第7話 蛇の毒液

 イナヤは辺境南部の港町、フラムの領主の第三子として生まれた。

 長男、長女、次女の順となる。この場合フラム家では、長男は家徳を継ぎ、長女は土地神の巫女となり、次女は政略結婚か、行き手がなければ剣の神々の神殿のどれかに仕えることになる。長女は、イナヤが生誕したことを契機に、言の葉の巫女の座を辞退し、結婚相手を探してもらえる内諾を父から獲得していた。イナヤは物心がつく以前から、巫女となる運命であったのだ。巫女は、土地神を刺激しないようにと、髪を短く切り揃えるのが慣わしだ。だから、一度も髪を肩より先に伸ばしたことがない。

 父は公務が忙しく、母は神経質でお転婆な末娘に対して小言が絶えなかった。一方、兄弟の中はというと、良し、と悪し、であった。

 5歳年上の長男のアランディールとは馬が合った。侍女たちが制するのを無視して、よく一緒に遠乗りに出かけたものだ。二人で羊の群れを追い駆け回し、羊飼いたちから苦情を寄せられたこともある。

 ある時、馬を休めながら兄とこんな会話をした。その場所は、辺境騎士団が砦を築いているこの丘でのことだ。兄は、同じ年頃の男子とは、少し毛色が違っていた。

「今日は一段と風が気持ちいい、一曲歌わないか?」

 若草の原に足を投げ出し、成人したばかりの兄は妹に言った。

 妹は、スカートの裾を広げ、兄を真似て足を伸ばす。

「私はアラン兄様ほど、歌は得意じゃないから、やだ」

「何だよ、歌は気持ちの問題だ。上手い下手じゃないんだぞ」

「でも、やだ…恥ずかしいよっ」

 兄は笑って、ならしょうがない、とあっさり引き下がった。

「なぁ、歌の神オレリアのこんな話がある」

「10月の神様よね。もしかして、精霊から授かった楽器の話だったら、私、知ってる!」

 兄は眼下に広がる、青波を眺めながら話を続けた。

「物知りなんだな、でもこれは違う話だ。…ある時、南の街での演奏を頼まれて、オレリアはそこへ向かうため森の中を歩いていたんだ」

「一人で?森は危険じゃないの?」

 兄は妹の手を払った。支えを失った少女の身体は草の上に倒れる。

「何よ、不意打ちじゃないの、今!」

 おふざけの取っ組み合いをして、身体中に青臭い草の飾りをあしらった後、兄は話を続ける。

「その頃は、まだ蛮族は東の土地に引きこもっていて、平和だったんだろう。ところが慣れない森の中で道に迷ってしまった。そして、大きな池に行く手を阻まれる」

「ほら、やっぱり一人で行くからよ」

「お前ならどうする?」

 少女は肩をすくめて、さもありなんと答えた。

「当然、迂回するわ。方向が定かなら、だけど」

「お前は神にはなれないな。オレリアはリュートを取り出し、道に迷った身の上を歌詞にして歌い出したんだ」

「即興で歌うなんて、器用なのね。でも、誰も聞いていないのに歌う意味なんてあるの?」

「万を超える歌を残した、と言われるほどの神だからな。でも、聞いている者たちはいたんだ。言葉を理解しなくても、歌に乗せられたその情動は万人の心に届くものさ」

「で、森の中で誰が聞いていたの?分かった!熊が歌に誘われて、襲ってきたんじゃない!?」

 兄はチャチャを入れたがる妹の脇の下をくすぐり、またも二人は取っ組み合いを始めた。

「出てきたのは、亀だよ。それも、たくさんの大きな亀たちだ。彼らはオレリアの足場となって、無事に彼女を池の対岸まで渡らせたって話だ」

 イナヤは口を尖らせて言った。

「亀って…ちょっと、地味じゃない?」

 確かに、と兄は笑った。

「でも、歌は言葉や民族を超える力を持っているんだぜ、そう思えば、いい話じゃないか?」

「ん〜、どんなに歌が上手い人と出会っても、私なら、背中を踏まれたくはないわ。オレリアは靴を脱いだのかしら?そこが、気になる!」

