第2話 輿入れ行列
辺境騎士団本隊が本国奪還の準備として、グラスゴーにて新兵たちを訓練していた頃、辺境南端にある港町の目ぬき通りでは、花を手にした人々が集い、家門を巣立たんとする領主の末娘を祝福するのに夢中だった。
色とりどりのダリアの花びらが、晩夏特有の強い海風に舞いあげられて、馬車の上の花嫁の頬を凪いでゆく。
大衆の主人公たる領主フラム伯爵家の次女イナヤは、しかしながら馬車の中にはいなかった。満面の笑みで御者の隣に座り、花びらをあびながら領民たちに手を振って返す。見送りの人々の列は街の外まで及び、イナヤが乗った馬車が近づくと、道に花びらを撒いて門出を祝福してくれるのだった。
少女は心の底から、この門出を喜んだ。まさに、感無量。
見送りの列の中には、涙を流す女性もいた。
だが、彼女はそれが、喜びの涙ばかりでないことを知っていた。
「お可哀想に、どうぞご幸運をお祈りいたします」
初老の女性が声をかけてきた。顔に見覚えがある。一時、家に侍女として奉仕してくれた者だ。
「嫌だな、ニーナ。そこは、お幸せに、でしょ」
過ぎ去る際に、深く頭を下げて見送ってくれた。
イナヤは、胸が熱くなり神に感謝を告げた。
これほどまでに自分は、領民たちから愛されているのだ。
これを実感できる人は、この世界にどれほどいるだろう。
頬を伝ったのは、悲観ではまるでなく、正真正銘の感動によるものだった。
「一族の心は、ずっとお前と共にあることを忘れるな。それは、フラムの領民たちも同じである。これを見れば明らかであろう。お前の身は、皆が案じておる。騎士団とて、それは無視できまい」
馬車の後方を追従する父が、励ますように声をかけてきた。
初めてかも知れない。
普段は必ず列の先頭を行く父が、この日ばかりはしきたりで花嫁の後方に着いている。しかし、初めての事は、それだけではない。少なくとも物心がついてから、父から励まされたのはこれが初めてだった。
娘の涙が、ただ単純に感涙のそれであることを知らぬ父に向け、イナヤは、きっと彼が期待しているであろう言葉を返した。
「務めは充分に承知しております。父上もどうか、ご安心してお仕事に専念してください」
列には、イナヤと侍女と御者とを一人ずつ乗せた馬車の他に、父の馬と、それに従う者が50人ばかり。父が用意してくれた嫁入り道具を満載にした荷馬車を警護している。腹違いの母は、城館に残った。別れ際には、スカーフを頬に当てていたが、あれは泣き真似だったことをイナヤは見抜いていた。いや、でもしかし、真似をして見送ってくれただけマシなのだ。城館の中でイナヤが心を許せたのは、この父と使用人たちだけなのだから。
その父は、鼻を赤くして泣き始めた。
「もう、まだ領民たちが見てるのに、みっともない」
いや、見ているから?
馬車の向かう先は、港町から8キロしか離れていない辺境騎士団の前哨基地。
そこの司令官の元へ、イナヤは妻合わせられた。
町の喧騒から離れると、緩やかな丘陵地帯に畑が広がる、のどかな風景となる。
父も早々に泣き止み、ゴロゴロと転がる車輪と馬の蹄の音だけの静かな時間がやってきた。
「御召し物が汚れます。馬車を停めますので、中にお戻りください」
「落ち着かない?」
イナヤは御者を困らせて楽しんだ。
イナヤの髪に一欠片だけ残されたダリヤの花びらが、丘陵を抜ける風に運ばれて、左手に広がる大海原へと運び去る。
兄の愛した心地良い丘の風。
「ここでいいわよ。どうせ中も居心地悪いし、風があるだけこっちの方がマシ」
「そうですか。まぁ…お嬢様らしいですね。ご自由にしてください」
「そ?」
イナヤは天空高くを浮遊するサシバを眺め、それに飽きると海を見つめた。離れているので、一見穏やかに見えるが、この季節から波は高く風が乱れ始め、航海には適さなくなってくる。漁に出るのも夜明けから午前中だけで、午後からは操舵も苦労することになるのだ。だから、海はただ波を運ぶのみ。
「泣いてる人も居たわね。私は、どうなの?」
「…はて、どうなの…とは?」
「幸か不幸かってこと」
御者は言葉に詰まった。
「言の葉の巫女になるため、幼い頃よりずっと励んでいらっしゃったのですから、それが残念では?」
イナヤは首飾りの先にある石をそっと撫でた。
「励んだ記憶はないけれど…どうなんでしょうね」
「…先のことは分からない、ということでしょうか」
「そんな感じ」
まるで吸い込まれるかのような、果てのない水平線を眺めながら、そう、つぶやき返した。
「見えてまいりました」
何が?尋ねそうになったが、それは前方の丘の上に並んだ木の柵のことだと気づいた。
あれは、確か羊飼いの井戸があった場所だ。
「まるで、南端の村々を繋ぐ道を監視するかのような位置ですね。あれでは、フラムが孤立してしまいます」
御者の声には、憤りが込められていた。
イナヤは馬車の中に戻るため、隊列を停止させた。
「近づいたら、にこやかにするのよ?いいこと、両者の仲を良好に保つのが私の仕事なんだから、邪魔しちゃ駄目よ?」
御者にそう言い含めると、父に手を振って馬車の扉を閉める。再び列が動き始めると、侍女が危ないと言うのも聞かず、身を乗り出して丘の上の砦を眺めた。
「せっかくの御召し物に、しわが入ってしまいますよ」
「だって、どんなお方なのか、早く知りたいじゃない!」
侍女が、まったく、先が思いやられます、と苦言を呈すが、イナヤの心はそれどころでは無い。丘が近づくに連れて、高まる鼓動。今すぐにも羽を生やして飛んで行きたい、そんな気分をおさめるのに必死だった。
「見て、柵の奥にいくつもの塔が見える。全部、木製…いえ、ひとつだけ石造りがあるわ。でもまだ、完成してないみたい。きっとあそこがキープなんだわ。いずれ、全ての建物を石造りに変えてしまうのでしょうね」
肩口を掴まれて、強引に引き戻されたイナヤの身体は、椅子の上に敷き詰めたクッションの海に埋もれた。
「ご領主様が後ろにおいでなのですよ?そんなにはしゃいでは、後で何と言われるか」
イナヤは驚いた顔から、すっと冷静さを取り戻した。
「そうね、役目はなんであれ、やっと家から出れたんだから…ここで、みんなの期待外れな行動をして、それを台無しにはできないわ。サリサ、ありがとう」
1時間もかけて綺麗に結ったイナヤの栗色の髪が跳ね上がっている箇所を見つけて、侍女は串を使って手直しを始める。後頭部をぐるりと一周する三つ編みは、本人のそれではなく、一緒に縫いまとめた付け毛だった。本物の髪が、付け毛の束縛から逃れようと飛び跳ねる。揺れる馬車での困難な作業だが、侍女は器用に串を操った。その間、イナヤはドレスの胸元から無骨な石のペンダントを引き出して、愛おしそうにそっと撫でた。
「長い間ずっと一緒だったけれど…これとも、いずれお別れね」
「後任が決まるまでは、お嬢様の持ち物です。それまで、大切にお持ちください」
「わかってるけど、後任なんていつになったら現れるのかしら。私の他に、子はいないのに」
「新しい奥方様は、まだお若いから、大丈夫ですよ。それに、人の一生など短いものです。急ぐ必要なんてありませんよ」
「そうなのかな…」
イナヤは北の方角へ目線を移して、そう小さくつぶやいた。
「せめて髪が伸びるだけの時間があったら良かったのに。これほど急に輿入れが決まるなんて、思いもよりませんでした。いいですね、何度も言いますが、女は男たちの社会には入れません。あまりでしゃばら無いこと。しかし、暴力なしには、男は女に敵わないのです。うまく、立ち回るのです。自分たちの領域としきたりを阻害されない限り、まともな男は女に手を上げません。私の知っているイナヤお嬢様なら、きっとうまくやれますわ」
「サリサ様、さまさまですわ」
「そうやって、茶化してばかり。家を代表して和平の架け橋となるのですから、毅然としてください。卑下した分だけ、女の価値は落ちるのですから。いいですか?求められるのは、能力ではなく、価値なのです。心根をしっかり持つのです。巫女の教育を優先させてお育てになられたお子を、貴族の社交の場に出して良いものか、ご領主様は最後までご危惧なされておいででした。ご領主様の心中もお察しください。男親にとって、末娘ほど可愛い子などおりません。先ほどだって、泣いておられたではないですか」
「…ありがとう。自信…はすぐには難しいけれど、自覚は持たなくちゃね。でも、さっきの話、相手がまともな男じゃ無かったから、私はどうなるの?」
侍女はにっこりと微笑みながら答えた。
「私がいつでもお側におりますので、ぶっとばして差し上げますわ」
「その後始末も、和平の架け橋の仕事ってわけ?前途多難すぎる!」
二人は笑い、声が大き過ぎたことに気づいて互いの口に手を当てあった。
「いいわ、どんな男だって構わない。きっと、籠絡してみせる!」
グッと握られたイナヤの拳を、侍女はそっと下ろした。
「どんな男でも、長い時間をかければ、必ず籠絡できるものです。それまで、印象を悪くさせない事だけをお考えください。疎ましいと思われたら、遠ざけられてしまいます。イナヤ様は、男が好むような政治のお話は苦手なのですから、無理はせず、最初は口数を抑え、普段通りに付き合える女、そう思わせるのですよ。焦らず、じっくりと時間をおかけなさいませ」
やがて、砦の門前に達した列は停止する。門が開き、軽やかな蹄の音が馬車へと近づいてきた。
前髪を整えながら、イナヤは姿勢を正す。
「いよいよね、降りなくて良いのかしら?」
「お静かに」
馬車の窓越しに、金色の長髪をなびかせて、白い肌の騎士が覗き込んで来た。
「淡い、青い瞳・・・」
イナヤは挨拶も忘れて、呟いていた。
騎士は馬上から一礼した。
「どうぞ、そのままお進みください」
それだけ言うと、馬車の前に馬をつけ、砦の中へと一行を誘導する。
不思議な表情だった。
不機嫌でもなく、歓迎しているわけでもなく、取り繕わずにただ、憂いている。
そう、憂いている。
イナヤの瞳は、瞬き一つの時間に見た、先ほどの騎士の瞳が焼きついていた。
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