生き字引

赤牟あかむ町立益子允秀ましこいんしゅう記念図書館、瀬良野せらの地区

三重県北牟婁郡赤牟町/日本国

平成33年10月21日  午前9時50分(日本標準時)


 朝風呂でのぼせた露木先生を、私と土屋さんでなんとか着替えさせ、9時ちょうどに旅館まで迎えに来た水城のレンタカーに乗せた。本音を言えば、後ろの荷台に放り込んでおきたいが、仮にも現役警察官を乗せているわけだからそうもいかない。


「チャイルドシートも借りておけばよかったか?」

 後部座席でダウンしている露木先生をバックミラーで見ながら、ドライバーの水城が言った。

「ギリギリ大きすぎるな」

 私もバックミラーをちらりと見、島の観光案内地図に目を戻す。

「で、これが図書館で合ってるのか? ずいぶん立派だが」

 水城がハンドルに顎を載せ、目の前のガラス張りの建物を値踏みする。田舎の施設にありがちな木に筆書きの看板ではなく、モダン――死語か?――な字体で『赤牟町立 益子允秀記念図書館・文化センター』の文字が掲げられている。建物の外装も、全体的に丸みを帯び、鋭角のない柔らかな印象だ。

「ここの建物で赤牟町の文化活動を一手に引き受けてる。図書館から郷土資料館、子ども向けの体験教室までなんでもござれだ」

「島中心部のコミュニティセンターは体育やレクリエーション向け、ってすみ分けか」

「そういうことだな」

「土屋さん、露木先生叩き起こしてくれ」

「うー、起きてるよ-……」

 鞄を枕にしていた露木先生がノソノソと身体を起こす。

「中でジュースかなんか買ってー……」

「しっかりしてくださいよ、有識者と会話が成立するの、民俗学やってらっしゃる露木先生だけなんですから」

「わかったよー土屋さん……」

 こんなグダグダでも、民俗学では第一著者として何本もの論文を出している著名な学者だというから、世の中はわからないものだ。


 建物2階の図書館フロアに入り、最初は我々の独力で郷土資料を探そうとしたのだが、本は先の地震で飛び出したのか、本棚には収められていなかった。代わりに、本は透明なケースに仕舞われて山積みになっており、探すのには苦労しそうな様子だった。

