第42話

「出たぞガーラン。入るか?」


 ゆっくりとドアが開いて、浴室からシャーナが出てきた。


 ガーランは目線を上げる。


 湿って艶を帯びた金髪を目に入れて、ガーランはすぐに目を本に戻した。


 流石に目線は合わせられない。シャーナもそこまで上手くないとはいえ、感情を読む訓練を受けている。


 内心を悟られたら、戦闘時の連携に支障が出る可能性がある。


 実際は恥ずかしいだけなのだが、ガーランはそれを認められるほど恋愛について経験を積んでおらず、仕事という都合のいい存在で自分の心を誤魔化した。


「そうですね、入りますか。先に寝ていて下さい」


 ガーランは奇妙なほどに自然な動きで立ち上がり、本をベッドの上に置く。


 シャーナはまっすぐ自分のベッドに向かい、それに潜り込んだ。


 すれ違いざま、シャンプーの甘い香りがガーランの鼻腔をくすぐる。


 刹那視界に映った深紅の瞳に、吸い込まれてしまいそうだ。


 でもそれは一瞬のことで、シャーナは毛布にくるまると、すぐ眠りに落ちた。


 野外でも一瞬で寝れるよう訓練を受けている戦闘員は、総じて寝付きがいい。


 ベッドなんて贅沢な物があれば、横たわった瞬間に寝れるだろう。


 ガーランは浴室のドアを開けて、服を脱ぐ。


 洗面台に取り付けられた鏡に、自分の体が映った。


 時として歩兵以上に過酷な任務を担う衛生兵だからか、彼の体つきはスポーツ選手にすら引けを取らないほど引き締まっている。


 シャーナは筋肉がある方が好きなのか、無い方が好きなのか。


 そんな事を考えかけて、ガーランはかぶりを振った。


「くだらないな」


 ガーランは手早くシャワーを浴びる。


 暖かい水が彫刻のような筋肉を滑り落ちて、排水口に流れていく。


 ガーランは丁寧に体を洗い、新しい服に袖を通す。汗の臭いが消えて、ガーランは久々にさっぱりした感覚を味わえた。


 タオルで首元を拭きながら風呂場を出ると、ベッドの上に、眠りについたはずのシャーナが座っていた。


 赤い瞳が、いつも以上に鋭い。だが、その奥に見える凍り付くような恐怖の光を、ガーランは見逃さなかった。


 風呂の温かさもすっと冷めて、ガーランは立ち止る。


「なあ、ガーラン」


「どうしたの?」


 ガーランは、戦々恐々としながらも聞き返す。


「お前は私に、家族の仇を討つため戦えと言ったな。覚えているか?」


『家族の仇を、打ちたいんじゃないの?』


 ガーランは、かつて自分がシャーナを鼓舞しようと言った言葉を、思い出した。


「だから、少しだけ昔話に付き合ってくれないか?」


 明日を生き延びられるかすら、もう分からないのだから。


 掠れるように続いた言葉を、ガーランは聞き逃さなかった。


「いいよ。たとえどんな結果になっても、明日には全てが終わるんだ。それがどんな結果になっても、君には悔いのないようにしてほしい」


 ガーランは自分のベッドに腰を下ろし、シャーナに向き合った。


「私の家族は、それといった特徴もない普通の家だった。父は普通の会社に勤めて普通に働き、私も弟も、何の変哲もない普通の学校で普通に勉学に励んでいた」


 彼女に弟がいるという情報は、ガーランも知っていた。


 シャーナの声色には、微かに懐かしむような響きがある。


「弟とも、たまに喧嘩をする程度で、深すぎもせず浅すぎもしない、普通の関係だった。本当に、ごく普通の生活を過ごしていたよ」


 普通。戦場に身を置いた者に、その価値を理解できない人間などいないだろう。


 話の最中、ガーランは相槌すら打たなかった。一度でも切ったら、彼女はもう話を続けられなくなるような、そんな気がしたからだ。


「あの日、私はスマートフォンでニュースを知った。ザルカ帝国が攻めてきたと。私の町は国境に近くて、本当はすぐに逃げなきゃいけなかった。でも、国防軍も国境警備隊も電子攻撃で機能不全に陥って、避難命令すら出せない状態だった」


 シャーナの赤い瞳が、見開いた。


「私は普段通りに授業を受けて、帰宅しようとした。だけど、巨大な爆撃機が轟音を鳴り響かせながら市街地に焼夷弾をばらまいて、辺りは一瞬にして炎に包まれた。発砲音も聞こえていたし、悲鳴も聞こえた。肉の焦げる臭いも。いつもの、何の変哲もない帰り道だったはずなのに」


