第34話

 早朝の冷たい風が吹く運動場で、緑の作業服に着替えた民間人たちが腕立て伏せを行っている。


 これが新兵教育か、あるいは特殊部隊訓練の『ヘル・ウィーク』だったら、彼らの頭上からは怒声と冷水が浴びせられていたが、わざわざそんなことをするほど、特務機関は彼らのことを重要視していない。


 サリアたちも見ているだけで、サボっている人たちに注意することもしない。


 ざっと1時間ほどかけて運動を行わせたが、懸垂など含めて最後までちゃんとやっていたのは、せいぜい60〜70名程度だった。


 ほとんどの人は大した覚悟も決めずに来たのだろう。


 そんな中でも、シャーナの班は、それなりにやる気と能力がある生徒が多く配属されている。


 それはシャーナの教育能力を加味したというのもあるが、狙撃兵に要求される『最低限の能力』がかなり高いというのもある。


 その分は他の班が割を食っているが、衛生班はガーランが、歩兵班にはサリアがいるので大きな問題ない。


 そして、生徒たちを振り分けられた班ごとに分けて、教育が開始された。


 まず最も多い歩兵班は自動小銃射撃や対人格闘を中心に教育し、衛生班では負傷者の治療と射撃を教える。


 そしてシャーナの率いる狙撃班は、森の中で射撃訓練を行っていた。


 緑の作業服を着た民間人が50名、地面に伏せて狙撃銃を構えている。


 シャーナはその後ろで腕を組み、木に吊られた鉄製の的を睨んでいた。400mほど離れた場所にある的に向けて弾丸が飛んでいくが、命中率は悪く、4割程度。


 ほとんどが木や土を穿っている


 これをあと1週間程度で、最低でも回転式拳銃で武装した交番警官とは戦える練度にする必要がある。


 シャーナは、開始早々に頭が痛くなっていた。


 1000人の中から選び抜いた50名ということもあって、与えられた訓練に文句を言うものはいなかったが、射撃の成績は最悪だった。


 陸軍の予備役から一番射撃の下手な兵士を連れてきても、こいつらよりマシだろう。今回は、それを一週間で『狙撃手』にする必要がある。


 シャーナは射撃訓練を予定通りの時間で切り上げると、そのまま銃器整備の講習に移った。


 地面にブルーシートを敷き、その辺のホームセンターでも売っているような道具で部品の多い狙撃銃を分解して、猟銃用のガンオイルを塗る。


 民間人たちは、その様子をしっかりと目に収めていた。


 10代の活動家から60代を超えていそうな老人まで、年齢層は幅広い。


 平和主義者が銃を扱うことに矛盾を感じていないのか、それとも矛盾だと知った上で扱っているのか、なんにせよ頭の出来には不安しかないな。


 兵士は命令を解するだけの頭があれば十分だが、命令を下す人がそばにいない狙撃手はそうもいかない。


 頭が悪くては困るのだ。


 きちんと自分で考えて行動して、結果についてきちんと責任を取れない奴は、狙撃手としては全く使い物にならない。


 そして、この中の何人が狙撃手として使い物になる練度に仕上がるのか、シャーナには皆目見当もつかなかった。


「今日の午後は山岳地帯の行軍、失礼‥‥行進を行い、その後再び射撃訓練を行います。それと、しばらくは野外での宿泊とします」


 シャーナは平和主義者の逆鱗に触れないよう慎重に言葉を選びつつ、今日の日程を軽く説明した。


 民間人たちは、近くの木にまとめてあったバックパックを背負う。


 野戦糧食やテント、予備弾など必要な装備は全てそこに入れてある。一週間山にこもれるだけの装備だ。


 突貫工事である程度戦場に立てる人材を育てるためにシャーナが考えたのは、一週間ぶっ続けで訓練を行うという物だった。


 途中で歩兵の訓練にも参加するので、一週間ずっと狙撃の訓練だけをしているわけではないが、可能な限りは睡眠時間も削って訓練を行わさせる。


 どうせ彼らは全員死ぬことになるだろうが、やらないよりはマシだ。自分が雑に教育した結果として死者が出たら、流石に良心の呵責を感じざるを得ない。


 民間人たちは緊張と不満の入り混じった表情を浮かべて小さな返事をしたが、特に文句を言うこともなかった。


 というより、シャーナのまとう張り詰めた空気と鋭い表情が醸し出す雰囲気は、とても文句など許されるような感じではなかった。


 だが、その風格とは裏腹に、シャーナはそこまでの熱意をこの訓練に注いでいなかった。


 もし熱意を注いでいたのならば、声が小さいことや不満げな表情も一つ一つ指摘して、しっかりと怒鳴った後に腕立て伏せを命じている。


 厳しい指導で一番疲れるのは生徒ではなく教える側で、シャーナに求められているのは生徒を戦場で生き残る人材に育成することではなく、適当に戦える人材にすることだけだ。


 その程度しか期待されていない人材を育てる結果としてシャーナが心身をすり減らし、戦闘任務に支障をきたしては本末転倒。


 それについては、ガーランやザルノフから厳命されていた。


 シャーナは真面目な性格だが、誰も求めていない所で無意味な真面目さを発揮するほど要領は悪くない。


 そんなシャーナの心境など全く知らない生徒たちは、重たいバックパックを背負って山道を歩いて行く。


