第6話 窮地の騎士と令嬢の危惧

「石切場で別の石を調達すると聞きましたが、本当に必要なのでしょうか」

 そうホーランドに切り出したのは、黒髪と浅黒い肌を持ち、均整の取れた体躯でありながらも背丈は並、目立たない風貌に類する剣士だ。二人は今、馬を並べて荒野を進んでいる。

「本人がそう言うのだから、そうなのだろ」

「しかし、近くの遺跡から石材を運び込めるというのに、わざわざ離れた場所にある石切場の採掘権について調べるなんて手間を考えたら、その石を頑張って加工した方が早いのではないでしょうか」

「つまりは、君の言いたいことはこんなところだろう。木の砦を建てよと命じられ、作業を進めていたら次には急に石材でキープを造る事にしたと言われるものだから、その苦労を分かち合ってもらいたいと、我らがマスターメイソンは申されておると」

「ホーランド卿は実に、お優しい性格ですね。角をノミで削って言えば、まぁそんなところです」

 ホーランドは穏やかに微笑むと、年下の騎士見習いを諭すように返した。

「実のところは、どうかは知らんよ。ここは本職の見解を尊重するしかあるまい。それに我々は、パンノニール卿がお命じになったことを実行するほかないよ」


 辺境騎士団、南部遠征隊の指揮官ランメルトの補佐を務めるホーランドは、名も無い辺境の集落で生まれ育った。生まれながらに頑強な体躯に恵まれた彼は、歳を重ねるごとに喧嘩が強くなり、いつしか集落に数人しかいない子どもたちを従える立場になっていた。辺境の地では、子どもたちも労働力だ。投網の修復を慣れた手つきで済ませると、具合を見るためと称して仲間を連れて川で漁をしていた。漁の腕を上げることは、大人たちにとっても都合が良い。獲れた魚を素焼きにしてかぶり付くことも、大目に見られていた。

 そんなある日、彼は大人たちの目を驚かせる。

 その日の成果は、いつもの小魚ではなく一人の大人だったのだ。

 身体を火で温めるくらいの、ろくな看病もできなかったのだが、川を流れていた男はそれでも自力で目覚め、肺から大量の水を吐き出した。

 男は海を隔てた半島に住む、古バヤールの民だと名乗った。

 南の辺境と言われる地域には、三つの半島がある。

 荒海に大きく迫り出すようにある、辺境の大部分を占める巨大な半島。というよりも陸地と言った方がよい、タラントゥース半島には、西方諸族最初の人々が上陸した地という逸話が残る。辺境騎士団の南征隊がたどり着いたのは、この最南端部。ホーランドの生家は、この半島の中央部から東へ進む、海岸を望む高台の地だ。

 そのタラントゥース半島の付け根の東側には、グランデフューメと言われる幅の広い川が流れ込むデルタ地帯がある。人が暮らすには些か不便なこの地に、古バヤールの末裔たちが住んでいる。モルテ=ポッツァンゲラというこの地には、辺境諸族の文化が混ざり合いながらも未だに数百年前に滅んだ王国の営みが残されていた。

 三つ目の半島は、グランデフューメの向こう側、蛮族たちが住まう大陸から迫り出したタラントゥース半島とは比べ物にならないほど小さな半島、その名をクェルラートといった。そこには、蛮族と人族が共に暮らす街がある。どのように、その暮らしが営まれているのかは判らない。殺伐激越になのか、はたまた和気藹々になのか、人界に住む者たちには想像すら困難だ。しかし、辺境の海洋都市とも交易があるため、それが正真正銘の事実であることは確かだった。

 しかしながら、バヤールの末裔たちには、蛮族を人族の敵とみなし、彼らを奴隷とする文化があった。

 これ自体は、西方諸国にとって格別珍しいことではない。

 剣の神々たちの宿敵は、古の魔法使いたちと竜と、そして蛮族なのだ。

 だから剣の子らは、奴隷としても蛮族と接することは嫌うものだ。誰も進んで関わろうとはしない。しかし、モルテ=ポッツァンゲラの人々は、そうではなかった。それだけに、クェルラートで人族の奴隷を蛮族が使役していることを許せなかったのだ。自分たちが奴隷に命じていることを、人族が命じられていると想像するだけで怒りを覚えた。クェルラート側の立場では、奴隷制度は伝統であり、人族、蛮族の区別はなく互いに、あるいは同族同士であっても奴隷を売買し、使役していたのだが…。

 満を辞して、海洋都市であるモルテ=ポッツァンゲラは、ガレー船団をクェルラートへ派遣した。

 ホーランドが川で拾った男は、船団の弩兵であり、追撃を受けながら辛くもタラントゥース半島へ漂着し、内陸へと逃げ延びたのだと言う。

 男が元気だったのは、ほんの数日だけで、すぐに咳がひどくなり、ふた月ばかり生死の境を彷徨った。

 村の人が言うには、川の水で肺を病んだ、ということらしかった。

 普通は助からない、という大方の見当を裏切り、再度、男は目を開いた。咳癖は残ったが、それでも村の仕事を手伝えるほどには復調したのだ。仲間とはぐれ、故郷に親を残してはいたが、独身の彼は軍には戻らず、このまま集落での暮らしを選んだ。

 ホーランドは彼から共通語を学び、剣と弓を、そしてそれらを使う者の心構えも教わった。

 いつしか、ホーランドの瞳は、辺境の集落から西方の王国群へと向けられるようになっていた。

 ホーランドが19歳を向けえた年、男が血を吐いて死んだ。外見上はおそらく30そこらの死だ。後で聞けば、しばらく前から吐血が続いていたらしい。

 彼にとって大きな転機は、その翌年になって唐突にやってきた。

「西方から出征して来た小さな騎士団が、山間部の有力部族と戦争をしている。どうやら、予想以上に善戦しているらしい」

その話を聞き、ホーランドは集落を飛び出した。


「なるほど、それで姫様に騎士にお命じ頂いたのですか。長年、パンノニール伯の従者である私には、目の覚めるような成功談ですな。些か、羨ましくもありますが…心よりご尊敬申し上げます」

「何を言う、ランパート。補助兵たちに混ざり、そこから姫に目を留めていただくのに相当な苦労だったのだぞ。それこそ、目を覚ますどころか、永眠寸前の毎日だ!」

「戦功をお立てになられたのですね。はて、それはどのような…?」

 騎士ホーランドと、騎士見習いのランパートは、採掘場の跡地があるという場所へと馬を並べて進んでいた。低木の茂みに覆われた起伏の多い地形だが、水を抱えた海からの雲は、北部の山岳地帯までそれを温存して通り過ぎるばかりで、年中乾燥ぎみのこの土地では、下生えも元気不足、馬での移動には支障が無かった。

「残念だが、君が期待するような、めざましい戦功では無い。騎士を見つけては、しつこく稽古をねだり続けたのさ」

「なるほど、皆さん嫌いではないですからね、そういうの」

 ランパートは白い歯を見せて、爽やかな笑みを浮かべた。

「やがて噂が広まり、腕前と負けん気をお披露目できたってわけさ。でも、こっぴどく打ち込んでくる先輩もいてなぁ、こりゃ死んだ!と何度人生を諦めかけたことか」

「それで、いきなり騎士に?」

「そんなわけあるか。スタンリー卿の従者を勤めさせていただき、この南征行の折に正式にお認めいただいたばかりだ」

 ふむ…とランパートは馬上にいながら両腕を組んで思案し始めた。

「私が思うに、ホーランド卿の取り柄は、腕前と負けん気だけでは無いかと。失礼な言い方となったらご容赦いただきたいのですが、その二点において秀でる従者たちは他にもおりまする。例えば、この私めもそう自負する一人でございます」

