第5話 蛮族討伐軍出陣
アマーリエは背後に聳える霊峰を振り返る。
膨大な量の冷たい大気が、山肌にこびりつく霞をこそぎ落とすかのように、ゆっくりと押し流しバヤール平原へと運んでいく。
山道に積もっていた雪は消え去り、毛皮で裏打ちされたコートを少々疎ましく感じ始める。
「遠征の件だけど…」
アマーリエは前髪をガントレットの金具を使って器用にかき上げながら、前をゆく馬上の人に語りかけた。
「あぁ、聞こえている」
唐突に切り出す彼女の言葉に、クルトは内心、身構えていた。
実は先日、先遣隊の人事について、幕僚長と意見を交わしたばかりだ。
それは、今まさに道を後にしている聖教皇国で開催された君主会議の折、君主たちは同伴を連れずに会議に参加していたのだが、その随伴の騎士たちはというと、会議場の外で待機させられていた。
君主たちの帯剣をひとしきり眺めたあと、ミュラーは歴史的遺産を見聞するためその場を離れ、タンクレディは食事を摂りに姿を消した。だが、クルトの友人が去ったその直後に、ミュラーは戻って来たのだ。
新参のいないところで、語り合いたいことがあるのだと、クルトは彼の意図をすぐに察した。
「歴史的な古美術品が大好物なんだろ?今くらい、仕事を忘れてもいいんじゃないか?」
ミュラーは頭をかきながら、柵にもたれかかった。
「剣を手放した後の、彼女の表情が忘れられない」
クルトは、表情を曇らせた。
「魔剣は…厄介だな」
「アインスクリンゲは、ツガイを強要し、ヴァールハイトは心に介入する…山の民の王がかつて所有していた魔剣は、殺戮衝動が生まれるらしい。力が強い魔剣ほど、その呪いも強いというよ。クルトから見てどう?やっぱり、最近の彼女は気を病んでいるように感じるかい?」
「あぁ、まぁ、少なくともお前にイライラしているのは判るぞ」
「うーん。それな…勘弁してくれ、本当に…どうしてって思うよ。いや、自覚はあるんだけれど…。でも、言わせてもらえば、僕よりも長い時間を過ごしている君には、どうしてイライラしないんだ?」
「そりゃぁ、当然…」
続きを言う前に、ミュラーの横顔をチラッと見て…口調を変えた。
「アマーリエは、嘘を嫌うようになった。それも、ひどく敏感に、だ」
「ヴァールハイト…真実の剣。また、面倒な置き土産をもらったもんだよ」
「だが、為政者にとって、魔剣持ちであるかないかは、雲泥の差だよな」
「我、神の道へと進まん…剣の子らには、これ以上の大義名分はないからね。でも、実際に進まれても困るけど」
「はは、違いない」
クルトの脳裏に、光輪を頭上に宿し、まるで麻薬でも吸ったかのような、恍惚とした表情で宙空に浮かぶ、アマーリエの姿がよぎった。
「あれに関しては、俺も些か心を病んでるんだぜ」
「皇帝の話かい?」
「あぁ、そうさ。無名の俺を拾い上げてくれた奴を、なんて寛大な男なんだ、と心から尊敬していたんだ。だが、本当に俺のことを理解していたのだろうか…忠義に嘘がないことを、自らの心ではなく、ヴァールハイトによって教えられただけなんじゃないか。奴にとっての俺って人間は、嘘を言わないから信用できる、ただそれだけの存在だったんじゃぁ…ないかってね」
「それはね、クルト。非常に難しい問題だよ。人間の判断基準ってのは、一つだけじゃない。そして、それは今後のアマーリエにも付き纏うことになる。自分を信頼してくれていた君主に対し、多かれ少なかれ、不信感を抱かざるを得なくする。あれの呪いは、そういう二面性も持っている。さらに、それは三つ目の面もある」
「不信感は、いずれ、自分の心にも向けられるだろうな」
ミュラーはクルトの顔を見上げた。
「…流石だね。アマーリエの事なら、なんでもお見通しか」
「よせよ…」
クルトがミュラーに向き直ると、彼はその目線を壁の剣に戻していた。
「実際、解らない事だらけさ。彼女本人が、迷い、憂い、不安を覚えながら決断を下すのだから、他人がそれを慮ってみても難しい。俺自身に、その真偽を見極める力ってのがあれば、彼女も楽ができるだろうに」
「彼女の代わりに嘘を判定するのかい?それで、肩の荷を分かち合えると?」
「いや、そうじゃない。俺が真偽を述べれば、それ自体を疑うことができるからだ。自身の感性や直感を放棄しないで済む」
