第4話 ランメルトの杞憂
「すまないが、君との結婚の件だが、現時点ではお受けすることが出来ない」
スズキの香草焼きに、ひっそりと舌鼓をうっていたイナヤは、3m向かいの席に座る美男子の言葉に思考を止められた。
彼の砦に到着し、当てがわれた狭く無機質な部屋に、南国織の絨毯を敷き、跳ね上げ式の木の窓に、槍の柄を使ってどうにかカーテンを設置。ギシギシと軋む粗末な寝台には、毛皮と綿のシーツを敷いてなんとか体裁を整えた。私の世話役として同行してくれた侍女サリサと二人で、新妻の居室として相応しい部屋はどんな具合かを話し合いながら、それは半日かけて苦戦した成果だった。
その晩に誘われた、新郎となるはずの美男子と二人だけの晩餐の場で、そう切り出されたのだ。
パンノニール伯ランメルトという名の西方出身の騎士は、表情を崩さずそのまま食事を続けていた。
「現時点では、という事は…戦の予定か何かでしょうか?」
真夏の海のような瞳がこちらを向いた。
馬に乗っていた時には後ろに纏めていたくせのない輝くような金髪は、無造作に額で二分され、白い両頬をなで落ちて、肩まで無造作に垂らされている。
彼は口についたオリーブ油を拭き取ると、両手をテーブルに置き、ゆっくり指を交差させた。
イナヤもそれに習い食器を置いて、彼の発言を待つ。
「君たちが心配するような事は起きない。少なくとも、我々は皆が警戒するほど好戦的な集団ではないよ…とは言え、戦いこそが主な役目ではあるのだが」
声は少し低め、イントネーションがフラム家の共通語とは幾分か違っていた。西方の騎士国、パヴァーヌの訛りに違いない。話す速度はやや遅め。ひかえめな抑揚と、自然な間の取り方が、知性のほどを垣間見せる。
「フラム家に従属の交渉を望んでおられるのは、すでに存じ上げております。平和裡にその関係を樹立させるため、私は父の命で嫁いで参りました。ですから、フラム家との戦を私は心配しているのではありません。もし、他の戦としても、お話し出来ない事もあるでしょう。ぶしつけな質問を向けてしまい、申し訳ありません。でも、良ければ話せる範囲、その理由だけでも、お聞かせください。あの、無理にとは申しませんが…」
ランメルトは表情を和らげてから、今度は少し優しい声色で返した。
「君の立場も解る。何も困らせるつもりで言っている訳ではないのだ。君の父上には、徹頭徹尾、婚姻に関しては私の一存では決めかねると申しているのだが、厳しい言葉でお断りするのも配慮に欠けるものとして、やわらかい言い方でお伝えしていた。どうやら、君の父上は私が思っていた以上に、押しが強いお方らしい。今晩、膝を据えてお話しできるものと期待していたのだが、君を届けると足早にフラムへと戻ってしまわれた。なんでも、奥方様の、君の母君の体調が芳しくないとか…そう言われては、私も無理に引き留める訳にもゆかず、次の機会を得るまでの間は、態度を保留にせざるを得ない」
「そんな…私はもう決まったお話しだと」
ランメルトは「私も困っている」とジェスチャーで応えると、食事を再開した。
イナヤはため息をついた自分に気づき、謝罪してから食事を続ける。
さっきまで感じていた味と違っていた。
辺境騎士団の一部隊を指揮してこの地にやってきた男は、自然な振る舞いで静かにスズキの骨を取り分けている。部屋に響くカチャカチャとした食器の音は、イナヤが立てていた。
結局、イナヤはそれから会話を続けることが出来ないまま、食事は終わってしまった。
「建築中の砦ゆえ、仮住まいしか提供できずに心苦しい次第ですが、しばらくは緊張を解いてゆっくり過ごしてください。誰もあなた方に危害は加えない事をお約束いたします。必要な物は可能な限り調達しましょう」
「あの、私たちは…」
ランメルトは、イナヤの手をそっと両手で包む。
「婚姻に関しては、保留です。まずは、騎士団長に事の次第を報告します。どちらにせよ、悪いようにはなりません。きっと、上手く収まるでしょう。どうか、心安らかに…」