「お前は、偏屈というか、どこか人と違うところがあるよな。まぁ、そこが俺は好きなんだが」

「何、照れるよ〜。あと、気持ちが悪い」

「兄弟のことを好きでない、という方が俺は気持ちが悪いぞ」

 イナヤは顔を曇らせた。

「…そういうアラン兄様だって、フラム家の守護神は白鯨のリルなのよ。家徳を継ぐ者が、芸人の神様を好むなんて、変わってるわ」

「そうかな。オレリアだって、蛮族たちとの大戦争の時には、士気を揚げるため歌を披露したって言うし、皆が言うようなヘタレの神じゃないんだぜ?」

「でも、父さんはきっとリルを勧めるわ。あ、でも土着の神を崇めるんだったら、許すんじゃないかしら?統治者として、人心を掌握するよい手段だわ」

「とって付けたような正論で俺を諭すとは!」

 兄は妹の髪の毛を掻きむしって攻撃した。

「お前が巫女になるって話は、俺だって知ってるぞ。誰がお前の前で、祈りを捧げるかってんだ!俺はお前なんかに掌握されるほど、小さくないからな!神の力に頼らなくても、蛮族から民を守り、豊かな町にする方法はあるはずだ。俺は、たくさんの書物を読んで、その方法を勉強している」


 第二子は、姉だった。名をフランソワといった。

 剣術が苦手で温和な兄と違い、姉は責任感が強く、体面に気を使い、律儀だった。きっと、父の血を一番強く引き継いだのがこの姉に違いなかった。粗野で、父とも喧嘩が絶えなかったイナヤとはうって違い、フラム家一門の名を冠する姉は、一族の期待を裏切らない才女として君臨し、その将来を期待されていた。当然、反抗心の強いイナヤと気が合うはずもない。

 思い出すのは、喧嘩ばかり。

 だが、年に一度の収穫祭の夜に、お役目を果たさずに自室に引き篭もってしまった。その日以来、そのまま彼女は他界する。

 古きより辺境を震撼させていた、赤糸病という風土病によるものだった。辺境北部よりも、ここ南部では被害者の数は何故か少ない。しかし、その稀な被害者の一人となってしまった。

 祭りの最後に、盛大に焚き上げる巨大な松明を設置するため、土を掘り下げる作業を数日前に手伝っていたのが原因だったと判断された。市民たちと近い立場にあった彼女の死は、多くの人々に悲しまれたが、二度とその姿を見ることは叶わなかった。イナヤですら、ふせってからの彼女の姿は見ていない。風土病の伝染を恐れ、墓守たち以外の接触は、厳しく禁止されたからだ。

 この姉の死後、間も無くしてフラム家を巻き込んだ戦争が勃発する。

 同盟国であるモルテ=ポッツァンゲラからの要請で、共に蛮族たちの街クェルラートを攻め陥そうというものだ。3隻の大型ガレー船が300人の重装歩兵と、450人の海兵を乗せてフラムの港を出航し、そして、そのまま誰も戻らなかった。

 フラム船団の指揮官は、フラム・アランディールだった。


 その後、母は病気がちになり、ほどなくして息子の後を追うように他界する。

 数ヶ月と置かず、父は子連れの未亡人と再婚した。元はフラム家と同じ、パヴァーヌ地方での勢力争いに敗れ、辺境に逃れたものたちの末裔だが、彼女の先祖は土地の開墾に成功し、広大な荘園を相続する女主人だった。

 イナヤは、兄の葬儀の際に、この女性の姿を目撃していたことを思い出した。

 フラム家の家徳は、男子である4歳の連れ子ソレイユに託された。

 巫女となる者は、その一生を語り部としての神職に捧げるしきたりがあり、政治からは隔離される。

 イナヤにとって、実家は居心地の悪いものとなった。

「イナヤ、大事な話がある」

 新しい母とは、表向きだけの付き合いしかなく、ようやく待ちに待った巫女就任の儀式が迫った頃、父から告げられた突然の命令が、イナヤの人生の舵を大きく切り返すことになる。

