第38話 尻軽女の重い過去③

「…………そんなことがあったんだね」

網谷の過去を聞かされた後の僕は、複雑な心境のままどう反応していいのか分からず、曖昧な言葉を口にすることしかできなかった。


「そ。そっからアタシは、周りからマジメなイイ子ちゃんであるかのように見られることをやめた。遅刻は当たり前、授業態度もサイアク、服はどれも着崩して、いろんな男に肉体関係を迫った。……そしてアタシは、今みたいに周りから『ビッチ』と呼ばれるようになった」


「……網谷さんは、そう呼ばれることに何の抵抗も抱かなかったの?」

僕からの疑問に、網谷は拍子抜けしたようにキョトンとした顔をする。


「いいや、別に?早起きは億劫だし、授業はメンドイし、服は窮屈だし、ムラムラしたときには適当にセックスするのが一番だし。全部アタシがアタシに正直になったうえで選択したコトだから、そう呼ばれるのも妥当かなって」


そうだ。彼女は一度、自己を確立させる関係も環境も失ったのだ。周りからの「ビッチ」という蔑称も、失意に陥った彼女が真人間になることを唾棄し続けたうえでの一つの結果なのだ。


……しかし。


「詮索するような質問ばかりで申し訳ないけど……網谷さんの周りのいろんな環境が変わってからも、これまでと同じように頑張って結果を出して、周りから認められようと思い立ったことはある?」


「…………無かったといえば、ウソになるかな」


網谷さんはフと顔をそらし、遠い過去を掘り起こすように遠い目をする。


「家庭崩壊して両親というしがらみから解放されて、ある程度自由を享受できるようになったアタシは、もう一度勉強を頑張って、周りに認められてひときわ目立つ存在に成り上がろうかな、って淡い願望を抱いていた」

網谷さんはそこまで言い切り、ふぅと小さくため息をつく。


「…………けどそれも、長続きはしなかった」


「どうして?」


「アタシが小学六年生に進級したとき、中年の教員に無理やり襲われたんだよね」


「…………!」

網谷さんのあっけらかんとした態度とは裏腹の重い過去に、思わず息をのむ。


「体育倉庫に呼び出されて、ありもしないイチャモンつけられて。拘束されてブラはがされて、おっきかった胸をもまれて。アタシの処女が汚いおっさんに奪われる直前で、アタシの友達が駆けつけて事なきを得たんだけどね」


「…………それは、災難だったね」

僕の口からついて出たような浅い慰めの言葉は、少し震えていた。


「でもその事件が、アタシに大きな決断を与えてくれた」

「決断?」


「そ。『こんなしみったれた世界じゃ、何をどう頑張っても無駄だ』ってこと」


頬杖を突く網谷さんのまなざしは、達観と諦観が綯交ぜになったようなものだった。


「医者の父親は痴漢で捕まって、看護師の母親はオーバードーズで病院送りになって、教員のオヤジからは性暴力を受けそうになった。大人の汚い側面をいやというほど見てきたアタシは、それから周りの大人を信じられなくなった。……のと同時に、この世界とアタシ自身のこれからの未来に、一切の希望を抱かなくなった」

網谷さんはそこまで言い切り、スマホを取り出してポチポチと画面をタップする。


「これ見て」

「?」

網谷さんが差し出してきたスマホの画面を見ると、それはwebニュースサイトのページであった。


「『強盗未遂の男性 証拠不十分により不起訴処分』『現職警察官の男性 女児にわいせつな行為か』『無職の男 放火殺人の疑いで逮捕』……毎日毎日、くそみたいなニュースが嫌というほど流れてくる。……だからアタシは、清く真面目に生きることを放棄した」


「アタシが毎日必死に頑張って生きることで、アタシの生涯の安泰を約束してくれる保障は誰がしてくれるの?アタシが窮地に立たされて「助けて」って叫んだ時、誰かが駆けつけて保護してくれるの?……そんな担保、誰もしてくれるはずがない」


「だからアタシは、分りもしない未来に向かって無駄に努力するぐらいなら、今この時を楽しく生きようと胸に誓った。不慮の事故に遭ったときに『これまでの頑張りはすべて無駄だったんだ』なんて絶望するぐらいなら、『アタシの人生なんて、所詮こんなもんだよね』なんて具合に浅い絶望に浸ってたほうが、ずっと気は楽だと思わない?」


「たくちんがアタシとセックスしたがらないのは、マジメで純粋な宇田のことが気になってるからなんだよね?でもさ、仮にたくちんと宇田が、交際できたとして、ホントにその選択が間違いじゃなかった、って今後一切約束できる?意見が分かれて喧嘩しちゃって不仲になったか、互いの関係が退屈になったとか。……もしかしたら、どちらかがもう片方との関係に飽きちゃって、ほかの異性になびいちゃうとか」


「…………そんなこと!」


「ないって言える?現にたくちん、これまでに何回、アタシのおっぱいで欲情した?」


「ウッッッ!!?」

効果てきめんな発言を真に受けた僕は、言葉を詰まらせてしまう。


「別にそんなおっぱい星人なたくちんを軽蔑するわけじゃないけどさ。大体の人間なんて、薄っぺらくてしょうもないぐらいがちょうどいいと思うよ。何かに高望みして、誰かにひたむきになって、それまでの関係を後悔したり、自分がした選択を恨むぐらいなら、アタシはアタシで自己完結できる、軽薄で尻軽なビッチであるほうが、気が楽だと思うけどな」


「…………それは」


同じ図書館内にいながら、ここではないどこか遠い景色を眺めるように目を細める網谷さんに対し、僕は言葉を濁すことしかできなかった。








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