 シャーナはまるで寒さをこらえるように震えだした。


「死体もあった。炎に巻かれた黒こげの死体が。私は恐怖に駆られて家へと走って、でも、やっぱり私には何もできなかった」


 シャーナの息が、浅く粗くなってきた。


「家には‥‥火が。燃えていた。全て。今でも、あの光景を夢に見るんだ。何度も何度も何度も何度も」


「もういい」


 ガーランは止めた。PTSD、心的外傷後ストレス障害を知らない衛生兵など存在しない。


 そして、その辛さを知らない衛生兵も。


 恐怖に正面から向き合うことは難しい。ガーランは、シャーナの目線を地獄から背けさせた。


「大丈夫だ」


 ガーランはシャーナのすぐ隣に座って、背中を優しくさすった。


「ずっと抑えてきたんだ。この恐怖を。全てをザルカ帝国への憎しみにすり替えて、理性を保とうとしてきた」


「それは間違っていない。逃げたいときに逃げるのも、また勇気だから」


 ガーランは、穏やかな口調でそう諭す。


「いや。もう駄目なんだ。私は純粋に憎むのには、この国を知りすぎてしまったし、それに、もうこの国は消えてなくなる。憎しみが消えた時、この恐怖に向き合えるほど、私は強くあれなかった」


 シャーナは、こらえるように嗚咽する。


「向き合えますよ。あなたは十分に強い」


 彼は、シャーナの瞳に含まれているのが憎悪だけではないことを知っていた。


 燃えるようなザルカ帝国への憎悪の中に、垣間見える優しさや真摯さに、ガーランは惚れたのだから。


 ガーランは、躊躇いながらもシャーナの耳元に唇を寄せる。


「好きです」


 シャーナが、驚いたようにガーランの顔を見た。


 予想もせずに溢れてしまったガーランの思いは、どこに着地するべきなのか分からず空中浮遊する。


「すみません。どうしても言っておきたくて」


 ガーランは内心を完全に読まれることを承知で顔を背け、そう言った。


「私のことを?」


 シャーナは、躊躇いがちにそう聞いた。


 シャーナの背中に置いた手のひらに、鼓動を感じる。


 それは、熱を帯びつつ速度を上げていた。


 湿った白いTシャツに、シャーナの鍛えられた背中が浮き出ている。


「はい」


 ガーランは、心臓が跳ね上がるのを感じながら、返事をした。


 両者とも、感情を隠すことは難なくできる。


 だが、相手に対して無意識のうちに心の隙を作っていたら、話は別だ。


 普段は燃え上がるほどの憎悪で心を固めているシャーナも、自身に寄り添って、多くのことを教えてくれたガーランには、無意識に心を許していた。


 ガーランは、シャーナを強く抱きしめる。鼻腔を、シャンプーの香りがくすぐる。


 シャーナは少し恥じらいながらガーランの耳に唇を寄せて、口を開いた。


 次の瞬間、炎に冷水を浴びせるが如く、ガーランのポケットでスマートフォンが鳴った。


 2人は、即座に固まる


 数秒間の沈黙を置いて、ガーランは慌ててシャーナから離れた。


「ごごごめん」


「あっ‥‥」


 シャーナは思わず、離れるガーランの袖を引っ張った。もどかしい時間が流れる。


 シャーナはゆっくりと手を離した。


 その真意を問いたい気持ちはあったが、電話を優先するしかない。


 ガーランは受信ボタンを押して、スマホを頬に当てた。


 熱を帯びた頬に、スマートフォンのディスプレイはひんやりと心地いい。


「もしもし」


「ああ、ちょうどいいところだったら悪かったガーラン。今すぐ駐車場に来てくれ。明日の朝にはもう首都を出れなくなる」


 ちょうどいいところだったら?ああ確かにちょうどいいところだった。


 ガーランはザルノフに文句を言いたくなったが、今が社員旅行中ではなく任務、つまり仕事中であるということを思い出して、やめた。


 むしろ、こんな時に愛の告白などしているガーランの方が悪い。


「分かりました」


 代わりに、丁寧に返事をして電話を切る。


「誰からだ?」


 シャーナはすでに事態を察したようで、白いTシャツの上からコートを着ている。


「ザルノフから、今すぐ来いだってさ」


 ガーランは、コートを羽織った。


「いくよ」


「なあ、ガーラン」


 ドアを開けたガーランの背中に、シャーナは声をかけた。


「何?」


 ガーランは、振り返らずにそう聞く。


「帰ったら、返事を言わせてくれ」


 緊張と恥じらいの混じったシャーナの綺麗な声に、ガーランは振り返りたくなるのをこらえた。


「分かった」


 ガーランは部屋を出て、その後ろからシャーナが続く。


 2人の姿は、夜の闇へと消えた。

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