ミュラーは唇を噛み締めた。
「やっぱり、敵わないな…」
「ミュラー…これは言わないようにしていたが、お前もう…」
ミュラーは手を挙げて、その言葉を遮った。
「ヴァールハイトの呪いがこの先、彼女の判断力や思考力に影響を与える可能性は、やはりあると思う。そこで、考えたんだ。それは、きっと人事に対して顕著に現れるんじゃないかって」
「嘘を言わない者を重用するようになる、か」
ミュラーは指を立てて注釈をつけた。
「遠回しな言い方や、発言者自身があまり理解しきれていない比喩を用いたり、逆に誤解を与えないように言い訳を交えたり、正しく判断できるようにとその思考を誘導することにも、彼女は眉を顰める」
「そんなこと試していたのか…だからお前、嫌われるんじゃないのか」
頭を小突かれて、ミュラーは口を尖らせた。
「別に、嫌われるってほどまでは…」
「で、何が言いたい」
「今回の蛮族討伐のための遠征は、やはり必須だと思う。どんな規模にしても、僕たちは行動を起こすことになるだろう。内政面では、とてもそんな余裕はないけれど、西方世界が望む以上、静観することによって生じるリスクの方が高いからだ。でだ。いざ出陣するとなった場合、蛮族たちが徘徊する広大なバヤール平原を進むには、機動力の高い少数の先遣隊を出すべきだと僕は思う…」
クルトは拳を顎に当てて唸った。
「俺が行きたいっ」
「それは、無い。心を許せる誰かが、アマーリエの側にいるべきだ。残念だけれど、話の流れで分かるように、それは僕では務まらないからね」
「むぅ。オラースはどうかな」
「僕もそれがいいと思う。今回の相手は蛮族だ。交渉ごとや、政治的配慮なんて必要がないからね。兵たちの心が挫けないように、豪胆さとリーダーシップを兼ね揃えた彼が、適任だと思っている。けれど彼は時折、つまらない嘘をつくだろ?中途半端な自尊心が、下手な言い訳を生んだりもする。ま、それほどタチの悪い類じゃないけれどね」
「あぁ…参謀殿に、俺はどんな評価を下されているのか、不安になってきたぞ」
「誇張して言ってるのは、理解してるだろ?他に漏らすなよな。オラースの情緒は、今のアマーリエに対して不信感を与え得る要因を帯びている。元々、裏切り者のレッテルもあったしね。ここに来て、その記憶が蘇るかも知れない」
「つまり、その人事で、心の病み具合が推し量れるって言いたいのか?」
「まぁね。それを前提とすると、オラースの他、言動が一致しない気分屋のラバーニュや、常日頃から深慮と自戒をムネとするボードワン大司祭なんかも、選ばれる可能性が低くなる。反対に、古参のスタンリーなんかは、常に本音を言える立場で、周囲に遠慮する必要がない。また、新参のイーサンなんかも彼女に陶酔しきっているから、自分の意思を捨て去って、なんでも鵜呑みにしてしまう。彼女が誰を任命するかで、今の彼女の抒情を知ることができるのさ」
クルトには、列挙された名前の他にもう一人を挙げた。
「タンク…なんてことはないか?」
ミュラーは即答せず、クルトの瞳を一瞥した。
「彼の存在が気がかりかい?でも、それはないと思う。この旅路に参加させたのも、騎士団長と行動を共にすることで新参の彼がいち早く、古参たちに認めてもらえるように、との配慮だと僕は聞いている。でも、実のところは目を離したくない、と言うのが本音なんだと、僕は推測する」
「そうか。俺は、そう…なんて言えばいいか…新参を悪く言いたくはないが…あいつは、トラブルメーカーの臭いがしてならない。だが、あのな、これは言っておく。あいつがアマーリエに重用されてるからって、嫉妬してるわけじゃないぞ」
ミュラーは微笑んだ。
「お互い、気を揉むね。最近のアマーリエは、少し気分屋な性質を見せ始めているから」
「いくらなんでも、大事な人選を気分で決めることはないだろう」