「お前には、巫女として一生独身でいる人生が待っていることを、父として常日頃より心苦しく思っていた。どうだ、一人の女として別の道を生きるつもりはないか。結婚するのだ、イナヤ」

 辺境を制覇してまわる騎士団の先遣隊が、フラム領内に駐屯している話は、イナヤも知っていた。全てを悟った彼女は、深呼吸を一つしただけで決意した。

「それが、お家のためでしたら」


 サリサは、イナヤが幼い頃から世話を仰せつかったフラム家に仕える侍女だった。

 侍女といえど当主が認めれば、結婚もできる。その子を優先的にフラム家に雇い入れることだってできる。多くの不自由はあれど、家に仕えることを言い換えれば、終身制の従属と引き換えに、安定した生活を得ることができるとも言える。生涯のほぼ全てが労働に費やされ、それも決して楽な仕事とは言えないが、農奴やガレー船の漕ぎ手のような、短命を余儀なくされるほどの過酷な労働ではない。清潔な環境と、十全とした食生活が保証されるのだ。

 だが、イナヤより12歳年上の彼女は、たわいのない恋愛話に華を咲かせつつも、自身は誰とも結婚するつもりは無いように見受けられた。イナヤにとっては、侍女長と共に、フラム家にあって気が許せる数少ない相談相手であり、理解者であり続けた。

 イナヤが、投げナイフの真似事をして、銀のフォークで北の国伝来の陶磁器を砕いた時も、調教困難として捌かれようとしていた馬を救うため、自ら慣らそうと挑み、制御できずに屋敷の中庭に乱入し、手綱を掴もうとした衛兵を井戸に落としてしまった時も、一緒に父に頭を下げてくれたのは、生前の母ではなく、侍女のサリサだった。

 特に、父が再婚してからというもの、サリサがイナヤと共に過ごす時間は格段に長くなった。

 彼女が、辺境騎士団への輿入れに同行してくれると聞いて、どれほど気が安らいだものか。



 フラムの街から8kmほど離れた小さな村は、昨今稀に見る好景気で沸いていた。

 近くの丘に駐屯する辺境騎士団が労働力を求め、多くの物資や食糧を買い込んでくれるようになったからだ。

 当初のような、侵攻してきた武装勢力という印象は人々の記憶から消え去り、丘の上に建設中の砦が一段高くなる度に、やれあの石は俺が運んだのやら、やれ櫓の瓦はうちで焼いた物だやらと、まるで自分たちの砦であるかのように自慢話が飛び交うほどになっていた。

 質素な寝室に薄い麻織物で天蓋を作ろうと、安い生地を探していたサリサは、物価の高騰に目を剥いていた。麻布や帆布の類は軒並み高騰していたのだ。変わったのは、値段だけではない。今まで、フラムの街でしか見かけなかったレース生地まで品揃えがある。制作にとても長い時間を要するレース生地は、貴婦人の衣装はもとより、甲冑が正装である騎士にとっても、袖や襟元などアレンジが可能な僅かなおしゃれスペースを彩る、貴重なアイテムなのだ。値段は…丸が一つも二つも多い。貴族に仕えているとはいえ、庶民の手が届く代物では無かった。

