小手返し一手
大幸寿司/赤牟漁港通り/三重県北牟婁郡赤牟町/日本国
平成33年10月20日 午後2時00分(日本標準時)
沈黙の中、大将の大きな目が、まばたきすることなく、我々を見回していた。
背後からも同じような気配がする。もし振り返ったならば、佐藤船長と呼ばれた男も、同じようにその大きな目で、我々を見つめていたことだろう。
大将はネタを左手に持ち、それに右手の酢飯を乗せたあと、左手を頭の高さに挙げた。その左手が“パアン”とも何とも形容しがたい音を立てて振り下ろされると、大将の手のひらにはイサキの寿司ができあがっていた。
我々は、まるで操り人形か不可視の力で動かされたかのごとく、カウンターに出されたその寿司を口に含み、咀嚼した。昆布締めにした少し固いイサキの身には、巧みに隠し包丁が入れられ、それに合わせてやはり固めに握られた酢飯は、最初のひと噛みで共にハラリとほぐれて口中に広がった。昆布と白身の旨味、醤油の塩味、酢飯の酢加減が混然一体となって躍り、喉を通り抜けていった。
まるで魔術にかけられたかのように、誰もが黙り込んだ。どれほどの間、そうしていただろうか。沈黙を破ったのは、佐藤船長がビール瓶を倒した音だった。
「――Amazing」
その音で我に返ったイヤハヤさんは、小声で感嘆した。
「すごい……美味しい……」
先ほどまで賑やかだった露木先生すら、思わず息をつくように声を漏らした。我々は感嘆のため息で精一杯だった。美味すぎるのだ。声も出ないほどに。
その様子を見た大将は、天を仰いで、ため息を漏らした。安堵したようだ。
「なあほら! 美味いだろ、あんちゃんたち!? ほら、コンちゃんの寿司はちゃんと美味いんだよ! 自信持てよ!」
後ろから佐藤船長の大声が聞こえた。
「外から来たあんちゃんたちが言ってるんだから間違いねえって!」
「……いやあ、ありがとうございます。私の代になってから、どうにも客の入りに自信が持てなかったんです」
入店したときの違和感の理由に気づいた。昼食時は過ぎているとはいえ、人の入りが少ない気がしていたのだ。
「本当に美味いですよ。細かな仕事がしてあって、大将の腕前の確かさがわかります。どちらで修行を?」
猪瀬が言った。
「高校を出てから親父――先代の親方から4年追い回しを仕込まれて、東京で7年です。こちらに戻ってきてからは親方と沼座の
大将は少し寂しげにうつむく。
「……10年前です。あの震災のすぐ後でした。事故で親方と兄さん、兄さんの奥さんが亡くなって、遺されたのは『だごん寿司』の店と、兄さんの一人息子でした」
背後でコトリとグラスを置く音がした。
「――もう10年か」
佐藤船長が話し始める。
「この島の南東にイワンズレ岬――岩が
「船長が気に病むことじゃないですよ、うちの親父が無理を言って、船長の船ひとつ沈めちまったわけですから。謝るのはこっちのほうです」
大将は悲しげな様子を隠せないまま、かすかに笑った。
「いきなり大将になっちまって、それに、かみさんはいたとはいえ兄さんの赤ちゃんを抱えて、途方にくれましたよ。せめて良いことがあるようにと、5年前に屋号を『だごん寿司』から『
「それは……大変なご苦労をなされて」
土屋さんがしんみりと言った。
「でもな、それで店を畳まなかったのがコンちゃんの偉いとこなんだぜ、あんちゃんたち。島の近海でとれる魚に江戸前の仕事を組み合わせただけじゃなく、昔は押し寿司くらいしかなかったインシュウマスを、養殖センターと一緒になって試行錯誤の末に握りに仕立てて新しい名物にしたんだ。絶対食った方いいぜ、インシュウマスの炙り握り」
佐藤船長はそう言うと、グラスの残りをあおった。
「炙りってことは、トロサーモンみたいな感じ?」
露木先生が興味深そうに聞く。
「養殖もので脂がのってはいますが、しつこくはなく、全体的にしっとりとした味わいです。炙りで香ばしさを足してみたところ、いいアクセントになったと思います」
イカに細工包丁を入れながら、大将が答えた。
「あの怪獣みたいな魚、そんなに美味しいんだ……」
「ええ、それはもう。――ああ、辛気くさい話が続いちまいましたね。次のネタ出します」
大将はまた手酢を付け直し、手をポンと叩いた。
「あ、お客さん、大将の握り方も見てってくださいね! すごく速いんですよ! 大将、『小手返し一手』今度はゆっくりめに見せてください」
カウンターの隅で話を聞いていた、若い店員が言った。
「さっきは速すぎて、『パン』と音がしたら寿司ができていたので、まばたきせずに見ますね」
私は笑いながら大将に言った。
「いやあ、たいしたことはしていないつもりなんですがね。親父――いや、前の親方と私はできるんですが、兄さんや修業先の職人にはできなかったみたいで」
大将は左手にイカをつかみ、右手で酢飯を取った。その酢飯を左手に移し、左腕を頭の高さに挙げる。
「じゃあ、いきますよ。アオリイカです」
大将は左腕を強烈な勢いで振り下ろす。“パァン”という奇妙な音が再び響くと、左の手のひらにはイカの握り寿司が出来上がっていた。
「ワオ……ファスト・アズ・ライトニング……」
イヤハヤさんが感嘆する。
「ね? すごいでしょ? 僕も見よう見まねでやろうとしてるんですけど、僕にはどうしてもできないんですよね」
若い店員が言う。
「お前はそれよりも本手返し五手でちゃんと握れるようになりな、寛太。他の仕事は丁寧なんだから、基本をおろそかにするんじゃない」
「すんません」
イカには鹿の子模様に飾り包丁が入れられていた。宝石細工のように、四角柱がピンと立っていた。
「ビューティフォー……!」
イヤハヤさんがまたも感嘆していた。
飾り包丁のおかげで、イカはサクサクと小気味よい食感で噛みきれ、切り口からはうまみが染み出てきた。
次のネタは例の炙りインシュウマスだった。皮目の香ばしさと身のしっとりした食感、仕上げに振りかけられた柑橘の酸味が渾然一体となっていた。
「――マーヴェラス!!」
イヤハヤさんは口を押さえて叫んだ。
ネタはしめサバ、煮タコ、サンマ、中トロ、鉄火巻きと続いた。どれも細やかな仕事のあとが見えた。
最後に大将はサービスですと言って、各々が気に入ったネタをもう一カン握ってくれた。イヤハヤさんは炙りインシュウマスをさっそくおかわりしていた。露木先生にはプリンが出された。
「赤牟にはしばらくいらっしゃるんですか?」
大将は訊ねてきた。
「ええ、いろいろ見て回りたいものがありまして」
猪瀬が答えた。
「寿司以外にも定食なども出していますので、どうぞごひいきに、またお願いします」
「それはもう、喜んで!」
口の端にプリンをつけて、露木先生が答えた。
「初めてのスシがこのお店でよかったです。――ところで、美しい白いスシと、赤い煮物のスシは、何のスシだったのですか?」
イヤハヤさんの質問に、露木先生以外の全員が顔を見合わせた。――
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