第58話
ヴァイオリニストの唇から、勢いよく血が溢れ出した。
引き金にかかった指から力が抜け、手から落ちた拳銃が机の上に転がる。
イヴァンを殺す一歩手前で、ヴァイオリニストは背後から飛んできた鋭い弾丸に心臓を抉られた。
彼は、残された最後の力で後ろを振り返る。
「お前、生きていたのか」
諦めたように最後の言葉を言い切って、ヴァイオリニストは崩れ落ちた。
イヴァンの目に、立ったまま狙撃銃を構えるシャーナが映る。
硝煙の燻る銃口が、真っ直ぐにイヴァンを睨んだ。
「話は聞いた。イヴァン」
シャーナはそう伝えると、狙撃銃の銃口を下す。
彼女に、イヴァンを殺すつもりはない。
もちろん、ここでガーランが死ぬ原因を作ったイヴァンに殺意を感じないと言えば、それは嘘だ。
だが、イヴァンは全てを成し遂げた。ザルカ帝国を最後まで騙しきり、そして滅ぼした。偉大な勝者だ。
ただ憎悪だけを見続けた自己中心的なシャーナに、敵と共に戦う屈辱を受けてまで勝利を得たイヴァンを撃つ権利など、あるはずもない。
何より、たとえシャーナが今ここでイヴァンを殺したところで、何の意味もない。
すでに核は放たれ、ザルカ帝国全土へと向かっている。
つまり、イヴァンもこれで死ぬ。
シャーナの心には、ただ虚無感だけが残っていた。
「あなたはどうするつもりですか?ここに着弾するまであと20分もありませんよ」
「お前はどうする?」
シャーナは聞き返した。
「私は自決しますよ。自らの命令で、私の見たかった未来のために、多くの人を殺してきましたから。最後に核の炎で蒸発して死んだら、勇敢な死者たちに顔向けできません。せめて彼らと同じく、鉛で死ぬことにします」
イヴァンはヴァイオリニストの、最後まで思想を信じて散った男の拳銃を持ち上げると、自身のこめかみに当てた。
「あなたは、どうするつもりですか?」
イヴァンは、穏やかな口調でもう一度聞いた。
「‥‥特に何もしない。ガーランの側にいるよ」
シャーナは、微かに囁くような声で言った。
すでにザルカ帝国への復讐は終わった。
ずっと追い続けてきた目標を失った世界に、今更、たった一人でしがみつく勇気など、シャーナには持てない。
共に歩いて行こうとしてくれたガーランも、もういない。
「そうですか。それではヴァルハラか地獄かで、またお会いしましょう」
イヴァンはそう言い残して、引き金を引いた。
脳髄が床に飛び散り、彼は永遠の眠りに落ちる。
シャーナはイヴァンの骸に敬礼すると、倒れたガーランの側に膝をついた。
「ガーラン。復讐に飲まれた私のような人間を好きになってくれたことに礼を言わせてくれ。ありがとう」
シャーナは、子守唄のような優しい声でそう言った。
かつてガーランだった死体は答えない。聞くこともない。
シャーナはその頭を自身の膝において、見開いた瞳を閉じた。
こわばっていたガーランの顔が、穏やに眠るような表情へと変わる。
抉られた後頭部から溢れる血と脳髄が、シャーナの膝を汚した。
残された時間は、あと15分もない。
シャーナはガーランの頭を持ち上げて、唇を重ねた。
鉛にも似た、血の味がするキスだった。
シャーナは長い時間そうしていたが、やがて優しく唇を離すと、ガーランの体を強く抱きしめた。
永遠にも思える無音。
「またね」
刹那。
シャーナは白い炎に包まれた。
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