「ベッドメイクからディナーまでのドキドキの時間は何だったのよ。恥ずかしいやら、情けないやら!ねぇ、サリサ。これから、私はどうなると思う?追い出されるのかしら?」
イナヤは部屋に戻るなり、待機していた侍女に晩餐の話を相談した。
「夜も遅いですから、どうぞお声を静かに。ここは壁が薄いですから、周りに聞こえます。その殿方が保留、と述べられるのでしたら、その通りではないでしょうか」
「もうっ。保留も白紙も延期も、全部、だめな事よ」
「今すぐご結婚したいと?」
「当たり前よ。その為に町を出て来たんだから、今さら、どんな顔で町の人たちに会えって言うの?末娘の慣わしで巫女になる運命の女から、今度は貰い手が付かないから仕方なく巫女になるしかない女って言われるのよ。もう…最悪だわ」
「これが最後の機会とは限りません」
「いやだ。あの人がいい」
「…美男子ですからね…」
「しかも、紳士的よ。今まで、この辺境の片田舎では見たことも無いわ!」
「ご生家をそんな風に言うものでは」
イナヤは拳を握っていた。
「サリサ、あの方に他の女がいないか調査して頂戴」
「…本気ですか?」
「本気よ!きっと、これが私の最初で最後にして、最大のチャンスなのよ。お断りの理由が何か知りたいし、それが女ならば、どんなやつか知りたいじゃない?」
「それで、良い結果になるとは限りませんが」
サリサが小声で苦言を呈すのを聞き流し、イナヤは「絶対に逃さない…」とは声に出さずに呟いた。
翌朝、ランメルトは砦の建築状況を視察して回った。
ベイリーでは、岩を破る者、斧を研ぐ者、麻紐を結い合わせる者、鋳物を鋳造する者、円形のハンマーで金具を調整する者、人力滑車を回して荷を上げる者…ありとあらゆる作業が所狭しと行われ、ありとあらゆる作業音が響き合う。
外壁は木材と石を並べただけの急拵え。背の高い木が少ない南部辺境では、木材の在庫はすぐに底をついてしまい、このままでは住居の修繕も難しくなるとの地元民の抗議もあり、近隣の遺跡から石材を運び込んだ。外壁の高さはカーテンウォールと評するには、まだまだ充分とは言えないが、総延長2kmになる外壁の仮設置はおわり、とりあえずは砦らしい形は作れた。しかし、防御面は穴だらけだ。
丘の上に拠点を築く、言うは易しとはまさにこの事だ。
厩と騎士たちの仮住まいは、ベイリー内に設けることができたが、遠征に同行した総勢500名の住まいとなると、外壁の外にずらりと並んだ天蓋に頼らざるを得ない。これは、砦が完成しても半数は解消されない。何故ならば工期、予算、人員の都合で描いた青図はこじんまりとしたものだったからだ。
マスターメイソンは山の民から借り受けたモナルという職人。工夫たちも山の民300名が中心だが、モナルの要請で地元民100名を追加で雇い入れている。彼らは近くに発見された遺跡から、丘の上まで石材を運び上げる作業に奮闘していた。
丘の中央部分に羊飼いたちが夏の間に使っていたと言う、古い井戸があった。現在その場所は深く掘り下げられ、石造のシェルキープを立ち上げる土台造りの建築現場となっている。
砦の建築が現実的な運びとなったのは、この丘の上の井戸を発見したためだった。
さほど高い丘ではない。井戸の水も北の山間部から南端の海へと流れる伏流水で、他の場所でも確保できたかも知れない。だが、問題は地元の人々が、ここに井戸があることを知っていたことだ。
砦が完成したところで、この地方の支配権が確立したならば、人員の足りない辺境騎士団はわずかな兵力しか駐屯させることはできない。場合によってはフラム領主に統治を委任させることになるかも知れないが、フラム家でさえこの地を完全に掌握しているとは言いかねる状況だ。デジレと共に周辺の情勢やら歴史を聞いて回ったところ、ここ南辺境では剣の神への信仰心は希薄で、各集落は独立心が強いことが判明した。交易の盛んな港町を掌握しているだけでは、精神的な影響力がまだ足りないと、ランメルトは判断した。