「確かにね。でも、どうなんだろう。先生によって矯正されていた本来の彼女の性格が、先生の死後、徐々に解放されて来ているのだとしたら?当初の優柔不断さは、自信をつける事であっさり引っ込んだと僕は感じている。情報分析を手伝ってくれる仲間がいる所為もあるけれど、予測した未来に対しては、決断が早くて、揺るぎがない。でも、自分自身に置き換えて思うと、果たして英才教育だけで、そんな心根を習得できるものなのかって疑問にも感じるんだ。きっと、血の成せる業なんじゃないのか。元々、彼女はああいう性格だったんじゃないか。それが、経験によって裏打ちされ、徐々に顔を見せるようになった。そう振る舞うことに、躊躇が無くなった」
「俺にはまだ、小さな事でいちいち気を揉んでいる少女のように見えているがな…」
「本当かい?それだと、さっきの話の前提も変わってくる。変化は無いと思っているのかい?」
「いやいや、変化はあるさ。出逢った時と違い、今ではあいつも大人だ。歳のせいか、頑固になった」
クルトは肩をすくめた。
「そうだね。自分の発言や意思に責任を持つためには、頑固と思われるような素振りも生まれるだろう。今後も彼女は、幾度かの決定をすることになる。それらを注意深く見守れば、彼女の心境の変化、心の変遷は必ず表に現れるはずだ。僕は君と違って、彼女のプライベートには入れないからね。そうやって彼女の抒情を感じ取るしかないのさ」
「お前は、とかく考えすぎるからな。見当違い、という場合もあるぞ」
「そうであれば、問題なし。でも、どうしたって、僕は考えちゃうタチなんだ。こんな事ばかり四六時中、頭の中で渦を巻いている」
「ぐっすり眠りたい時には、俺を呼べ。一発で気を失わせてやる」
そんな事を長々と考えなくても、彼女の事は判るもんだぞ、とクルトは言ってやりたかった。
判らない時も…そりゃ、あるけれど。
「この剣が嫌い?」
クルトは思わず、アマーリエを振り返った。
君主会議のためにオシャレをした彼女。今は、いたずらっ子のように唇を尖らせておどけてみせる。
「いつも、俺よりも近くにいる輩は、すべからく大嫌いだ」
「アルヴィ、彼は貴方の事も嫌いみたい。かわいそうに」
アマーリエは愛馬の立て髪を指で漉いてから、首筋をポンポンと叩く。
「なんなら帰路は、俺が肩車してやるよ」
「あら、それは鞭の入れがいがあるわね!」
従者たちが、遠慮がちに笑う。
「遠征がどうのって?」
クルトが話を戻した。
「えぇ、そうね」
アマーリエは、崖の下に目を向ける。
小さな草花のコロニーしか点在しないこの高地では、もし落馬すれば、数百メートルは止まる事なく転がり落ちることになるだろう。
手綱を預かる馬丁ですら慎重に歩を進める中、馬上からそれを見下ろす恐怖は尚一層。
どこかで雷鳥がかん高く鳴き、山並みにこだました。
「騎士は30名、従者たち、後方支援も含めて、総勢で3千を出すわ。本隊には、あなたもいて頂戴」
「おう」
「でも、対外的には1万と評します。誰かに聞かれたら、そう答えるのよ」
「そんくらいのかさ増しは、みんなするだろうな」
「そう思う?そうね、やはりそれで行きましょう」
愛馬アルヴィの蹄が小石を飛ばし、いくつかの仲間を道連れに谷底へと落ちていく。
「騎士の人選は決めたのか?」
「流石に、まだざっくりとしか」
「そうか」
「…何?何か言いたげね」
「あぁ、そうだな。考えてたんだが、平原の状況が掴めない。先遣隊を出す必要があるんじゃないか」
「それは考えたわ。いろいろと悩んだけれど、オラースがいいと思う。あなたは?」
クルトは振り返らずに、手を振って合図した。
「いいんじゃないか?」
アマーリエは小首を傾げながら、小さい声でつぶやいた。
「そう。じゃぁ…そうする」
「で、どうだった?」
「何が?」
「君主会議だよ」
「内容の報告はしたじゃない」
クルトは振り返って、自分の頭を指差した。
「決死の覚悟で臨んだんだろ?何を感じて、何を得た?」
アマーリエは、胸に拳をあてて少し考え、返答する。
「自分が思うほどに、自分は世界の中心ではない…ってことかしら」
しばし間が空いてから、クルトは振り向かずに言った。
「俺にとっては、お前が世界の中心だ」
「即答できたら、かっこよかったのにね」
小声でつぶやいた彼女の頬は、緩んでいた。
辺境騎士団の一行は、雪解け間もない春の風を背に受けながら、ハロルド城市への帰路を急いだ。
領地に戻ってからは、怒涛の忙しさだった。
