第57話
事切れたガーランの、その後ろで。
「危なかったですね。
額に傷のある男が、硝煙の燻る拳銃を下ろした。
「ええ。助かりましたよ。
マエストロと呼ばれた初老の男性は、穏やかな口調で状況を聞いた。
爆風で焼け爛れた室内も、窓の外に見下ろせる戦火に包まれた首都すら、まるで意に介さないような穏やかな口調で。
「元警察と元連邦警護庁の2人は死亡を確認しました。黒人の散弾銃使いは上手く逃げおおせたようです。狙撃手は見失いましたが、このビルからは出ていないと思いますよ」
ヴァイオリニストと呼ばれた男は、丁寧な口調で報告した。
「そうですか、2人は死にましたか」
マエストロは、どこか寂しげにそう言った。
情報本部副長官
特務機関本部長官
そして赤いオーケストラ
数々の名前を扱う彼の素顔を知る物は、誰もいない。
「それでは、我々も演奏しましょうか。最終楽章を」
イヴァンはうっすらと笑みを浮かべて、そう言った。
ヴァイオリニストは深く頷く。イヴァンはブリーフケースに収められた機械の起動プロセスを開始した。
「思えば長かったですね」
イヴァンはブリーフケースの機械を操作しながら、そう呟く。
「はい」
ヴァイオリニストは、感傷に浸るような声で返事をした。
イヴァンは、ブリーフケースの片方を指差す。
「これでアトラ連邦の全核兵器を自爆させ、核抑止力を無効化する」
イヴァンは、続けてもう片方を指差した。
「そして、これでアトラ連邦の全主要都市を核の業火で包む。灰燼と化したアトラ連邦をザルカ帝国の植民地として、この戦争に終止符を打つ」
政府機関から独立しつつも高い権限を持つ特務機関にとって、アトラ連邦の核兵器発射ボタンを入手することは難しくない。
そして赤いオーケストラは、ザルカ帝国核戦力の全てを運用している。
両方のトップを務めるイヴァンにとって、両国の核兵器発射ボタンを入手することは、大した労力にもならなかった。
「それでは、始めますか」
ヴァイオリニストは、準備を終えたイヴァンにそう声をかける。その声色には、抑えきれない心の昂りが感じられた。
「ええ。ですがその前に、あなたに死んでもらう必要があります」
ヴァイオリニストの表情が、訝しげな物に変わる。
「それはどういう‥‥」
次の瞬間、発砲音が鳴り響いた。
腹部に弾丸を受けた男は、苦悶の表情を浮かべて地面に膝をつく。イヴァンは冷徹な瞳でそれを見つめた。
「なぜ?」
ヴァイオリニストは激しい動揺を隠巣こともなく、そう問う。
彼の口から、どす黒い血が溢れた。
「ここまでついてきてくれてありがとう。ようやく全てを終わらせられますよ」
その問いには答えず、イヴァンは一方的に語り始めた。
「もう何十年も前の話ですが、先の世界大戦の際、私はアトラ連邦とザルカ帝国の国境近くで暮らしていました。ええ。ムリズという村です。知っていますか?」
そのたった一言で、ヴァイオリニストは全てを察した。
その村が、先の大戦時にザルカ帝国が実験的なガス攻撃を行った村だからだ。
「私の家族は全員死にましたよ。猛毒のガスで肺を焼かれる激痛に苦しみ抜いた果てに。国防軍にいた私は、海外に出征していたので助かりましたが」
イヴァンはブリーフケースの機械を操作して、中央の大きなスイッチを押した。
だが、特に何も起こらない。
ヴァイオリニストが、機械の誤作動という淡い期待を抱いた次の瞬間、かすかに地面が揺れた。
「これでザルカ帝国の全核兵器は全て自爆しました。周辺の農園や村は、この世から消え去ったでしょうね。弾道ミサイル潜水艦の乗組員たちは、苦しむ間もなく即死でしょう」
イヴァンは、世間話でもするような口調でそう言った。
「ふざけるなよ」
ヴァイオリニストは腹の底から怒りを搾り出すような声を出すと、多量出血と激痛に光を失った目でイヴァンを睨みつける。
だがイヴァンはそのまま続けた。
「ですが、これだけでは大した被害にはなりません。ほとんどの核兵器は主要都市から遠く離れた場所に設置されていますから。それでこちらです」
イヴァンは使い終わったブリーフケースを用済みとばかりに床に落とすと、もう片方のブリーフケースを目の前に寄せた。
「これはアトラ連邦の核発射ボタンです。これを押せば、アトラ連邦の保有する全ての核兵器が、ザルカ帝国の主要都市全てに向けて発射されます」
「やめろ」
ヴァイオリニストは、血の止まらない腹部を押さえながら拳銃を構える。
「やめろ」
ヴァイオリニストは、痛みでろれつの回らない舌を必死に動かして、もう一度言った。床の絨毯に血だまりが広がっている。
青白くなったヴァイオリニストの顔を嫌な汗が流れていた。
イヴァンはそれを見て、ヴァイオリニストの焦点の定まらない瞳と揺れる銃口を見て、それにも表情ひとつ変えることもなくスイッチを押した。
発信された強力な電気信号は、即座にアトラ連邦軍の人工衛星にキャッチされ、アトラ連邦各地の核発射基地へと送信される。
24時間体制で待機している核ミサイル部隊は、一切の滞りなく決められた手順に則って核兵器を発射した。
音速を優に超える速度で青空を駆ける弾道ミサイルを迎撃することは、不可能ではないにしても難しい。
「そんな」
ヴァイオリニストは、絶望の表情でイヴァンの頭に拳銃の銃口を押し付けた。せめて最後に、目の前の裏切り者だけは殺すために。
机の上には、ヴァイオリニストを撃ったイヴァンの拳銃がまだ置いてあったが、イヴァンがそれを手に取ることはない。
全てを成したイヴァンに、もう悔いはなかった。
ヴァイオリニストは拳銃の引き金に指をかけ、強く引いた。
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