 兵士にとって最も重要なのは、下半身の持久力と上半身の瞬発力だ。特に下半身の持久力を養う手段として、登山はかなり有効だ。


 30分ほど歩いただけで、生徒たちは徐々に息を切らし始めた。対するシャーナは余裕の表情で、ペースもほとんど落としていない。


 この速度でこの地形なら、シャーナほどの練度があれば永遠に歩いていられる。


 それでも運動慣れしていない民間人が多い事を見越して、シャーナは一般的な新兵教育よりも多めに休憩を取っていたが、その判断は正解だったようだ。


 ほとんど道もない山道を進むのは、整備された登山道を歩くのとは訳が違う。


 作業服や靴など不整地を歩けるような装備は最低限支給しているが、それでも道具をそろえただけでは厳しい。


 ただ、登山慣れした人も何人かいて、彼らは比較的余裕を持っているようだった。


 最も、彼らが参加する戦闘のほとんどは市街地で行われるだろうから、こういった山岳での訓練がどれくらい意味があるのかは分からない。


 シャーナにできる事は、ただ命じられたことを与えられた環境で教えるだけだ。


 一行は、木々の傍らで休憩を取る。


「行軍の際には足に気を配った方がいい。インソールや靴下もそれなりに質の良い物を使わないと、ほんの20㎞歩いただけで足の皮は剥ける」


 シャーナは、軽くアドバイスをする。


 もしかしたら、ゲリラ攻撃を行って離脱するときに、ザルカ帝国軍の監視網から逃れるため徒歩で山地を突破する機会もあるかもしれない。


 この教育が無駄にならないことを祈ろう。


「ありがとうございます」


 シャーナのアドバイスに、生徒の数名が頭を下げて礼を言った。


 60代程度の老人が余裕の表情なのが少し意外だ。班の中で最高齢の彼はすぐに体力の限界を迎えるものと思っていたのだが、若い学生よりも元気がある。


 登山を趣味にしているようで、他の生徒に歩き方や呼吸の仕方などを話していた。


 全員、マナーはしっかりしているあたり非常識人ではないのだろう。だが、声が出ていないのと、ごく一部を除いては自分の頭で考えて行動していない。


 特に返事が小さいというのは問題だな。


 返事が無いと、情報が伝わっているのか分からないし、結果として情報の錯綜を招けば部隊の全滅もあり得る。


 流石にこれは指摘した方がいいかもな。シャーナはそう思ったが、やめた。


 一度丁寧に介入したら、今後も丁寧に介入していかないといけない。


 どうせこの中のほとんどは、いや、下手をすれば全員が死ぬんだから、無駄に感情移入したくない。


 流石に50人もの死を悼めるほど、シャーナの心は強くなかった。


 短い休憩を終えて、シャーナたちは再び行軍を開始する。


 草木が生い茂る道は歩きづらく、太陽に温められたぬるい空気が肺を満たす。


 しばらく時間が経ってから、シャーナは軍用時計を確認した。


 時刻は12時を少し過ぎた所で、さっきの休憩からだいぶ時間が経っている。後ろを見ると、全体的に疲れた顔をしている人が多い。


「昼食にします。準備してください」


 シャーナがそう言うと、何人かはあからさまにほっとした顔になった。


 坂の多い中から小さな平地を探し、そこを昼食の場所とする。


 実戦を想定して数名を警戒に立たせ、残りの人で料理を開始した。


 料理とは言っても、簡易加熱材を入れた袋に野戦糧食を詰めて水を注ぎ、20分ほど水蒸気で膨らむ緑の袋を眺めているだけの簡単な作業だ。


 完成した野戦糧食を、警戒任務を交代しながら食べる。


 保存料の匂いが強く、味も市販している保存食の方が遥かにマシだが、全員お腹が空いていたからか何も言わない。


 カロリーと栄養が十分に取れるだけで有難いのだろう。


 シャーナは袋にプラスチックのスプーンを入れて、豆と肉の煮込みを口に運ぶ。


 塩分が濃いが、汗をかいたばかりなのでちょうどいい。


 保存料の匂いさえ気にしなければ、そこまで不味いものではないとシャーナは思っている。少数意見ではあるが。


 シャーナはほんの3分程度で食事をかき込んで、警戒任務に就いている生徒を休憩に下がらせた。


 生徒の方は、食事にやや時間がかかっている。最も、軍人は素早く食べるよう指導されているので、この差は仕方無くもあるが。


 ざっと30分ほどかけて警戒を交代しながら食事と休息を終え、痕跡を残さないようにその場を整えると、彼らは再び歩き出した。


 シャーナは軍用時計を確認する。


 今のところは、概ね時間通りに進んでいる。


 今日は野宿するので進度はあまり関係ないが、あまりに遅延が酷いと明日以降の日程に差し支えが出るかもしれないので、これは歓迎するべきことだ。


 山岳機動の訓練をするのは狙撃班だけだが、狙撃兵は歩兵訓練も受ける必要があるので、山中で一泊したら、一度基地に帰還する予定になっている。


 まあ、そう予定通りにはいかないのが世の常なのだが。



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