「そうだな、そう言えば、先ほどは従者と言ってしまったか、失礼した。騎士見習いの立場だったな。まだ、騎士の文化には不慣れな故、許してくれ。君の言うとおり、私よりも剣技が巧みな見習いも多い。当然、君もその一人だと認めているよ」

「私の戯言に親身にご返答いただき、恐悦至極です。私がご指摘したいのは、まさにそこにもあるのです。その他者を立てようとする謙虚さ、そして不正を退け、弱い立場を守ろうとする道徳心。最後に皆が苦手とする算術の才でございます。何せ、算術はどんな為政者でも必要とする才能ですからね。あとは、騎士らしい言葉遣いが身に付けば、ホーランド卿は無敵です」

 ホーランドは居心地悪そうに脇腹をボリボリとかきながら答えた。

「そうか。剣術の腕前を発揮する機会は稀だが、算術は毎日頻繁に活用している。その点では、あの男に感謝だな。色々と親身に教えてくれた。若くして亡くなったのは、本当に惜しい」

「きっと、その方も楽しかったのでしょう。生命の恩人というのが建前だったのでしょうが、知識をみるみる吸収する生徒にものを教えるというのは、きっとやりがいのある仕事なのかと」

 そこから二人は自然と会話をやめて、下り坂をくねくねと曲がりながら降りて行く。

 半刻ほど無言で進むと、急に視界が開けた。

「なるほど、これが採掘場ですね」

 ランパートが馬を進めようとするのを、ホーランドが制した。

「いや、待て。採掘を行っていたのは百年以上は前と聞いた。だが見ろ、草木が刈られて綺麗に整地されている。誰かが、この地を管理しているのだろう」

「なるほど…野盗の集団でしょうか」

「フラム家が制覇して以来、盗賊団の出現は無いと聞いているが…雑草を丁寧に抜く律儀な奴らなら、きっと規律が正しい軍勢やも知れん。兎にも角にも、用心して進もう。会敵しても、ここで戦う必要はない。ばらばらになって逃げるんだ、いいな」

「心得ました」

 二人はアーメットを被り、バイザーを上げ、ターゲットシールドを左腕に装着した。

「よし、行こう。相手は蛮族かも知れない。馬から降りるなよ」

 主人たちの緊張が伝播した軍馬たちは、足を素早く抜き上げながら静かな歩調で砂利の多い地面を進む。

 採掘場は、地面から突き出た巨大な岩山を削ったものだった。

 垂直に削り取られた採掘の跡が残るのは、全体からすればごく一部に過ぎない。しかし、採掘された石の量は一つの都市を築けるほどであったろう。馬を進めるにつれて、まるで自然の中に突如として現れた人工の都市か、あるいは迷路に迷い込んでしまったかのような錯覚さえ覚えた。

「まだまだ採掘はできます。詳しくは判りませんが、石の材質もマスターメイソンのご要望に適うものでしょう。なぜ、放置…はされていないですね、なぜ採掘をやめてしまったのでしょう」

 今のところ、岩の壁に反響するのは蹄が砂利を喰む音ばかり。

「ランパート、見てくれ、これは足跡か?」

 ホーランドが馬の背中から槍を出し、砂利で覆われた地面を示した。

 そこには、小さな窪みがいくつか…。

「石ころばかりで、判然としませんね。そう言われれば、そうも見えるとしか。靴の跡なら、もっとはっきり残るでしょう。鹿か何かであるのかも知れませんし、私にはちょっと…エルフの野伏ならば、きっと役に立ってくれたのでしょうが」

「おらん者は仕方がない。もし、ここに多くの人が潜んでいるとすれば、多少なりの痕跡や、生活臭があるはず。だとすれば、少人数がひっそりと暮らし、あるいはここまで通って、頻繁に雑草を抜いていることになるな。とりあえず、考えるのは後にしよう。岩のかけらを見本として持ち帰るとして、あとは一回りして何もなければ今日のところは帰還するぞ」

