 二隊に分かれた騎兵部隊のうち、スタンリー隊が早々に狼兵の強襲を受けた。

 小柄なゴブリンを背に乗せたダイヤウルフたちは、猪のような猛勇さと、熊のような豪胆さで、辺境騎士団の軍馬に襲いかかる。

 スタンリーはモーニングスターを振り下ろし、すれ違いざまにゴブリンの頭を兜ごと粉砕するが、反対側をダイヤウルフに飛びつかれ大きく揺らいだ。軍馬の甲冑は人用よりも薄く、厚さは総じて1mm弱程度しかない。体当たりと共に繰り出された鉤爪は、軍馬のグラッパー(腰甲)に穴を穿ち、そのまま馬を押し倒さんとのしかかる。スタンリーはバランスを保つのに苦労した。

 そこへ、ダイヤウルフの立て髪にしがみついていたゴブリンが、ナイフを持った片手を突き出す。

 それを肘の装甲で受け流すと、ぐるりと鉄球のついた鎖を振るった。

 棘のついた黒い鉄球は、ゴブリンの手首をへし折り、ダイヤウルフの片目を飛ばした。

「辺境騎士団に勝利を!」

 馬の背からダイヤウルフを振り落とすと、スタンリーは鬨の声を走らせる。

「姫に勝利を!」

 彼の後を、幾人もの騎士たちが風の如く追従する。

 まるで、ちょうどそこに蛮族の頭があった、とでも言うようにスタンリーのモーニングスターは次々とその顔面を粉砕していった。


 村に侵入した重装歩兵たちは、盾の壁を作りながら、まばらな建物の間を一歩、また一歩とゆっくり進む。

 石を積み上げただけの民家の壁は崩れ、屋根が傾斜して茅が散乱している。煙突から香る料理の匂いや鶏舎の動物臭はなく、ただ煤の香りとチーズにも似た腐臭が漂う…。

 最前線に並ぶ女性騎士ナタナエルのアーメットに、カツンと音を立てて矢が跳ね飛んだ。

 貫通せずに地面に力なく落下した、その砂岩を削った粗末な鏃には、黒いタール状の液体が塗られていた。

 ナタナエルは、射手の位置を掴んだ。

「屋根の上だ!」

 居場所がバレたと悟り、ゴブリンが身を起こして、全力で弦を絞った2矢目を放つ。

 渾身の第二射はナタナエルの盾を貫通して、そこで力尽きた。

 3mmの鉄板を射抜いたその威力に、流石に動揺を隠せない彼女の元へ、3射目は無かった。

 イネスが放った豪弓の矢が、ゴブリンの首を射止め、しかしその勢いは止まらず、屋根から突き落とす。

「盾の壁を作れ!盾を鳴らせ!」

 イネスは最前列まで届く声で、兵を鼓舞する。

 ランゴバルト男爵領でラバーニュの元に下り、騎士として取り立てられたナタナエルは、蛮族との遭遇戦は今回が初めてだった。得体の知れない相手には、誰であっても恐怖する。しかし、今は同じ女性騎士であるイネスの声が彼女の恐怖を払拭してくれた。近衛隊のイネスの声が届くということは、すぐそばに騎士団長もおられることを意味していた所為もあった。

 今の今まで、人の気配がまるでなかった村の目抜き通りに、突如として薄汚い小柄な鬼たちが湧いて出た。小屋の扉、石垣の影、屋根の上、草むらの中から、それはまるでゴキブリの大発生を思わせる悍ましい光景だった。

「盾を下ろすな!槍で突け!」

 ナタナエルの隣の者も、その隣の者も、構えた盾にガツンガツンと棍棒や槍の打撃を無数に受けた。盾を構えたからといって、無傷では済まない。左腕が骨折するかも知れない、と思えるほどの激痛が繰り返し襲ってくる。同じ場所を何度も、繰り返して打ち付けられるほどの苦しみといったら無いのだ。

 後ろの者が、盾の隙間から穂先を突き出し、彼女も切先を何度も突き出す。それが、相手に刺さっているのかさえ、まるで分からない。

 蛮族の最前列は、後ろからせき立てる仲間たちに押されて体勢を崩しながらも、突き出された盾を掴み、その上から棍棒を振り下ろす。盾の下からの攻撃は無かった。それを挑んだ者は、数えきれない足に踏み殺された。