まずは騎士たちを招集して、蛮族の侵攻状況と君主会議の決議を報告後、騎士団長としての意向を通達。
こぞって討伐隊に参加させよと志願する騎士たちを宥めつつ、先の戦からの復興が急務である事を再認識させ、その上での出征組の人事をまとめた。これに対する騎士たちの反応といえば…。
意気揚々、嘆願直訴、不平不満。
戦に生きるを定めとした、いずれも猛者たちが集えば、簡単にまとまる課題ではない。彼らにしては、まさに生き様に関わる重大事だ。居残り組となれば、元来からして自己主張が強い者たちの集団だ。彼らがそう簡単に折れるはずもないのだ。騎士たちはメンチを切り合い、大机がひとつ大破し、壊れた椅子は数えるのも嫌になった。この剣呑な空気が落ち着くまで、実に一週間を要した。
難題がとりあえず落着し、胸を撫で下ろしたのも束の間、武器、兵糧、物資調達のための軍資金をどのように工面するのか、それを実現するためにあらゆる方向性の案を出し合った。穀倉地帯であるバヤール平原が失われた今、小麦の価格が高騰の兆しをみせ、各国が同時に調達を目論む兵糧の確保は困難を極めている。
まず誰しもが考える事は、金貸しだ。
独自のネットワークを持つ特定の民族、種族、神殿がこれに従事している。はたから見ても、現金が不足しているであろう事、想像に容易い辺境騎士団には、これらの営業にはこと足らぬ。だが、金を借りるには担保が必要だ。担保には、領地の他に建物、船、宝物、そして荘園の経営権や鉱山の採掘権、または街道、橋、門などに掛ける通行税といった直接税の徴収権など、要は金になるものならば何でも対象となる。しかし、辺境騎士団の場合には、これが乏しい。鉱山はドワーフたちの領有であり、戦禍を逃れた無傷の建物は、領内の者にとって今は貴重すぎる。新たに得た西の男爵領は防衛拠点の構築を進めている最中であり、外交的にも不安定極まりない。一方、広大な後背地となる辺境の地といえば、未だに開発途上であるが故に騎士団側が納得できるだけの価格が付かない。何より、多くの血を流して守り通したばかりの土地である。領主はおろか、領民たちも手放すことを許さないだろう。となれば、再び魔剣が抵当入りする羽目となるのか。だがそれは、アマーリエも騎士たちも許さなかった。
金貸したちとの交渉は、以上の理由で難航したが、中には面白い話もあった。それは、北の山の麓、辺境とアマーリエ地方を隔てる沼地の売却という提案だ。沼地は騎士にとって鬼門であり、蛮族たちが潜み住む危険地帯でもある。一昔前は、風土病が蔓延る呪われた場所。そんな厄介なだけの土地をわざわざ買ってどうするものかと尋ねれば、埋め立てると良い土の畑となるのだそうだ。その話はそっと胸にしまい置き、アマーリエは首を横に振って見せた。
次に彼らが申し出たのは、空き城となっているクラーレンシュロス城をはじめとする地方に点在する砦の売却であった。どれも、先の戦で破壊されており、後背地の砦は資金不足で未だ復興が着手されていない。アマーリエは金貸したちに、よくもまぁ、下調べして臨んだものだと舌を巻いた。これらに対しては、それなりの値段がついた。が、しかしだ。どこぞのボンクラ王太子ならばつゆ知れず、父なき後とは言え、武門名高いクラーレンシュロス家の当主であり、新興武装勢力である辺境騎士団の団長が、これに飛びつくようでは世も末だ。城砦は戦の要であると同時に、支配の象徴でもある。これらが他人の手に渡ろうものならば、喉元過ぎた数年後、どんな厄介な事態となるか知れたものではない。
そうこうして、交渉は平行線を辿るばかりであったが、それでも、いくつかの建物が商館などの転用を見込まれ担保とされ、わずかな軍費を調達するに至る。
最後の手段は、討伐後に占有することになるであろう土地だ。本来ならば、これらの土地はハイランド王のものとなるのが筋かも知れないが、失った土地を他国が取り戻して、はい、返します、なんてことはまずあり得ないのがこのご時世。そのまま実質的に支配を続けるのが当然とされ、外交交渉で返還となれば、代金として金貨か、別の土地か、何かの権利か、あるいは貸しつくるなどの対価を伴う。だが、ここでもアマーリエは慎重な姿勢をとった。
ミュラーの入れ知恵もあり、彼女が選択したのは、通商の権利だ。