誰しもが知っている、誰しもが目の上のたんこぶと思えるような場所に、シンボリックな砦が必要だった。
その砦は、分相応に小規模なものでも構わない。
しかし、容易に落とせぬぞ、と誰しもに畏怖を与える砦でなければならない。
交易路にほど近い、丘の上にある井戸は、まさに絶好の地勢だった。
当然ながら、羊飼いたちは猛抗議した。平時は井戸の水を与える念書を見せることで、彼らを無理やり納得させたが、そんな羊飼いたちの抗議など、今後起こり得るであろう、あらゆる杞憂を前にすれば、どうと言うほどの問題でもないというのが、彼らにしてみれば甚だ不本意であろう、ランメルトの本音だった。
「自らを支配する砦を、自らの手で造りあげるというのは、どういう心境なものでしょうな」
相貌険しい男が、ランメルトに話しかけてきた。藍色に染め上げられた、ゆったりとした麻の羽織を纏い、肌は浅黒く、頬はこけ顎髭を伸ばし眼光は鏃のように鋭い。
「意外に郷土愛が芽生えるものかも知れぬぞ」
「地域の象徴ですか」
男の名は、デジレと言った。かつて、山の民との戦いでアマーリエと采配を交えた、元軍師だ。彼は風に靡く顎髭を腕で撫で付ける。長い袖から手は出ていなかった。
「信仰と税さえ変わらなければ、庶民にとって為政者の変更など遠い場所の出来事やも知れませぬな」
「辺境ならば尚の事」
「ところで、モナルが貴殿をお探しのようで」
「マスターメイソンのお呼び出しなら、早速向かわねばな」
シェルキープの建設現場を半周すると、すぐに目当ての人物が見つかった。
半裸の上半身は、隆々とした筋肉の上からしっかりと贅肉を蓄え、背丈の低さも相まった様は、まるで岩石のような印象だ。頭頂部はすっかり毛が抜け落ちているが、眉と口髭は頭頂部の栄養を簒奪したかのように黒々と生い茂り、はじめは目があっていることに気付かぬほどだ。
「人力滑車を造るよう命じたのは、司令官殿か?」
モナルは垂直測定器の紐を調整しながら、背の高い騎士を片目だけで見上げながら問うてきた。
「これ、無礼だぞ」
デジレを手で制して、ランメルトは答えた。
「作り方を問われたので、教えたまで。命じた覚えはないが、差し出がましい真似をしたかな」
「よく、知っておる。どこで覚えなさった」
「パヴァーヌ時代に、居城の改築作業を見て覚えた」
「ふん。生兵法というわけか」
デジレは天を仰いで山神に祈った。
「…間違っていたか、それとも製法がこちらとは異なるか」
「いや、上々じゃ」
じれたデジレが割って入った。
「あまり相手の人格にかこつけて愚痴を言うものではない。要は、爺ぃの不満は何なのだ」
「愚痴じゃと?総監督の儂の言葉を愚痴と申すか、たわけ者のカカシ軍師が。まだ、早いというのじゃ。物事には手順というものがある。芋汁を作るに、皿から渡すやつがおるか?まずは、芋、次にナイフ、そして鍋に水に塩じゃ。皿は最後で良い」
「つまり、まだ不要な物を拵えて邪魔だと申すか。石材は次から次へと運ばれて来ておろうに。どこかに積み上げておかねば、置く場所も確保できまい。それには人力滑車があれば助かろう」
モナル爺は、垂直測定器の麻紐を千切って言い返す。
「みろ、このような粗末な紐。紐の癖が治らず、真っ直ぐ測ることもできん。金槌は抜けて飛んで行きよるし、杭は石に負けて歪みよる。まずは、道具の質が悪すぎる。突貫工事なのは、政治の都合なのだから仕方あるまい。しかし、道具が悪ければ、職人たちは個々の技能を発揮できんことは分かってもらわねばならぬぞ。そして、順番じゃ。石造の建築物が当初の計画よりも増えたでな、漆喰が足らん。もうしこたま仕込んであるが、寝かしに2ヶ月はかかる」
ランメルトは腕を組んで思案する仕草で答える。
「だが、最初に準備した物から使えば、なんとか回転できよう」
「新しく運び込まれた石も問題じゃ」
「どのように」
モナル爺は、そこらに散らばる岩の中から、赤い石と青い石を拾って来て、そこへ円形のハンマーを叩き込んだ。