「おや、もしやあんた、フラム家の侍女かい?その格好に見覚えがあるよ。だったら、こんなのはどうだい?ここらじゃ、絶対に手に入らない逸品だよ」

 人の良さそうな笑みを浮かべる店主の両手には、いかにも高価そうな精緻なデザインの水色の小瓶が握られていた。

「まさか、それは…アステリアのロンベル9」

 店主の表情が得たり、と一層に緩んだ。

「さすがだね。騎士に見せたら、治療の魔法薬かと言われたよ。その通り、春航路で寄港した商人に無理を言って譲ってもらったんだ。騎士なら香水も興味あると踏んでね」

「残念ですが、ロンベル9は女性用です。瓶の色が青系統なので、勘違いしがちですが、赤系統の1から6が男性用なんです」

「何を言う、辺境騎士団の長は女性だと聞くぞ?実際に女性の騎士もおった。じゃが、肝心の騎士団長は、ここには来ておらんそうだがの」

「あぁ、それで大金を叩いたのに、買い手が無くて困っているんですね」

「何を言う。困ってなどおらんぞ。きっと騎士の中に興味がある者もおろうて、急いで売るつもりはない」

 店主は慌てて繕った。

「試してみても?」

「試す?」

 サリサは、小首を傾げてしれっと言う。

「知らないんですか?香水は試してみないと買えません。好みの香りとは限らないので」

 商人は、額の汗を袖で拭いつつ、それならと、おぼつかない手つきで蓋を開けた。

 なんだ、変な形の蓋だな、と目が語っている。

「ここに、蓋の先についた水滴を…」

 サリサが手首を差し出すと、店主は言われるがままに、突起状に突き出た蓋の栓を押し当てる。侍女が両手首を擦り合わせ、慣れた手つきで香りを確かめる姿を感心しながら見つめていた。

「もったいないので、蓋を閉めた方がいいですよ」

「あぁ、そうだな。そうだ、そうだ。で、どうかの?気に入ったか?」

「私は好きですが、お嬢様のお好みとは違うようです」

「そんな、試したのに、そりゃぁないじゃないか?」

 店主はムキになって食い下がった。

「試すのは、買うかどうかを決めるためですよ?それに、さっきは引く手数多だっておっしゃいましたよね?大丈夫です。どうやら本物のようですから、そのうちきっと売れますよ」

 サリサは、にっこりと微笑んだ。

「そうかい、そんなら…いいんだが」

「ところで、おいくらで売るおつもりで?」

「いや、えと、フリード金貨5枚で、どうだろう」

 どうだろう、とはどうなのだろう。フリード金貨はパヴァーヌ王国が鋳造する金貨で、交易金貨の半分ほどの価値がある。海が安定する春と夏の2便だけ、西方諸国の沿岸部を往来する商船団による定期航路便は、相場が安定している交易金貨を大口の取引に使用し、小口の取引にはフリード金貨・銀貨の他、例えばクラーレンシュロス発行のアンオルフ銀貨などの相場変動がある通貨を巧みに使い分けている。店主の口調からして、元値はフリード金貨2枚か1枚といったところだろう。どちらにせよ、金貨で買い物ができるほど庶民の収入は豊かではない。現に、この店の生地はフラム銅貨仕立てで値札が付いているくらいだ。よほど、騎士団との交易で収益が上がり、ここで一つ、賭けに出る気にでもなったのだろう。

「早く売れるよう、私も良い香水がここにあると、触れ込んでおきますね」

「おぉ、それは助かるよ、任せたよ!」

 そんな気はさらさら無かったが、気持ちよく店を後にするためのおまじないだ。それにもし、赤の他人が買ったとしても、彼には恩に着せることができる。女は、したたかに生きねば…。

 手首に残された数ヶ月ぶりの香水の香りを鼻腔で楽しみながら、サリサは店を後にする。

「どいつもこいつも、浮かれやがって」

 店を出た矢先に、すれ違った男性の呟き声が、耳に飛び込んだ。それで、ふと、目を向けてしまったのだ。いつもとは異なる、素朴な庶民の服を纏ったハルラーンの姿を。

 見間違えることはない。フラムの城館で何度も見かけている。侍女として、来賓の顔を覚えることは常日頃より心がけていることだ。

 筋肉質で背が低く、前のめりな姿勢。それをいつも覆っていたのは、オーダーメイドでなければあり得ないほど、奇抜で下品なデザインの衣装。吊り上がった目尻と、しゃくれた顎、長く伸ばした癖の強い赤い頭髪、薄汚い口髭と日焼けしてボソボソになった唇。どれも、サリサの好みでは無かった。

 ハルラーンの一族は、フラム家がこの地に定着する以前より支配力を持っていた豪族の中の一派だ。他の豪族たちがフラム家に敗れていく中、フラム家に従属を誓うことで辺境南端部の集落の領有を保持した。しかし、一族の素行は荒々しく、南部の治安は一時も安定することが無かった。その一族の内部紛争を、敵方についた親族たちの毒殺という形で落着させたのがハルラーンである。