バヤールの原は、起伏の多い西方にあって金科玉条と言うべき大穀倉地帯、パヴァーヌ平野にも勝る広大な面積を誇る大平原だ。平和な時代となれば、豊富な穀物と野菜が市場を賑わし、通商は活性化する。荷を満載した馬車は、太古の街道を伝って東西を行き交う。蛮族の地とされる大河の東側からも、特有の物産が大橋を経由して流通するのだ。土地を切り売りしなくても、そこで商いを行う権利、通行する権利を売ろう、というものである。いわゆる捕らぬ狸の皮算用ではあるが、辺境騎士団に向けられる期待度は、先の度重なる戦勝のかいあって、平均値以上のものがあった。
結局、ここでも大風呂敷を広げなかったアマーリエは、わずかな資金調達だけに留まった。
結果、軍費の大半は、各神殿からの寄進と騎士たちからの寄付、町や村に要請した徴用で賄うことになる。
他国では、大変な反感と恨みを買うことになるであろうこれらの『徴用』は、目標額を低く抑えた事と、アマーリエの持つ特殊事情から暴動のような激しい反抗や、それを抑えるための恣意行動も示さずに穏便に進めることができた。理由を挙げるならば、以下の四つの事情による。
第一に、有力な神殿の司教座には、すでにアマーリエの子飼いたちが収まっていること。
第二に、『光輪のアマーリエ』の二つ名でもって、神格化に最も近しい魔剣の主人として、誰しもが彼女を認めている背景。
第三に、伯爵家当主としてに留まらず、彼女自身が団長を務める騎士団が組織の中枢であること。詳しく述べるのならば、騎士団とは騎士たちにとって、愛する我が家同然であるのだ。例えて比較すると、忠誠宣言先である主君に、その目的とする事業の資金を譲渡、あるいは貸し出しをするのと、実家の生業の立て直しのために、その息子たちが私財を投入するのとでは、やはり心持ちと意義とが、大きく違っていた。前者は義務であり、義理建てであるが、後者の場合は生活のため、または経営が上向けば、それは投機という意味も持つ。
第四に、外敵と蛮族とに財産と生命を脅かされたばかりの領民たちが、前領主の正当な後継者であるアマーリエを心より慕っていたことである。侵略から二年の後に、辺境の民を従えて戻ってきた一人娘のサーガは、今では数百の唄となり、酒場や畑仕事の場で子どもから老人まで口にする。ハロルド城壁の補修作業を、君主自ら手を汚して従事した事も、今になって思い返せば多少の効果を生んだのかも知れない。
「それでも、今回の遠征は当初一年間が行動限界です」
ミュラーは、騎士たちに厳しい見解を告げた。
筆頭騎士を務め、第一騎兵隊長という実質的な主力部隊の指揮を担うスタンリーが、口髭を撫で付けながら、落ち着いた口調で異議を唱えた。
「その理由は何か。我らはかつて、ろくな資材も武器も無いまま、辺境制覇へと赴いた。その頃よりも、兵は充実している。資金も少ないとはいえ、当時とは比べものにもならぬではないか。それで、二年の間、連戦に次ぐ連戦を潜り抜けたのだ。しかして、なぜ故、参謀長はそう申される」
第二騎兵隊長を務めるワルフリードが、追い打ちをかける。
「左様。此度は、何より準備するための時間もあるではないですか。たった一年で、広大なバヤール平原の蛮族たちを掃討するなど、そも不可能ではないでしょうか」
二人の意見は、一番苦しい時代であった、あの頃からの古参であるという自負があってかも知れない。
「ワルフリード卿の言葉の通り、今回の相手は蛮族です。故にたとえ首尾よく勝利したとしても、戦利品があるとは限らないのです。奪還した集落や畑は荒廃し、軍資金があっても物資の現地調達は不可能であると考えるべきです」
タンクレディが挙手してから、意見を述べる。
「俺は、あちら側にいたから、蛮族たちのことは皆よりも知っていると思う。俺の知っている蛮族たちは、戦いの折には、全財産を持って移動するんだ。部族の拠点にも、誰かに預けたりなども決してしない。自分の手元以外の場所は、安全じゃないからだ」
ミュラーが応える。