「休館になってないだけ御の字か……。司書さんに頼めば目録とかから探してくれないものかね」

 私は露木先生に尋ねる。

「んー、普通の民俗学なら分類番号からいって2つ先の棚のあたりなんだろうけど、この島独自のものとなると特設コーナーとか置いてるかもしれないねえ、聞いてみるか」


 露木先生が貸し出し受付カウンターをピョコピョコと覗き込むが、人の気配はうかがえないようだ。

「すみませーん! すみませー……ん? なんだこれ?」

 カウンターの上に、ラミネートされた1枚の札があった。

『ただいまフィールドワークのため外出中! ご用の方は館長室の梨子堂までお申し付けください 司書・鎌田』

 丸っこい手書き文字で書かれたそれを、土屋刑事が手に取る。ひっくり返して裏側を見ていたが、書かれている内容はそれだけだった。

「若い女性の司書さん……ですかね?」

「筆跡鑑定? それともプロファイリング?」

 現役刑事の判断に、露木先生が興味津々といった目を向ける。

「そんな大層なもんでもないですけどね。たぶん露木先生とはあんまり引き合わせないほうがいい気がします」

「あー、地味になんか失礼なこと言われた気がする」

「まあまあ。先生、下のロビーでジュース買ってあげるから」

「ミズさんまでー!」

「とりあえず、館長室は1階ロビー奥だから、いったん戻ろう」


「人のおごりで飲むスポドリは美味いねー!」

 すっかり元気を取り戻した露木先生は、既に鞄から例の謎の古文書書き写しと思しきコピーを取り出していた。それだけでなく、土屋さんも鞄からバインダーを取り出していた。

「あれ、土屋さん、それは?」

 私は訊ねてみた。

「遺留品のコピーです。事故原因との関連がよくわからないということで棚上げになっていたものです。もちろん原本は本庁にありますからご安心を」

「大丈夫? 悪徳刑事に片足突っ込んでない?」

 露木先生が心配そうな顔をする。放蕩ほうとう学者に心配されるとは気の毒である。

「まだ、なんとか」

 ジョークは警察学校では教わらないらしい。


 建物1階の奥まった場所にある『館長室』だけは、古びた厳めしい木製のドアを入り口に備えていた。呼び鈴を押す。返事はない。

「すみませーん!」

 再度呼び鈴を押しつつ、露木先生が声を張り上げる。またしても返事はない。

「こうなったら呼び鈴16連打してみようか」

 やめなさいって。

「恐れ入ります、館長さんはいらっしゃいますでしょうか」

 水城が再び呼び鈴を押し、ドアに向かって呼びかける。すると、控えめにドアが開いた。


「あんたら、図書館では静かにするもんだろう」

 見事な白髪にベレー帽を被り、黒縁メガネにチェーンを付けた、白ひげ背広姿の老紳士がそこにいた。

「失礼しました。我々、少しこの島の郷土史について調べたいことがございました。資料だけでは足りず、おそらく書庫にある古文書も当たりたいと考えておりまして」

 水城が見事な自衛隊式の礼法で頭を下げ、訪問の理由を簡潔に述べた。さすが現役幹部自衛官――左遷中――といったところか。

「つい最近の地震で本は飛び出したものの、郷土史は平積みとディスプレイがある特設コーナーがあったはずだ。司書には尋ねなかったのかい」

「それが、カウンターには『フィールドワークのため外出中』との札が――」

 水城がここまで言い終わるかといったところで、老紳士の顔が瞬間的に真っ赤になった。


「――あンのバカ孫娘が!」


 老紳士が建物じゅうに響き渡るほどの声で吼えた。

「蔵書整理もほったらかしでを観に行きおって! 先にやることやっておけと言うたはずだぞ! 好奇心だけでプラプラと出歩く癖をなんとかしろと何度――」

「失礼、こちらの話を続けてもよろしいでしょうか?」

 水城が至って冷静に話を戻す。老紳士も我に返った。

「――うンむ、不調法ですまんかった。で、おたくらは、何の用でこの図書館に?」

 ここで土屋さんが水城の前に出る。

「申し遅れました、土屋と申します」

 懐から警察手帳を取り出し、まるでハリウッド映画の主人公のような手つきでバッジと身分証を見せた。

「刑事さんかい。悪いが図書の貸し出し情報照会には応じんぞ、図書館の自由宣言にもあってな」

 老紳士が返す。土屋さんは曖昧に頷く。

「我々は、古文書の書き写しを少しばかり解読していただきたいのです。この島の関係者が持っていた品です。民俗学の有識者にも解読を依頼したのですが、この島に関係するということは判っても、細かい部分を理解するにはどうしても赤牟の文化に明るい方の協力が必要です」

「刑事さんが古文書……それは、事件に何か関係あるというのかい。あの……なんだ、とかいうやつ」

「ダイイングメッセージ」

「そうそう、それだ」

「捜査上の理由で、こちらの口からは申し上げられません。ただ、他の民俗学者の分析では、赤牟島がほぼ確実に関わっていると」

「民俗学者ねえ……」

 老紳士は我々の顔を舐めるように代わる代わる見ていたが、露木先生の前でその視線が止まった。

「……おい、まさか、そこにいるちっこいあんちゃん、『ズンドコベロンチョ』研究の露木先生か!?」

「あ、はい、露木総です」

「ズンドコベロンチョ――ここらへんじゃ『ドコチョ』と呼ぶのだが――あれに関する多角的視点での分析は見事だった。そんな先生でもわからん文書もんじょというのか」

「まあ、はい、そんな感じです」


 老紳士はしばらく顎ひげに手を置いて考え込んでいたが、意を決したように我々に向き直った。

「あい分かった。名乗るのが遅れて済まなんだ。この図書館の館長をしている、梨子堂といいます」

 館長は背広の内ポケットから名刺を取り出した。

『赤牟町立 益子允秀記念図書館 館長 梨子堂なしどう  賢三郎けんざぶろう

 名刺にはそう書かれていた。

「古文書の解読――例えば崩し字や島特有の固有名詞といったもの――に関してはわしも読めるが、島古来の習俗や伝承に関しては、恥ずかしながら司書の鎌田――先ほど言ってしまったが、うちの孫娘――のほうに分がある。済まないが、うちの孫娘捜索の遣いを頼みたい。その間、おたくらの持ち込み文書の下読みは済ませておく。この条件ではどうだろうか」

 我々は顔を見合わせたが、ドライバーの水城は頷いた。

「承りましょう。それで、鎌田さんは、どちらに?」

「おそらくだが、島南部の丘の周辺にいる。島の東の海上が見渡せる場所といったらそのあたりだろう」

「東の海にいったい何が?」

 土屋刑事が訊ねる。


「わしも詳しくは知らんが……大規模な演習をやっているらしい。と、で、だ」

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