 交易の交渉であっても銅貨1枚の値上げのために、常時帯剣している曲刀をチラつかせる事を忘れない、野蛮な輩として、定期航路の商人たちから嫌われる有名人だ。

 昨今は、辺境騎士団に対し、温厚な路線で接しようと試みるフラム家の意向に沿い、協力的な態度を示していたはずだ。実際、パンノニール伯の話を盗み聞きした限りでは、南の離島に集落を持つリザードマンたちとの交易の仲介役も買って出たという。

 そんな彼にして、やけに物騒な物言いが気になった。

「お嬢様、サリサはお役に立って見せます」

 村外れに向かおうとしている、彼の跡を追うことに決めた。

 途中で、雨水を溜めた樽で香水のついた手首を洗うことも忘れなかった。

 慎重に、用心深く…もし、危険が及ぶとなれば、騎士団の元へと一目散に逃げるつもりで。

 林の中にある藁の貯蔵庫の中へ、男は姿を消した。涼しい時期に元気に育つ牧草は、まだこの時期には刈られていない。刈ったとしても、すぐには収納しない。乾燥するまで、天日干しを続けるのだ。だから、倉庫の中は、この時期は空になっている。すると、ここで誰かと落ち合うのだろうか。

 ハルラーンが中に入ると、周囲に誰もいないことを確認し、地に落ちた小枝さえも踏まないように、慎重に倉庫に近づく。すると、中から、話し声が聞こえてきた。サリサは倉庫の壁に取り付き、幾つも開いた隙間の一つから中を覗き込んだ。

 中は薄暗く、目が慣れるまで少し時間を要した。

「…コマル、ハヤク…スル…セイイキケガレル…」

 中には、ハルラーンの他に二人、その二人は、ひどく口下手な人物のようだ。だが、『聖域が汚れる』と言ったように聞こえた。神官なのだろうか。二人組の方は、ローブを羽織っていて正体が知れない。シルエットから分かるのは、剣の鞘がローブの裾を持ち上げていることから、剣士…神官戦士だろうか。サリサは呼吸音を抑えるように、口に手を当てながら壁の隙間に耳を当てる。

「それは、俺の落ち度じゃねぇだろう。いいか?人間ってのは、色々と考えるもんなのさ。その一つひとつを俺に管理しろだなんて、無理難題だ。無理なんだよ。そんなん、しばらく放っておけよ。そもそもなぁ、そっちの都合で急かされては、こっちだって困るんだ。ああ、そうだ。何事も準備は大切だ。そのために、俺は日々頭を悩ませているんだからな。こっちの苦労も知らずに、好き勝手なことを抜かすな」

「チガウ、お前はカネを稼いでイル。それが重要ナンダロウ。金がスキなだけでヤルキがナイ」

「おいおい。心が痛むような事を言うじゃねぇか。あ?これも準備のうちなんだよ。脳の小さい、お前たちには解るまいよ!人間を騙すには、まず信用を勝ち取る必要があるんだ。そして、その信用はぁ!何度もやり取りを重ねないと芽生えない!」

「我等を馬鹿にスルはユルさナイ」

 ナイフを砥石で研ぐような音が、短く二つ。

「あんだぁ、オラァ!二人がかりでも、俺は負けねぇぞ!」

 しばらく、沈黙が続いた。どうしたものかと、耳を離して中を覗くと、どうやら睨み合いでもしている様子。ドキドキする心臓を抑えながら、生唾を飲み込む。

 一触即発の張り詰めた空気…。

 サリサは人生において、命をかけた戦いを目撃したことがいまだ無かった。どうなる事かと、早まる心臓の鼓動が自分の耳にも聞こえてくる。

 しかし、ハルラーンが不意にその緊張を解いた。

「…まぁ、止めとこうや。誰の得にもなりゃしねぇ。いいか、こっちには計画があるんだ。何度も言うが、横合いからチャチャを入れないでくれ。俺は日がな一日、穴蔵で座り込んでいるお前たちと違い、あれやこれやと忙しいんだ。解ったか?」

 二人組の方は、半月のように曲がった刀を仕舞うと、ハルラーンを指差しながら怒鳴った。

「フラムに言う!ミコヤクソク、不可侵ヤクソク、カナラズマモル!でないと島のモノタチ、黙ってナイ!」

 サリサは、はっとした。

 この話し方、あの歪んだ指先、フラムとは、ご当主様のこと。そして聖域に…ミコ…!

