第41話
宿の外観は、写真と変わらずかなりひどかった。
3階建ての石造りで、歴史を感じると言えば確かにそうなのかもしれないが、少なくとも進んで泊まりたいとは思えない。
「ここですね」
この付近は都市開発に取り残されたようで、このホテルのような、昔ながらの建築物が立ち並んでいる。
寂れているのが玉に瑕だが、観光目的ならばそれなりに楽しめそうだ。
シャーナは、明日にはこの国の全てを自分たちの手で破壊するにもかかわらず、そんな感想を抱いていた。
ガーランが木製の古びたドアを開けると、ドアベルの乾いた音が鳴る。
こんなホテルがWebサイトを運用していることに、シャーナは驚きを禁じ得ない。
小さな玄関ホールには擦り切れた絨毯が敷かれ、内装もかつての小洒落た雰囲気を窺わせる。古びた細い花瓶に挿された薔薇だけが、唯一新鮮だった。
「すみません」
ガーランは、カウンターの老人に声をかける。
老人はパソコンから顔を上げて、ガーランを見た。
古びたカウンターの上に置かれた2世代ほど前のパソコンは、かなり浮いている。それを気難しそうな老人が使っているのだから、なおさらだ。
「すみません。今満室なんです。予約の方ですか?」
老人の言葉に、ガーランは頷く。
「はい。302号室のサクリアです」
予約は、もちろん偽名だ。
「はいはい。これ鍵ね。ごゆっくりどうぞ」
老人は、古びた真鍮の鍵を木目の美しいオーク材のカウンターに滑らせた。
ガーランはそれを受け取って、狭い階段を登る。
シャーナは、その後ろに続いた。
一見すると平均的な体格をしているガーランだが、後ろから見ると、肩幅が広く全体的にがっちりしている。
格闘技には背筋が非常に重要だし、衛生兵であるガーランは訓練でも実戦でも、フル装備の重い人間を持ち上げることが多い。
普段は特に体格を感じさせないので、シャーナは少し意外に感じた。
2人は、そのまま三階の廊下を進む。
古びた赤絨毯と色落ちした橙色の壁紙は、よく合っている。
ガーランは、302号室のプレートが取り付けられたドアを開けた。
二台のベッドが設置された狭いベッドルームと机、バスルーム、トイレなど、ホテルの2人部屋として最低限の機能が備えられた部屋だった。
だが別に汚いと言うことは無く、むしろ几帳面なまでに清掃されている。
「ザルノフさんからいつ連絡が来てもいいように、交代で起きていましょう」
ガーランはそう提案した。シャーナはうなずきながらコートを脱ぐ。
戦闘服姿で町中を歩くのは目立ちすぎるので、彼らは私服に着替えている。
「シャーナさん。一応風呂ありますけど入りますか?」
ガーランが、そう聞いた。
「私はいい」
シャーナは断って、さっさと寝ようとする。相当疲れているのだろう。
「一応入った方がいいですよ。入れるときに入らないと、次がいつになるか分かりませんし、それに、疲れも取れますよ」
ガーランは入浴を勧めた。
最前線では、風呂に入れないことも少なくない。
入浴設備は後方支援部隊が運用しているが、最前線まで出てくることは少ないし、もし出てきても、一般兵卒までが使えるとは限らない。
「分かった。入っておく」
シャーナはベッドから起き上がり、浴室のドアを開けた。
浴室は3点ユニットバスになっていて、風呂、トイレ、洗面が一緒になっている。
シャーナはずっしりした木製のドアを閉めて、鍵をかけた。
手持ち無沙汰になったガーランは、荷物から文庫本を取り出してページをめくる。
風呂場からは、服を脱ぐ衣擦れの音が聞こえ、続いてシャワーの流れる音が天井を打つ雨のように響く。
部屋の壁は薄いらしく、音は思いのほかよく聞こえる。
ガーランはページを捲りながら、じゃんけんなどせず、サリアとシャーナに泊まらせるべきだったと後悔していた。