 もう一度周囲を警戒してから、ホーランドは馬を降りて手頃なサイズの岩を探した。

「何にせよ、こんな石ころを得るために命をかけて戦いたくはないものだ」

「言えてます。これらが全て貴婦人であったのなら、話は別ですが」

「それは、とても不気味な光景だな…さて、どのくらいのサイズが良いものか、こうたくさんあっては、逆に迷…!」

 岩を一つ拾い上げたホーランドは、その姿勢のまま『動くな』とランパートに手信号を送った。


 綺麗に切り込まれた岩面の連続に、油断していた。

 くの字に切り込まれた岩の影から、二足歩行のトカゲ姿をした蛮族が、ホーランドの喉元に向けて弩を構えていた。


 ホーランドは顔から血の気が引くのを感じながら、手にした岩を離して剣を抜くが良いか、このまま岩で殴りかかるのが早いかを考えた。どちらによせ、弩が矢を放つ方が早い。だが、距離が近い分、相手が狙っている場所は判る。指の動きに合わせて大きく身をかわせば、急所を外すことができるかも知れない。せめて、頭を狙ってくれたなら、尚の事避けやすいのだが、矢先は剣骨付近、胴体の中心を狙っていた。

 雲から陽光が顔を出し、暗がりに潜む相手の手元を見辛くする。

 背後から、ランパートが静かに剣を抜こうとしてる音が聞こえた。

 彼の位置からは、ホーランドの背中しか見えず、つまり事態を把握するには至っていないはずだが、ここで「何事か」と声を上げないあたりは、流石と言える。

 再び、『動くな』の手信号を送った時、ホーランドは冷静な思考力を取り戻していた。

 完全に不意を突かれていた。

 殺すつもりならば、いつでも可能だったはずだ。

 遅くても、目が合った瞬間にそれを実行するだろう。

 では、まだ矢を射ない理由は何か?

 トカゲ人が一人だけで、武器が弩ひとつだけだとすれば、納得がいく。

 だが答えは違っていた。

「ヒト来るとき、武器持たないヤクソク」

 南辺境の地方語は、西方共通語に最も近い発音だったことが幸いした。この蛮族が話す言葉は、ぎこちないが、フラムの民と同じ辺境南部の地方語だった。

 ホーランドは安堵のため息をつき、目を閉じ、命拾いしたことを剣の神に感謝した。

「すまない、今日はこの石を調べに来たんだ」

「誰かいるのですか?」

 ランパードが馬を移動させた。

 ホーランドは素早く振り返り、二人の間に割って入った。

 相手の姿を認識したランパードの顔に戦慄が走るのを認めながら、ホーランドはわざと大きな声で先手を打つ。

「だから言ったろう!奥に進むのはやめようと!」

 そう言いながら、表情では別の意思を伝えようと、必死に目線を彼の右手に送りつつ、口だけを動かした。

 ダメだ!落ち着け!合わせろ!

 ランパートは片眉を上げながらも、剣にかけた手をゆっくりと戻し、うわずった声で返してきた。

「ああ!これはスマナイ。もっと奥の方にいると聞いていたんだ。そうか、ここはもう、ダメな場所だったか」

「謝罪しよう」

 ホーランドは再びトカゲ人に向き直り、頭を下げた。

 よく見ると、恐ろしい外見をしていた。少しだけ人間に近い体躯をしているだけで、頭から尻尾の先までトカゲそのものだ。暖を得るためか、あるいは羞恥心からか、ゆったりとした生成りの麻ローブを纏っている。そう言えば、この地方の人間たちがリザードマンと交流がある話をパンノニール卿から聞いていたことを思い出した。