「確かに、財宝を持っている蛮族もいるだろう。けれど、それが僕たちの価値観で意義のあるものであるとは、必ずとも限らない。くたびれて錆びついた武具であったり、大きな荷車であったり、何かの儀式に使う装身具であったり、先祖の体の一部、あるいは人間の捕虜や、切り取った首級、はたまた彼らの食糧であるかも知れない。いずれにせよ、多少の金にはなっても、兵站の代わりになるような物は見込めるほど持ち合わせてはいないと思っておいた方が、無難だ。なぜなら、その答えはタンクレディが知っているはずだ。彼らは、畑を耕すか?野菜は好物か?人間の肉を食らうか?」
タンクレディは首を二度横に振ってから、続いて縦にうなづき、最後に一言付け足した。
「交易に慣れた部族は稀だ。彼らの価値観が、必ずしも交易通貨で換算できるものであるとは言えまい。むしろ、我々の価値観ではガラクタ同然、という可能性は高いだろう。だが、金銀、宝石が価値のある物だとは流石に理解している。だから、収益は必ずある。しかし、参謀殿が申されたように、ことは慎重に、無難に判断すべきだ。宝石の原石を大量に手に入れても、買い手が見つかるまでは、石は石のままだ。前言は撤回する」
謙虚な姿勢、歯切れが良く明確な発言は、彼がこういう場所に慣れていることを窺わせた。
「夏までに大橋まで侵攻することは、君主会議でも意見が一致している。我が騎士団はバヤール平原南部の集落を開放し、帯状の支配地を確立し、補給線を構築しながら、夏までに大橋での集結地点を目指すことにする。夏までに到達できない場合、あるいは友軍が到着しない場合には、小隊を残して本隊はアマーリエ地方まで後退するものとします」
「来年の出兵は?」
オラースが不満げに問うた。
「秋の収穫次第ですが、二年続けての出兵が可能なほど、今の騎士団に余力はありません」
「兵も増え、領土が増えたのにか?」
ミュラーはため息をつきそうになるのを堪えながら、オラースに返答した。
「さっきと同じ話になっていますよ?兵が増えれば、それだけ多くのお金と食糧を消費します。土地が増えれば、それだけ多くの兵を守りに割かねばなりません」
「金庫の番人を金で雇うようなもんだな、領地ってのは」
笑いが起きた。
「しかし、聖教皇の名で、停戦命令が出てるんじゃないのか?」
「昨年、皇帝軍に攻められたのをお忘れですか?隙を見せれば、他国の軍事力を誘引してしまう。自明の理です」
どんっとオラースは机を叩く。
「何が剣の子らの共通の敵か。この期に及んで未だに結束できぬとは、敵に利するばかりで西方にとって何の得も無し。君主会議とは聞いて呆れるぞ」
「オラースの言うことはもっともね。私もつくづく感じたわ。人は、自分だけ損をしていると思うと、どうしても耐えられないものらしい。そんな脚の引っ張り合いにだけは、巻き込まれたくわね。ところで、オラース。先遣隊の隊長をあなたに頼むわ」
静かに二人のやりとりを聞いていた一同が、一斉に騒ぎ出す。
「先遣隊の任は私めに」
「あなた、騎兵隊長でしょうに。他の人に功を譲りなさい」
「わ、私では役者不足でありましょうか」
「イーサンには、補給部隊の運営を頼みたいのよ」
「ふざけるなよ、また居残りだなんて言ってみろ!」
「イネス、神官位でしょ、あなたいい加減に…」
「俺も前回は居残りだぞ。いつまで俺は蚊帳の外なんだ!一番槍は、この俺に回せ!」
「あなたは、今回も!西方防衛を一任します。防壁の建造がまだ半端でしょうに…って、退屈とか言わない!えーい!うるさい!ちゃんと決めてあるから、発表します!黙れ!猪ども!」
「姫の言葉を聞けぇぇぇい!」
ハロルド大司教ボードワンの一喝。
バヤール大平原における蛮族大掃討戦の軍様は、以下に定められた。
総大将:クラーレンシュロス伯ルイーサ・フォン・アマーリエ
副将:クルト・フォン・ヴィルドランゲ
参謀長:ミュラー・オルレアンド
騎兵隊長:スタンリー=ハーレイ・オブ・ギャンベル
従軍司祭長:ミシェル・ヴァンサン
近衛隊長:イネス・ヴァンサン
先遣隊長:オラース・ド・バレリ
補給部隊長:イーサン・ウォーカー
騎士:タンクレディ・ディ・チッタヴィル、ワルフリード・デアカーティス、ほか20余名。これら騎士たちは、斥候部隊、伝令隊、弓隊、補助兵隊、工兵隊、会計官などの指揮を仰せつかる。