普段の先頭は男女関係なく活動しているので、あまり意識することは無いが、2人きりとなるとそうもいかないし、それが好きな人ならばなおさらだ。
「参ったな」
こういう時に何か聞くべきなのは誰だろう。
ザルノフ、サリアは論外。ライツは正直あまり頼りたくはない。
カヤは別任務で忙しいだろうから、特に気にせず普段通りに行動するべきか。
そもそも何を聞くべきなのか、あるいは何を聞きたいのか分からない。
何が分からないか分からないという致命的な状況に、質問は大して役に立たない。それは自身の脳の限界だ。
ガーランが思考を止めて読書に戻ろうとした時、ポケットのスマ―トフォンが鳴った。
誰からだろう。ガーランは本をベッドの上に置いて、スマホの画面を確認する。
カヤからだった。
何かトラブルでも発生したのか、あるいは任務の開始時刻が早まったのか。
「はい、ガーランです。どうかした?」
「今、シャーナといるんだって?」
カヤは、ガーランの語尾に覆いかぶさる勢いで、そう聞いてきた。
シャーナさんに要件があるのか。カヤは割とシャーナのことを気にかけていたので、任務前に先輩として伝えたいことでもあるのかも知れない。
ガーランはそう考えることにした。
「今風呂に入っています。多分、すぐに出ると思いますよ」
ガーランはそう答えた。
「好きな人の入浴中って、ドキドキしたりするの?」
「は?」
まずガーランが考えたのは、情報の流出経路だった。これは職業病と言うべきだろう。
本来であれば動揺してしどろもどろになるべき局面でも、脳が自動で冷静さを保ち、追及するべき点を見つけ出してしまう。
最も、これに関してはすぐに分かった。
「ライツから聞いたんか?」
「まあね」
カヤはあっさりと肯定した。確かにガーランは他人に言うなと念押しした訳では無いが、流石に口が軽すぎるのではないだろうか?
「とりあえず、さっきの質問の答えを教えてよ」
カヤは急かす。なぜそんなくだらないことが気になるのか、ガーランには理解できない。
「いや。そこまで気にはならないよ。拗らせているわけじゃありませんし」
ガーランは、嘘と真実を調合する天才的な薬剤師になったつもりで、平静を装いつつ慎重に答えを返す。特務機関入隊の面接以上に緊張しているかもしれないな。
そんな考えが頭をよぎった。
「まあ君の趣味に口出しする気はないけどさ、僕はいいと思うよ。アトラ連邦の刑法に触れない範囲だったら何の問題もない」
カヤがにやにや笑っているのが、目に浮かぶようだ。
「明日死ぬかもしれない時に、何言ってんだよ」
ガーランも流石に苛立ちを覚えて、そう言う。
「明日死ぬかもしれない状況で‥‥なんて例を挙げていけばきりがないよ。先の大戦時については少なからず証言も残っているしね」
もし目の前にカヤがいたら、とりあえず投げて黙らせただろう。
男だったら殴っていたかもしれない。
「1世紀前の話をするな」
「まあまあ、先人の知恵を借りるのはいいことだよ。とくに恋愛に関してはね」
ガーランはカヤが自分より年上だということを思い出した。
「時代遅れの錆びた知識が、どこまで役に立つのやら」
「役に立つなら、役に立てる気はあるんだね」
カヤは、笑い交じりに揚げ足を取る。
「言葉遊びがしたいだけだったら切るぞ?充電の無駄だ」
ガーランは、苛立ちを隠そうともしなくなった。
「いいよ。もう十分冷やかせたし」
内容が何であっても、こいつに質問するのは論外だな。前職は民間のデジタルエンジニアらしいが、随分と話をぼやかすのが上手い。
ガーランは、電話を切った。
仕方ない。いつも通り気にせず過ごそう。
表情を隠す訓練を受けているガーランにとって、それはそこまで難しくない。
ガーランは表情を消して、本に没頭するふりをした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます