4. 辺境騎士団と赤炎の花嫁

小路つかさ

第1話 赤い瞳

 ソル族の長が、人間の女性を引き裂いた。

 哀れな女は布を引き裂くような断末魔の叫びを上げたが、床に投げ落とされた時にはすでに声も無く、びくびくと痙攣を続けるだけになった。

 その後ろでは、少女が失神して倒れた。自分を守るため間に割って入った母が、生きたまま首元から肩甲骨までを裂かれる様を見てしまったのだ。木造の質素な神殿内に鼻をつく臭いが混じるが、元々蛮族たちの体臭も似たようなものだ。今さら誰も気に留める者はいない。

 歓声をあげる一族を手で制し、族長は言った。

 見たか、こうも人間は弱い。我々戦士の一族の敵ではない、と。

 さらに続ける。

 こいつらの身体を八つに分けて、外の人間たちに見せれば恐れ慄いて戦意を失うだろう、とも。

 この族長の思考は私の範疇に無いが、どうやら本気で言っているらしい。自らの求心力と士気を高めるために、あるいは、自身の恐怖心を乗り越えるための手段として、高揚し沸騰した頭脳で必死に考えた結果なのだろうが、私にはそれが懸命な決断とは言いかねた。

 そもそも、蛮族たちは精神的負荷に弱い。肉体的には優れているが、忍耐というものを知らない生き物たちだ。人間たちの先祖が建てた、この神殿の中に閉じこもって籠城戦を演じるだけの、それがないのだ。せっかく生きた食糧を手中にしながら、また、人質という手札もを持ちながら、それをむざむざ浪費してしまう。

 だがしかし、斯く言う私自身、まだ混迷と困惑の中にいた。

 数多の知識を持ちながら、依然として、それらを咀嚼し、有機的に繋ぐ手法に手こずっていた。

 このような局所的で瑣末な事象に干渉する意味さえも、図りかねていた。

 まだ、馴れぬ、思考することで起こる、眩暈と吐き気。

 やがて脳内で構築れる予想可能な、いくつかの未来。

 利用できる、わずかな知識と、今の私では理解しきれない、その他の膨大な知識たち。

 それらの膨大な知識は、同時進行で数万の個体から集積され続けて、今もその発信源は増え続けている。

 あぁ…このような苦しみを味わうのならば、いっそ昔は良かったとさえ、思えてくる。

 私は、空腹感と捕食の喜びだけで存在し続けることが出来ていた。

 それだけを目的に、生きていけた。

 だが、今では認識できないほど増え続ける情景、飢え、痛み、恐怖。そして、何より思考することの苦しみは何よりも増して耐え難いほどの嘔吐感を覚える。

「お前、俺の声を聞け!」

 広大な川幅を跨ぐ橋桁で、私は列を乱すなと怒鳴り倒された。

 背の高いオラグ族の一団が、私たちを押し退けて、橋の中央を進んでいく。

 彼らの規律ある行動は、私の興味を大いに惹きつけた。

 しかし、私の意識は草原を抜け、百キロを瞬時に移動する。

 族長が胸ぐらを掴み上げて、何かを怒鳴りつけている。臭い唾液が顔にかかったので、それを拭いながら用を尋ねると、彼はこう返してきた。

「お前とお前の部下で、人間どもを切り裂いて、外に放り出して来い」

 なので、私はこう返した。

「ここにいる人間たちと、この神殿を包囲している外の人間たちは一緒ではない」

「なんだと・・・?俺の命令が聞けないのか?」

 殺気が膨れ上がる。

 周囲の一族たちが、剣呑な空気を面白がって笑い始めた。

「そうではない、情報提供だ。ここにいる人間たちは、私たちの里で言う妊婦と子どものような存在だ。つまり、はなから戦う人ではない。だが、外にいる人間たちはその真逆だ。今は人質がいるから踏み込めないだけで、全員を殺してしまっては彼らに利するだけだ」

 物は試し、と私は目の前の蛮族を説得できるかどうか、意識を最大限に集約した。図らずに、この試みには収穫あった。一つの個体に集中すれば、眩暈や吐き気を遠ざける効果があることを発見したのだ。ありがたい事を発見した。

「お前は、臆病者だ!」

 族長は大きく反り返った蛮刀を抜いた。

「何故、そうなるのだ?ならば、そも何故にこのような建物に籠ったのだ。人質を取って籠城するのが目的だったのでは?その人質がいなくなれば、火をかけられるぞ?」

 族長の背後にいる者たちは、不思議なモノを見るように首を傾げた。

「人質などもどかしい真似はしておらん。たまたま、この建物の奥に隠れていただけの話よ」

 ソル族の長が振り下ろした蛮刀は、床板に突き立った。

 身を交わした私に、憎悪を凝縮した眼光で彼は言った。

「お前、目が変わってから憎らしげになったな。いつも無口で、俺に不満を抱いているようだった。昔はいい奴だったが、この戦争がお前を変えたのか?それとも…」

 取り囲むように詰め寄る私の集団。

 私は、この場に有益な知識を手繰り寄せた。それによると、『指揮官への提言は、部下のいない場所で行うこと。その場合でも、正面から否定せずに相手の体面をなるべく損なわないようにすべき』であるらしい。

「その目は、邪教の証なのか?」

時すでに遅し、という場合は…『いち早く先手を取ること。気勢を制せば場を掌握できる』

 族長の首を切り落とした私は、刀に付いたその血を指で拭うと、武器を構えて威嚇する残り半数の蛮族たちの前で、自らのまぶたに横一線に塗りたくった。

 それは、ソル族の習わしによるところの首長交代の儀。

「モルドの子、ムザクに代わり、その甥にあたる我、ルナグの子、ガザが一族を治める。異議のあるものは代表を立てよ。一族の守護神マーサの名において決闘で正しきを測る」

 荒い息遣いによる熱気と、手にした武器から立ち上がる殺意が、薄暗い神殿の空気を満たした。

「兄を超える覇気を示せ!」

 ムザクの弟ムザクノが、まだ戦意を保っていた。

「覇気とは?蛮勇のことか?無策に敵を煽り、勝てぬ相手と知りながら一族に犠牲を強いることならば、生憎、私には持ち合わせがない。だが、一族の繁栄を約束することはできる。大言壮語ではない、簡単な話だ。そのためにやることは、たった二つだ」

 私は前族長が砕いた床板を指差した。そして、八つ裂きにされた女の死体から手首だけを切り離すと、閉した鎧戸を開けて、外へ放り出した。

「ぞの手だ!よぐ見ろ!ぞの手より近づけば、もっご多ぐの人質を部分的に解放ぢてやぐ!ごれはマーサの名にごいて誓ぐ!」

 その時、不思議な光景を見た。

 古い建物の窓から、一体の蛮族が半身を出して訛りの強い共通語で怒鳴っていた。いや、訛りと言うよりも歯の構造が人間と異なりすぎて、同じ発音ができていない、という印象だ。

 その蛮族は、夕日を反射して紅く燃える瞳が印象的だった。

「人質の安全を誰が保証するのだ!」

 私は、その声の主と目線を交えると、うなづきながら答えた。

「私だ。ごれがらは安全を保証ぐる。私が誓ぐ」

 矢を射られる前に、鎧戸を閉めた。最後の言葉は、離れた相手には届かなかったかも知れない。だが、それはさして問題ではないことも、私は知っていた。

 振り返ると、多くの瞳が私の次の指示を待っていた。

「厠にある死体をどけろ。さぁ、時間は無い、やることはまだまだあるぞ」

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