騎士たちが、各々に連れる従者・馬丁らは100名足らずだが、彼らが領有する土地からは続々と兵士たちが参められた。
旧体制化で訓練された民兵組織からの徴兵によって、集めた重装歩兵部隊600名は、いわば正規軍。
この他にも、旧男爵軍で戦った人々。これらは元々傭兵であったり、徴兵された農民であり、出自、経験、装備に至るまで混濁とした者たちだが、引き続き兵士という立場で帰化を望んだ者は従軍を許された。それらの人々をアマーリエは傭兵とは呼ばず、市民権を有した軽装歩兵と評した。それが、およそ400名。
さらに、此度の出征に志願してきたアマーリエの民たちは、補助兵1,200名となって参戦する。
ここで各部隊の装備を中心に、少し掘り下げておく。名称のイメージとその実態には、大きな差があるからだ。
重装歩兵は鉄兜と、革製の胴鎧と盾が軍から支給される。しかし、実際には鎖帷子などを装備する者も多い。民兵組織は、細分化された地域ごとに適齢期の住民たちが、定期的に戦闘訓練を受ける。しかしその全員が一度に出兵しては、畑を耕す者たちがいなくなってしまうので、当番制という形で出兵役を選別する決まりがある。その結果、出兵組が選出されるのだが、その彼らが出立の折には、当番から外れた居残り組たちから餞別として、糧食や武具の提供を受けることがある。充実した装備品は、先の戦乱の折に敗残兵たちから奪取した、いわば地域が所有するお宝なのだ。地元から愛されている人間には、それだけ多くの餞別品が集まることになる。
軽装歩兵の装備も、前述の通りまちまちだ。軍からの支給品は無く、個人の懐具合によって千差万別。羽振りの良い者は、ハルバードを構えた上に、地上専用の全身甲冑を着込み、そうでない者は衣服の上にマントを羽織っただけの姿に、小剣とバックラーを手にする。戦闘力と機動力が均一化されていないため、やはり混成部隊という認識が正しい。
補助兵たちの装備は、重装歩兵や軽装歩兵たちと違い、自前がない為、軍が支給することになる。短刀と短槍、投げ槍、弓、スリングという簡易な作りの投石具だ。全セットを全員分は用意できず、各人が得意とする物を受け取らせた。これらを受け取らずに、使い慣れた農耕具を手にする者たちも多い。鎌やサイズやフレイル、棍棒といったものだ。甲冑や革鎧の支給は軍費の都合により受けられない。
軽装・重装・補助の呼び名は、軍が支給する装備基準による名なのだ。そして、任務の内容もこれに準じて異なってくる。例えば、重装歩兵は敵の侵攻を真正面から受け止める防御壁。軽装歩兵は騎兵の随伴。補助兵は弓や投石、あるいは物資の輸送などを担当する。
一方、神官騎士イネスが率いる近衛隊は、人も馬も甲冑を纏った威風堂々たる騎兵隊で、常時アマーリエと行動を共にしている者たちだ。君主会議への道中も同伴していたが、その際の出立は他国を刺激しないように地味なものに変更しており、イネスは神殿への参拝を許可されたので影が薄かった。そのイネス以外の者たちは騎士ではないが、いずれも猛者揃い。忙しい時にも早朝稽古を怠らないアマーリエの相手をすることも、任務のうちであるから、庶務に忙殺される騎士たちよりも稽古の時間が多いことに所以する。しかしながら、アマーリエの意向により、その人数は20名でしかない。
その他にも、少数ながら上記に類さない部隊も同行する。
上半身裸姿で参戦する屈強な山の民たち。装備が充実し、規律正しいグラスゴーの民兵たちなど、辺境から参集した者たちだ。そして今回は、斧や槌、ピックなどを手にしたドワーフ族の小集団の姿もあった。
総勢2千と3百余名。
先の戦と比べれば、10分の1程度でしかない。これは、事前のアマーリエの見立てを下回っていた。
調達できた軍資金は、交易金貨換算で1万2千枚。戦乱続きの怪我の功名というべきか、武器の新規購入の必要が無かったことと、高額な傭兵契約料を出さずに済む分だけ、少額となった。一般的には、この20倍は捻出しなければならない。だが、当初1年でこのほとんどを消費してしまう。
辺境制覇行によって、盟約を交わした各自治体からの出兵に対しては、その費用の大部分を各自治体が賄うことになっている。しかし、旧伯爵領の市民兵たちには、しきたりとも言うべき別の取り決めがあった。