「この赤い方は、この地の砂岩じゃ。ハンマーで容易に砕ける。こっちの青い方は、なんの遺跡か知らんが新しく持ち込まれた砂岩じゃ。ほれ、硬くて容易には砕けぬ」
「砕けぬ方が、丈夫な砦になるのでは?」
「ほざけ、若造が!何も知らんくせに!」
唾が顔にかかり、流石に不愉快な表情を見せた司令官は、しかし黙ったままレースのハンカチでそれを拭った。
「叩き切るぞ、無礼者がっ」
「おう、できるものならやってらっしゃい!して、その両手でどうやって刀を持つというのじゃ」
デジレの額に血管が浮き出した。
やれやれ、とランメルトは軍師の肩をポンポンと叩いて諌める。
「マスターメイソン、ご教授を」
山の民は、普段は静かで礼節に厳しい者たちだが、一度火がつくとムキになりやすい。デジレも同じ山の民だが、こちらは他の者と比べ群を抜いて温厚で思慮深い。喧嘩を買うように見せて話の歩調を合わせているだけで、実は頭は冷静なままだ。ランメルトは、デジレの気質を理解していた。
「お気を鎮めて、どうか」
モナル爺は、ふん、と鼻を鳴らしてからようやく本題を語り始めた。
「城壁内部に設ける矢狭間や、マチコレーションなどには、加工しやすい岩を使いたい。出どころ不明な遺跡の岩ではなく、地産の砂岩がある程度は欲しいのじゃ。聞いた話では、丁度良い硬さの黄色い砂岩の採石場が近くにあるという。そこの岩を調達して欲しいのじゃ」
ランメルトの視線を受けたデジレは、首を振って答える。
「調査しよう。その採掘場の話を詳しく教えて欲しい」
執務室に戻った二人を、白い肌に栗色の癖っ毛を短く切り揃えた好青年が出迎えた。
「お戻りをお待ちしておりました。木材の購入の目処が立ちました。条件付きですが」
「ホーランド、方々走らせてしまいすまぬな。その話は、フラム家の仲介か?」
「いえ、南端の村が、離島に住むリザードマンの集落と交易があるそうで、条件とは双方への不可侵です」
「離島には森があるのだな。しかし、よもや…リザードマンが金を欲するとはな。辺境とは不可思議なもの」
「いえ、物々交換です」
「さもありなん」
「ホーランドは、使えるようですな」
「軍師殿、恐縮です」
ランメルトは腰の水袋を取り出し二人に勧めるが、首を振るのを見て自分だけ喉を潤した。
「私のことはともかく、ハルラーンという豪族は、なかなかに顔が効くようです。人工の手配から物資の調達まで、彼は頼りになります。協力的で、正当な価格と適正な品質を用立てます」
「そうか。だが、現地の豪族であるその者よりも、卿が上役であることを忘れるなよ。ハルラーンには換えが効くが、私の副官は卿しかおらぬ。我ら南方制覇を担う8人の騎士の中に、ホーランドのような折衝や事務に強い者がいて、私がどれほど心強いものか」
「その点では、親に感謝しかありませぬ。幼い頃より、リベラルアーツの家庭教師をつけて頂きました故」
「そうか、良い家に生まれたな。木材の件、資金は何とか用立てる。進めてくれ。実は、他にも優秀な副官に頼みたいことがあるのだが…」
「はっ、何なりと」
ランメルトはマスターメイソンから聞き出した噂話を彼に聞かせ、所在の特定と採掘の権利が誰にあるか否かを調査するよう命じた。
「採掘権に問題がなければ、モナル爺…いや、マスターメイソンを同行して調査することになる」
「了解しました。直ちに進めます」
副官が執務室を退席するのを待ってから、デジレは長衣を振るって椅子に座る。
「手綱捌きは並の上。剣は並。しかし、事務官としては良。女癖も無く、賭け事にも興味なし。深酒はせず、つまらん冗談も言わぬ。友人としては些か物足りぬが、副官としては文句なしですな。この人事も、姫の人物眼によるところで?」
ランメルトは、デジレの杯を用意し、薄めた葡萄酒を注ぐ。
「軍師の人物眼も姫のそれに劣らぬな。私も少しは見習いたいものだ」
「近頃の若者は、謙遜が流行りのようですな。歳を鑑みれば、姫や卿の達観ぶりには舌を巻くばかり」