 石垣に挟まれた狭い小道で、盲滅法に攻撃を繰り出す肉弾戦は展開される。

 押しつ押されつの、まるで肉団子のような戦いは、しかし不意に呆気なく終結した。

 気づけば、目の前に騎士たちがいた。

 長剣についた血油を拭う、副将の姿もそこにある。

 周り込んで背後を襲った騎士たちによって、ナタナエルのいる一隊を襲った蛮族たちは一掃されたのだ。

「怪我をした者は、手を挙げよ!毒が塗ってあるかも知れない、痩せ我慢するなよ!」

 ナタナエルは身体を見渡すが、黒ずんだ血や、泥で状況が分からない。

 痛みは全身の至る所から。

 疲労は声を発せられないほど。

 息苦しくなり、バイザーを上げたが、すぐに誰かに下された。

「まだ終わっていないぞ、気を抜くな!隊列を整えよ!」

 ルイーサ騎士団長が指示を飛ばしながら、彼女の肩をポンポンと叩いた。

 アーメットの隙間から、騎士団長の甲冑が午後の日差しを受けて、白銀に輝くのが印象的だった。


 村から逃げようと走り出す蛮族らを追って、騎兵の一隊が馬を飛ばす。

 蛮族たちによる決死の抵抗は、重装備の兵士たちに阻まれて、大した成果をあげる事なく終息した。

 残るは、村に一つだけ存在する古い神殿。

 この中に、数人の村人が引きずり込まれる様子を兵たちが目撃していた。

そして今は、固く扉を閉ざしている。

「不吉だな」

 オラースが、神殿の紋章を見上げながら呟き、地面に唾を吐いた。

 地方の神殿は、宗派ごとにそれぞれの神殿を建立できるほどの財力がないことが多い。そのため、祭る神は一柱だけとは限らなくなる。例えば、主神一柱に副神二柱といった具合に、序列がつけられ、第一位の主神の紋章が神殿に飾られるのだ。この神殿の主神は、無地の円形の紋章、その名を『終焉のクロエ』と言った。

 クロエは、12月の神として並べられるほどメジャーな存在だ。破壊、眠り、安寧、貞節、浄化を司り、心の平穏を求める者たちにも信奉されている。小さな体の女性神と言われており、言い伝えでは、彼女の白き魔剣は振るうこともせずに周囲の物質を砂塵に変えたという。太古の眠りより復活した災厄の竜神との決戦の後、その力を使い果たし、一部の者たちしか知らない総本山の封印の間にて、今でも眠りについている。やがて世界中の魔力が尽き、剣の子らの時代が終わる頃、彼女はその永劫の眠りから目覚めるのだという。破壊の象徴でありながら、普遍の象徴でもある。

 ある者はその破壊性を不吉と言い、ある者はその普遍性に安寧を見出す。

「クロエは二面性を持つ神よ。いずれにせよ、剣の子らを救った太古の英雄であるには違いない。私たちが恐れる謂れはないわ」

 アマーリエは、オラースの傍で神殿を伺う。金属で補強された鎧戸は、隙間なく閉じられている。

「あまり近づくな。この距離で弩を射られれば、魔法の鎧でも抜けないとは限らない」

「呼びかけに応答は?」

「無い。もう小一位時間になる。そろそろ、陽が傾くぞ。いっそ、火を付けると脅せば出て来るんじゃないか?」

「神殿を村人ごと焼けと言うわけね…」

「そう、言うだけだ」

 籠手で顔をおおい、天を仰ぐアマーリエの元に、騎士たちの一団が近づく。クルト、タンクレディがそれぞれ指揮をとる二部隊の面々だ。太い木材を括った、急拵えの破城槌を持参している。

 タンクレディが声を顰めて、アマーリエに話しかけた。

「夜になると厄介だ。すぐに突入しよう。随分と古い建物だから、正面扉はきっと脆いだろう。すぐに打ち破れる」

「そうね、でも…」

 アマーリエは言葉を濁らせた。

「どうした、人質は無視するんじゃなかったのか?どうせ、このまま時間が経てば、無事じゃ済まない。部下たちのストレスを発散させるために、なぶり殺されるだけだ。いいか?合理的な判断をする相手だと思うな。興奮状態になると、奴らは場当たり的で直情的になるぞ。堪え性が無いんだ、そんな時には自分の命さえ軽んじる、獰猛な野獣にもなり得る連中なんだ」