「お嬢様、これはいけません!」

 サリサは慌てて立ち去ろうとしたが、壁から突き出した釘にスカートを引っかけ、転倒した。裾が破けるのもお構いなしに強引に引っ張るが、仕立ての良い生地はなかなか破けない。

 サリサは気付いていなかった。

 暗い倉庫の中からは、壁の隙間から見える人影が、ことさら目立つことに。

「おい、誰がいるぞ、捕まえろ!」

 悲鳴混じりの荒い息を吐きながら、サリサはようやく四角形の錆びた釘をスカートから外し、林の中を走り出した。革張りの靴底が土で滑り、何度も膝を着き、髪や服に絡みついた小枝をパキパキと折りながら、必死に走った。木立の合間に、村の防護柵が見えるまで、まるで生きた心地がしなかった。

 村に着いた…と思った時、どんっと背中を突かれ、サリサは転倒した。

いけない、立ち上がらないと…早く、砦に戻ってお嬢様にお知らせしないと。

 上体を起こした時、今まで感じたこともない痛みと違和感で、自らの生命の危機を悟った。

 手を背中に伸ばすと、金属のようなものが突き刺さっている。

「あ、あぁ…」

 体は動くなと言っている。しかし、動かないと捕まってしまう。これを抜いて走るか、このまま走るか。背中の痛みは感じない。けれど、どうしようもないほどに心臓が痛み、これ以上、動ける気がしなかった。

「器用なもんだな。剣を投げる技は知っていたが、実際に投げた奴は、初めて見たぞ」

 ハルラーンの声が聞こえるほどに、近づいてきている、逃げないと。砦まで行けば、なんとかなる。砦まで行けなくても、村まで、せめて誰かに見つけてもらえば…。

 スイカに突き立てたナイフを捩って抜くように、強引に背中の剣が抜かれた。

 あまりに痛みに、サリサは気が遠のきそうになる。

「私は…違います…みか…味方です、味方です」

「なんだ、こいつの格好、フラムの侍女じゃねぇか…んだょぉ…こりゃ、面倒だな…」

 呼吸をすると激痛が走るので、息を止めて片目を開けると、腕を組んで思案するハルラーンの姿があった。

「…助けて、味方です」

 蚊の鳴くような声で訴えるサリサの声に、覗き込むようにしゃがみ込んだハルラーンはやさしい口調で答えた。

「分かってる、安心しろ。急所は外れてるから、運が良ければ助かる。大丈夫、少しの辛抱だ…おい、手足を縛って、さっきの小屋にぶち込んでおけ」

「そんな…せめて、お…嬢様にお知らせを…」

「冗談だろ。人目につかねぇうちに、さっさとしろよ…あぁ!?お前がやったんだろ!?テメェでやったことは、テメェで始末つけろや!」

 サリサは両足を掴まれて、傷口が汚れるのもお構いなしに地べたを逆さに引きづられる。

「まったく、クソ蛮族どもが…侍女が戻らないと騒ぎになりかねない。こいつぁ、計画を早めねぇとなんねぇぞ。ちっと、強引だが…行けるか?」

 サリサは、怪我の痛みをものともせずに、果敢に立ち上がると三人を振り切り、騎士団の砦へと走っていく自分の姿を、薄れゆく意識の中で夢に見ていた。



 二日後、辺境騎士団の副官を務めるホーランドが、兵站横領の容疑で拘束される事件が起きた。

 告訴人は村長。

 陳述によると副官ホーランドは、騎士団の兵站を無断で持ち出し、村の司祭に売却したらしい。

 兵站の横領による処罰は、死罪だ。

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