「お主も謙遜しているではないか。それよりもデジレ、話がある。もう少し、良いか」
デジレはうなづきながら、両腕で器用に杯を掴み、葡萄酒を胃に流し込む。そして、ふと思い出したかのようにランメルトより先に口を開いた。
「それにしても、輿入れを覚悟して敵陣に乗り込んだ生娘相手に、開口一番、婚姻は保留とは…このデジレ、幻滅した次第ですぞ」
「いったい何の話…あぁ、昨晩のこと、聞いていたのか?」
「何せこの仮住まい、壁が薄い。騎士たちも話の邪魔になってはいかぬと、甲冑を手で押さえながら静かに食事しておりましたからな。意図せずとも聞こえるものは、致し方ない」
「道理で静かだった訳だ」
「まぁ、貴方らしいと言えば、それまでのこと。優しく丁寧に、しかし早急に希望を砕いて差し上げる」
「おや、私は食らっているのか。希望は、まだ砕いておらぬだろう。しかし、なるほど、どうせ保留にするのならば、はぐらかした方が、後々選択肢が増えると…そう言いたいのか?」
「ふむ。あるいは断ってみるのも手」
「手っ取り早く、相手の腹の中身を開けると。だが、あちらがその気ならば、砦の建設を放置しているはずもない。それに、反抗に出るのならば、こちらのわがままとしては、どうにか砦の完成を待ってもらいたい」
二人は笑い合った。
「時間は稼ぎたいですな。だが、気をつけなされ。どんな人間も合理的な考えをし、必要な機会に必要な決断を下せる事を前提にするのは、貴方の悪い癖ですぞ」
「…そうだな、フラムはまだ、決めかねている。それに、領主の一存だけで決められるとも限らん。港町一つだけの王国に、周辺には数多の豪族たち。この地に古きより地盤を持つ人間は、一人や二人では済まないだろうからな。決断には、それらの地固めが必要なのかも知れん」
「いずれその決断の時の為に、あらゆる選択肢を準備しておくのは懸命な事。我らが交渉を進めながらも、砦の建設を同時に進めるのと似て。最も、交渉に武力背景は相乗効果。兵力の少ない当方には、砦はやはり必要不可欠ですな」
「用心するさ。あの二人に関しては、持ち込んだ品は検閲し、使用人も武術の経験は無いと判っている」
「その使用人ですが、何やら嗅ぎ回っている様子」
「生存の為に情報収集くらいするだろう。私だったら、やはり調べておく。兵の配置、砦からの逃走路確保から、私の機嫌を取る方法、興味のあそうな話題、好みの食べ物までな。ある程度までは、自由にやらせて構わない」
「女性に対して、寛容ですな。それが、パヴァーヌの騎士道精神ですかな」
「誰しもが、そうと言う訳ではない。私の父は、母に対して辛く当たっていた。よもやすれば、その反動なのかも知れぬ」
「家を出たのは、反抗心から?」
「ははは。そうはっきり言われると、若気の至りと反省せぬでもないな。しかし…」
葡萄酒を杯に注ぎ足し、ランメルトは跳ね上げ式の簡素な窓から、喧騒に満ちたベイリーを眺めた。
「クラーレンシュロス伯ハインツ・フォン・アマーリエ。あの方のお人柄は、騎士道を求めていた当時の私の胸を熱くさせるものだった。剣技は右に並ぶ者無く、馬を自在に操り、弓を射れば外す事なく。他者には丁寧に対応し、労をよくねぎらい、しかし無礼な振る舞いや怠慢な態度には毅然と当たり、改心するまで根気良く接する。人々の声に良く耳を傾け、領主としての責務を全うし、どこまでも威厳と尊厳を損なわぬ。まさに、私にとってそれは、君主の理想像とさえ思えた」
「それを聞く限り、唯一の弱点は女性ですかな」
「弱点というよりも、私がお仕えした時すでに、奥方様はご逝去なされていた。姫以外の女性は侍女だけで、恋仲と言えるようなお相手も皆無であったから、何とも分からぬな」
「姫の教育は、家庭教師が?」
「リベラルアーツや歴史、地勢学などは家庭教師を招いていた。だが、剣の稽古と共に精神面の教育は、ご自身でなされていた。領主として必要な気質、とでも言うのか。それも、とても厳しく…」