 リザードマンのぬめっとした瞳からは、全く意志を読み取れない。

 急に下瞼から膜が上がって、まばたきをしたのには、内心ギョッとした。

 リザードマンは弩を下げた。

「お前タチ、訛っていル。田舎者か」

「あぁ、分かるのか。流石だな。最近、仲間になったばかりで」

「そうしたら覚えオケ、ココ武器はダメな決まり。用事おわり、帰レ」

 ホーランドは盾から手先を抜き、右手に持った岩を指差した。

「俺たちはコレをもらいに来た。コレだけだ、もらっていいか?」

 驚いたことに、リザードマンに表情らしいものが現れた。首を微妙に左右に傾けて、ホーランドの顔を見つめている。

「ソレだけやる。持って帰レ。ユルス、田舎者、特別」

「いやいや、もう少し多く欲しいんだ」

 リザードマンは弩の先でホーランドの甲冑を小突いた。

「掘るのダメ。それは昔、終わっタ、もう二度と掘らナイ」

 ランパートが言い返す。

「なら、削るのはいいか?」

 ホーランドは後ろを向いて黙っていろと、指を立てる。

「削る、掘る、オナジ!大きな音、ダメ!アルジ…ダメ!ダメ!」

 リザードマンが苛立ちを覚えていることは、二人にも理解できた。

「さぁ、カエル。あのヒトにも言ウ、カエッテ言ウ」

 弩で小突かれて、ホーランドは馬の元に戻された。

「どうします?」

 ランパートの問いに、ホーランドは肩をすくめて返した。

「帰ろう」



「イナヤお嬢様、本日のご報告です」

 ホーランドとランパートが採掘場を追い出される頃、イナヤの自室では、二人の女性がシーツをかぶって秘密の会談を開始していた。

 シーツをかぶる理由は、何せ、この部屋は壁が薄いからだ。二人にとって、実質的な効果が問題なのではない、気分が大事なのだ。

「サリサ、危ない事はしてないでしょうね?」

「大丈夫です。当のご本人のお墨付きも頂戴しております故」

「え、ちょ…っと待って、誰のどんなお墨付きですって?」

「好きに嗅ぎ回らせろ、と旦那様は申しておりました」

「ちょ、それって即日バレてるじゃない!」

「しぃっ、お声を静かに、ここは壁が薄うございます」

「そ、そうね…で、何を聞いてきたの」

「旦那様は…」

「未来の、ね」

「はい。未来の旦那様は、不幸なご家庭のお育ちだと判明しました」

「え、完璧そうなんだけど、そうなの?」

「間違いありません。軍師殿との雑談で、そう話されていおいででした。この耳がしかと!」

「分かったわ。不幸ってどんな?戦争でお父上が戦死なされたのかしら?それとも、お母様が不治の病とか?」

「いえ、母上様がお父上様から暴力を振るわれていたとか、いないとか」

「いたの?いないの?」

「いえ、いえいえ、はい。暴力を振るうお父上様だったようです」

「そうなの…それはお可哀想に。パンノニール様も…やはり?」

「いえ、旦那様は、暴力に加担していないご様子」

「いや、そうじゃない!そんなこと聞いてない!パンノニール様もお父上様から暴力を受けていたかって話」

「それは、お話には出て来ませんでした」

「そう。ほっとしたわ」

「ほっとしてはいられませんよ、お嬢様。これは由々しき事態です」

「と、言うと?」

「旦那様がお嬢様にお優しいのは、その幼少期の体験に由来するものかも知れません」

「話が見えないわ」

「女性に暴力を振るう男性を嫌悪しているのです」

「あ」

「つまり、旦那様はどんな女性にも、一様に優しく接しますが、その逆、辛く当たる事ができない」

「…うーん。別に不具合は無いような」

「大アリですよ!奥方に本心を見せない旦那様ですよ?ずーっと、他人行儀な結婚生活が続くのかも知れません」

「あ、それは嫌かも」

「怒りというものは、万人が共通に持つ、正常な感情の一部です。長く寝食を共にする奥方に、時には声を荒らげる事くらい、ごく自然な生活の一場面なのです。長い人生、その程度の波風はピリッと辛い香辛料の一つ程度の味わいです」