それは、アマーリエの亡父ハインツが本格的に梃入れを行い、制度として徹底させたものだ。それ以前から、市民兵を基本戦力とする伯爵領では、兵役は市民の責務であり、誉れであるとしてきた。故に、自らの力で自らを守るため、ハインツは当番制の徴兵制度を敷いたのだ。しかし、そうは言っても彼らにも生活と生命を犠牲にするだけの対価が欲しいというの本音だ。出征の場合に限り、決して安くはない報酬を2ヶ月給として支払うことにした。今回の場合、その総額は交易金貨仕立てで一年につきおよそ7千枚。実際には価値の劣る伯爵領の通貨、アンオルフ銀貨で払われるため、為替の影響で安く上がるのだが、それでも大金であることに変わりはない。この支払い履行の義務は、防衛戦ではなく、出征である以上、現在の組織では騎士団長が負うことになる。しかし、これが傭兵料であった場合は、何倍にも膨れ上がる。攻城兵器やガレー船などを購入すれば、千枚単位で交易金貨が消えてゆく。戦争とはとんでもなく金がかかる事業なのだ。
さらに兵士たちには、現金支給の他にも、毎日の食も確保してやらねばならない。今回の出征のために取引が完了済みの小麦は120トン。商人たちがパヴァーヌ市場などから買い付け、順次ハロルド城市へと納入される。
攻め込まれるばかりで、騎士たちも各々が高額な借金を抱えているのが、辺境騎士団の台所事情だ。
後背地である辺境地域の発展と、新領地である旧男爵領の平定が急務であった。
アマーリエは君主会議に対し、それでも1万の出兵と号して、風のセレスティーナが見守る4月の末に出兵することになる。その本隊の出立より5日前、アマーリエはオラース率いる先遣隊を送り出す。
ハロルド城市の正門にアドルフィーナの神殿が仕立てた儀仗隊が整列し、勇壮な金管合奏にて兵士たちを祝福した。
アマーリエがオラースの隣へ馬をつけると、緋色の外套の下にある彼の甲冑は曇り一つない、パヴァーヌ式の新造品だと知れた。
「あなた、騎士団への寄進を渋ったわね」
無精髭もなく、綺麗に身支度を整えたオラースは、がっくりと首を落として嘆いた。
「おい、お前の着ているのは何だ?こちとらドワーフたちに造らせたちょっと出来のいいだけの甲冑だぞ、やっかみはよしてくれ!これは、1年も前に発注して何とか今日に間に合った代物だ。いい鎧ね、とか言えねぇのか」
全身甲冑のオーダーは、価格があって無いようなものだ。意匠の出来や作者の知名度、相手の懐具合でいくらでも値は吊り上げられる。騎士がハロルドの鍛冶屋に依頼すれば、交易金貨で100から1,000枚といったところだ。発注先がドワーフならば、品質が良い分、さらに値は高くなるはず。
アマーリエはジト目で彼を見つめた。
「本当だ、寄進はちゃんと同僚たちと話し合って同じ額を収めたぞ。これの代金は、それ以前に支払い済みだった。ほれ、みろ。その証拠に、腹の部分の留め紐が、少しキツイんだ」
二人の笑い声が、城壁に反響した。
アマーリエは、改めて彼の勇姿を眺めた。
中背ではあるけれど、しっかりと全身を支える隆々とした筋肉と、その上をさらに覆う豊富な贅肉。彼からは、周囲の人間に安心感を与える不思議な力を感じた。言葉遣いは横柄で、愚直な部分は否めないけれど、戦場にあっては、彼ほど頼り甲斐を感じる指揮官は稀だろうとさえ思える。
「くれぐれも言うけれど…」
アマーリエの言葉は、よせやい、と手を振って遮られた。
「分かってる、俺を幾つだと思ってる。俺の任務は先遣隊だ。情報収集と露払いに徹する。功績にはこだわらないし、猪突猛進もしない」
目を閉じてうなづき、白銀の騎士団長は先遣隊長に告げた。
「兵たちを任せたわ」
「任せられた!野郎ども、出立だ!列を乱すなよ!少なくとも、姫の目が届く限りはな!」
意気揚々、と言うよりも談笑を交えながら出立する先遣隊120名。彼らを見送った5日後、予定通りにアマーリエ率いる本隊2,202名が出立する。
その出陣の折、彼女は兵たちにこう告げた。
バヤール平原は、剣の民としての気概を失った西方諸国の未来の姿だと。
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