「それで、あの鉄の如き意思と大胆不敵な発想」
ランメルトは、片眉を少し上げてみせた。
「山の民たちからは、そう見えていたのか?なるほどな。確かに、同年代の女性が真似できる事ではないだろう」
「ふん。敵中に陣を設け、二方面から攻める敵に対峙するなど、まず持って愚策。ところが、追い詰められたのは我らだった。食の調達はおろか水源さえも押さえられ、攻め込む以外は選択肢が無い。そこへ、あの罠だ。あの時は、魔術に長けた悪魔と対峙している心境であったわ」
「聞けば、魔法の甲冑を失う前提の奇策であったらしい。姫にとってはひとり分の甲冑よりも、多くを守る砦の方が、よほど価値が高かった、という訳だな。あの戦では、多くの者が倒れた。山の民の武勇の凄まじさを痛感しましたぞ。しかし、真に驚くべきことは、あの中で誰よりも果敢に、苛烈に、大剣を振り回し続けた姫の豪胆さよ。まず持って、目の前で同郷の民たちが死んでいく戦場で、逃げ出さずに踏み留まるだけでも、難しい。その点は、確かに覇者たる教育の賜物なのかも知れぬ。時に、どこか心を壊してしまったのかと、心配になる時もあるほどだ。だがな、古参の者たちは知っているのだ。姫が常に、心の内で自問自答を繰り返していることを。不安と後悔と自責の念に押しつぶされそうになりながらも、姫は決して逃げ出さぬし、投げ出さぬ。クルトに言わせれば、結果論として前に進む事しか考えられぬ性質、だとか。弱くて、強い。誠に不思議な女性だ。あ、これはくれぐれも内緒に頼むぞ。ボードワンやスタンリーなどの耳に入れば、新参者が知った口を叩くなと、こっぴどいめにあう」
「まるで、姪っ子の成長を見守る気持ちのようですな」
「なんと、恐れ多い…いや、言い得て妙かもな。なるほど、騎士たち全員の姪っ子だったのかも知れぬ」
「戦は人を変える。その幼な子も、すでに立派な為政者になっておられることよ」
「戦は人変える、か。それは自身の体験からか?気を悪くしないのならば、ぜひ聞かせて欲しいものだ。お主たち山の民は、隣接する諸族たちと戦を繰り返していたと聞く。そこから得た、戦の話を」
デジレは無精髭を指先でしばし掻きむしり、目を閉じると再び語り始めた。
「ふむ…敗戦の将が語ることではないが、お求めとあらば、それが老将の勤め…戦に出れば、日常が特別な時間だと知れる。死の危機が、いつも身近にあった事を理解できるようになる。また、戦に勝てば、不思議と次の戦の勝ち方も見えて来るもの。画一的な方法論だけではなく、奇策に頼る際の勝算も弾けるようになるものだ。兵数、兵糧、武装、練度、士気、地勢、天候、相手の体調と心理、指揮官の性格、頭を占めている心配事。それら全てを一度に考え、結果を予測出来るようになる」
「大局感というものか」
「だが、一度大敗を喫するとな、おかしな事が起こる。いったい何故、今まで勝利していたのか分からなくなるのだ。侵攻する側は相手が準備できるだろう状態よりも勝る準備をして来るもの。それが出来るからこそ侵攻して来るのであって、采配の効果など、たかが知れているのではないか、戦は準備段階で勝敗はほぼ確定しているのではないか、と思えてくる」
ランメルトは静かに話を聞いている。
「だが、やはり采配の効果は大きい。歴史を辿れば、不利を覆して勝利する例は枚挙にいとまがない。勝利の女神というものは、やはり実在するのだ。だが、滅多にはおらぬ。周囲から期待される武将であっても、呆気なく散るのが戦争だ。そうそうは、存在せぬ。だが、それが出来る者は、稀にでもあっても確かにこの世に存在する。マンフリード領、山の民、そして先刻入ったグラスゴー落城の知らせ。クラーレンシュロス伯ルイーサは、逆境を覆す何かを持っている。彼女がどのような生い立ちなのかは、私は知らぬ。だがきっと、勝利の女神に見初められた一人に違いない。そう信じ、そうあれと願うがこそ、王も私も、服従を決意したのだ。そう遠からずのうちに、卿らの故郷を取り戻す日も近かろうぞ。我らが姫は、まごうことなき、覇者の血筋なのだから」