「あなた、妙に巧みな比喩を使うのね」

「そして、女性は元来、自分だけに本心を見せる男に惹かれるもの。他人行儀な姿勢を崩さない、弱音ひとつ吐かないような男性に、女性は惹かれるものでしょうか?いえ、断じて否です!」

「ちょ、声が大きくなってるわよ」

「お嬢様、これは由々しき事態です。旦那様は、あれだけの端正なお顔立ちと美しい金髪、貴族の中の貴族と言っても決して過言ではない、気品に満ちた立ち居振る舞いを持ち合わせながら、女性に全くモテないタイプの無駄な美男子なのです」

「そうと決まったわけでは、現に、あなただってメロメロなんじゃ」

「お嬢様は、旦那様が女性にモテるのと、全くモテないのとでは、どちらが良いですか?」

「え、何の話?それは、まぁ、少しくらいモテた方が、気分いいわよね」

「その通りです。モテすぎるのも問題アリですが、全くモテないと来た場合は、奥方としての品位が下がると言うもの。多少のやっかみと、ひがみは、人生におけるホロリと苦い香辛料」

「香辛料、好きなのね」

「このままだと、つーっと平らな結婚生活を送ることになりかねません」

「つー?」

「つーーーーーっです!」

「つ、つまり?どうしろと」

「できるだけ、話しかけてください。旦那様は、女性との深い関わりを、心の奥で回避している恐れがあります。まずは、女性に心を開くこと、幸せな新婚生活の第一歩は、そこから芽吹くことでしょう!」

「急に、頼りになるわね。あなた、人の恋バナが好きなんでしょ」

「はい。たまらなく!」

「はぁ、分かったわ。この婚姻話を破棄されては、私の将来に待っているのは暗くてジメジメした洞窟で過ごす語り部生活。何としても、それは避けたいわ。つい昨日まではそれを宿命と思っていたけれど、違う人生を一度夢見てしまったからには、もう後戻りはしたくない!残る人生、真っ当なニンゲン…それも気品のある美男子を愛でながら円満具足に過ごしたい!頑張るわ、私」

「この不祥サリサも、末長くお供いたします。頑張りましょう」

 二人はベッドの上で、長き人生を共に戦い抜くことを誓いあった。

「旦那様のお話以外には、特に何もなかったの?」

「それが、気になることがひとつ」

 イナヤは小首を傾げて促した。

「どうやら騎士団は、地元との交易の仲介としてハルラーンの助力を得ているようです」

「それって、豪族の?」

「どうやら、そのようです」

「遺産を得るために、親族さえ躊躇せず毒を盛るような男よ」

「ですが、広く顔が聞くのも事実です。領主を僭称してこそいないものの、辺境南部の歴史から言っても、フラム家よりも根強い影響力を未だに保持しています。フラムの港町以外との交易となれば、どの道避けられない関係性でしょう」

「それにしても…いいこと、サリサ。今度は、もっと用心して頂戴。気取られないように、奴の動向を探るの。制覇行に来た騎士団は、奴にとって水と油なはず。仲介料目当てだけで、奴が協力するのは妙だわ。きっと、裏がある。そうに違いないわ。サリサ、どうにかしそれを探って頂戴」

「がってん、承知の介です」

「でも、くれぐれも…」

 イナヤは侍女の手を取り、両手で包み込んだ。

「かしこまりました。お嬢様。このサリサ、危ない真似は致しません」


 このわずか5日後に、侍女のサリサは変わり果てた姿で主人の前に現れる。

 蒼白のイナヤに抱きしめられながら、サリサは今際の際にこう告げた。

「お嬢様、お逃げください。騎士団のもとにいては…なり ません…」

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