 詰め寄るタンクレディを押し退くように、クルトが割って入った。

「俺に行かせてくれ。できるだけ多く助ける」

「おいおいおい、抜け駆けか?」

 掴みかかるタンクレディの手を引き剥がしながら、クルトは反論した。

「小さな神殿だ。内部の様子も分からない。一度に多くの兵を送ると混戦になるだろ!時間をおいて、お前たちの隊は後詰めとして、突入してくれ」

「蛮族のことなら、俺の方がよく知っている!」

 激しい形相で顔を近づける後輩を、クルトは懇願するように諭した。

「なぁ、頼む。ただでも、アマーリエから贔屓されてるって言われてるんだ。たまには、俺にも格好をつけさせてくれ。でなきゃ、立場が無いんだよ、どうか、頼むよ、アマーリエ?」

 騎士団長の表情は曇ったままだった。

「なぁ、頼むよ…」

 神殿に立て篭もるのは、騎士道精神など持ち合わせない蛮族たち。彼らは毒を用いることを常態化しており、しかも今は村人たちが人質になっている。これは、華のある戦いではない。極めて危険度が高い、決死の突入作戦。クルトは、勿論、それを承知で言っている。危険だからこそ、自分が先頭に立つと。

 アマーリエが眉間に寄る皺をグッと濃くした時、不意に鎧戸が開かれた。

「警戒しろ!」

 オラースの声に反応して、クルトとタンクレディの二人は、アマーリエの身体を背に回す。

 周囲を封鎖する兵たちの瞳は、一斉に、鎧戸に集中した。

中に見えるのは、闇だった。

 その闇から何か、小さいものが飛び出した。

 草の上に転がったそれは、人の手首だった。

 蛮族が窓枠から半身を乗り出し、片言の共通語をまくし立てた。

「ぞの手だ!よぐ見ろ!ぞの手より近づけば、もっご多ぐの人質を部分的に解放ぢてやぐ!ごれはマーサの名にごいて誓ぐ!」

 その者は、身構える兵たちの姿を一瞥すると、すぐに鎧戸を閉じる。

 まるで時が止まったかのような、一瞬の出来事。

 あの蛮族はゴブリンよりも一回り身体の大きな、ホブゴブリン種。だが、瞳が燃えるような赤に染まっていた。

 クルトは一抹の不安を覚える。次の瞬間、アマーリエがのしかかってくるのを感じた。

「おい、どうした?立ちくらみか?」

 彼女は、小さく震えていた。

「おい、どうした?アマーリエ?」

 クルトに肩を支えられながら、アマーリエは熱にうなされるかのように、正面にいるクルトと目線を合わせられないでいる。

「これは、時間稼ぎ…だわ」

「あぁ、そうだ。だが、ただの脅しだ…おぃ、しっかりしろ」

「…クルト、今すぐ突入して頂戴。その30秒後に、タンクレディも突入。奴らを逃してはだめ」

「周囲は囲んでいる、逃しようもない!さぁ行くぞ、先輩!かっこいいところを見せてくれ!」

 クルトは、アマーリエをその場に座らせる。

「…行ってくる」

 クルトは蒼白な彼女から、無理やり視線を引き剥がすと、突撃隊に号令をかけた。

 クルトの一隊が、おおと叫びながら、破城槌で扉を突き破る。

 破城槌は扉を道連れに、留紐が引き裂かれてバラバラに四散した。

 蝶番が破損し、傾いた扉を蹴り破り、武器を手にした騎士たちが一人、また一人と突入する。

 クルトは、三番目に扉の隙間から侵入して行った。

 怒声と剣戟。

 獣のような蛮族の怒鳴り声。

 神殿の内部に反響する断末魔の悲鳴。

「続けぇぇぇ!」

 タンクレディの一隊がフライング気味に、雪崩れ込んだ。

 ややあって、下着姿の男性が二人、神殿の中から逃げ出してきた。

 その後に、血だらけの女性も助け出された。

 オラースの制止を振り切り、崩れた扉にゆっくりと近づくアマーリエの前に、返り血を全身に浴びたタンクレディが姿を現した。

 彼の口から出た一言で、彼女はついに昏倒した。

「クルトがいない。消えちまった!」

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