「貴公に太鼓判を押されたら、気も晴れるというものだ」
「ならば、秘蔵の酒でも振る舞うと良い」
「あぁ、確かにそんな気分だ」
ランメルトは棚の奥から小瓶を取り出し、固い蓋をこじ開けると、木のカップに注いだ。
木を燻したような、芳醇な香りが部屋に広まる。
「古王国産の蒸留酒だ。少しずつだぞ」
デジレは、無精髭の口元を緩ませた。
「遠き地におられる姫の武運を願って」
二人はニヤリと微笑んでから、杯を交わした。
「酒とは、不思議なものだ。普段は上手く伝えられない思いも、何故か言葉以上に伝えてくれる」
「辺境の民だけやも知れぬが、こんな話がある。酒には神が宿り、心の奥底にある本音と、鍵をかけたはずの本性を、その吐息と共に外へ引き出し、相手の耳元で囁いてしまうと」
「なるほど。ならば、その酒の神に本音を述べさせよう。君ほどの賢者を得たのは、天佑としか言えん」
「ふん。今更、こんな老いた男を口説いても得はないぞ。それに…それを言うならば、まずはエルフの紋章官に謝辞を述べるが良い。北の塔を失い、別動隊と本隊の連携を取られてしまったのは、あやつ…おっと、紋章官殿の功績によるところだ」
「北の塔とは、嶺を塞ぐ砦のことだな。私は、てっきりクルトが力押しで成したことと思っていたが」
「…」
「違うのか?」
「妙な話だな。深謀遠慮にして、戦果報告が曖昧とは…良かざらん」
ランメルトは、デジレの瞳を覗き込み、続きを催促した。
「良かろう、話すともよ。心進まんが、上等な酒が舌の滑りを良くしたことにしよう。襲来したのは、ごく少数の兵だった。しかし、それが判ったのは命からがら、塔から身投げ同然に逃げ出した後のことだ」
「なぜ、そこまで混乱したのだ」
「霧と、動かぬ空気…いや、音のしない空間と言った方がいい。広範囲に渡って、二つの魔術がかけられていた。外の守りはそれらにより無力化され、内部の兵たちは剣技か魔術か判らんが、ろくな抵抗もできずに無力化された。屋上にいた私が、霧に気付いたすぐ後には、屋上まで敵は上がって来たのだから、電光石火と言わざるを得ん」
「広範囲に二種類の魔術を同時に…」
「確か、紋章官の配下に別のエルフがおったな」
「名を…エレ…いや、レオノールという野伏だな。彼女は確か、多少の心得程度はあると」
「そのような半端なものではないと思うが、魔術に関しては詳しく知らぬで…ただ、大掛かりな魔術を体現するには、準備と詠唱にかなりの時間がかかるものと聞いていたのだが。ここに至っては、それはもう然程の問題ではないだろう」
「…魔術と言えば、ギレスブイグ男爵に頼りきりだからな。彼に匹敵する魔術師がもう一人いるとなれば、心強い、吉報と言いたいところだが…問題か…なるほど」
「能ある鷹は爪を隠すとは言うが、雇われの紋章官が、何故実力を隠す必要がある。それも、自らの活躍を過小に報告する意図は何だ」
しばしの沈黙の間、二人の脳裏には何が走ったか。
ランメルトが夢から覚めたように、明るい声で語り出した。
「待て、待て。いずれの答えも、遠く離れたこの南端の地にいる限りは、憶測の域を出まい。本人のいない所で、ましてや酒を飲みながら陰口を叩くのは、評価されることではあるまいて」
「同感ですな。疑心暗鬼の種を育てても、ろくな実はならぬて」
ランメルトは蒸留酒の香りをたっぷりと吸い込み、重い空気を吹き消した。
デジレは、組んだ足先を部屋の片隅にある大きな木箱へ向けた。
「南方軍の資金は、とうに尽きておるはず。卿の個人的な財産で、砦はどこまで完成させられる見込みか」
ランメルトは吸い込んだ香りを一気に吐き出した。
「もっと明るい話題を提供してくれ」
数日後、二人の耳にはさらに心を暗くする報告が飛び込んでくることになる。
副官ホーランドが兵糧を横領し、その証拠品と共に連行されて来たのだ。
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