第37話 尻軽女の重い過去②
――アタシは、医者の父と看護師の母との間に生まれた、裕福な家庭の一人娘だった。
『偉いぞ、くらり。またテストで高い点数を取ったそうじゃないか』
『流石、私とお父さんの血を継いだ子供ね。あなたの母であることが本当に誇り高いわ』
共に高学歴である両親の間に生まれたアタシは、物心ついた時から勉学を強いられていた。小学校に入学する直前にはある程度の漢字を教えられて、英語のためのローマ字も一通り頭に詰め込まれた。
『字は人間性を表す鏡』なんて説教させられながら、座敷に正座したアタシは日を跨ぐまで書写の特訓をさせられたこともあった。
今思えば、親の教育はスパルタと言っていいほどに厳しかった。だけれど、その時のアタシは当時の状況を微塵も嫌がらなかったし、疑うこともなかった。
アタシが頑張れば、愛する両親は認めてくれる。
アタシが成果を出せば、愛する両親は褒めてくれる。
二人の間に生まれたアタシは、二人が望む姿で居続けるのが正解なんだって、そう思ってた。
親たちの教育もあってか、小学校に入学してからのアタシの学校生活は、順風満帆そのものだった。
『すごぉい、くらりちゃん。またテストで一位だったの?』
『確かくらりちゃん、お父さんがお医者さまなんだって!』
『私にも勉強教えて!』
勉強ができるアタシの周りには、いつだって同級生が群がってた。アタシを称賛する声、アタシを羨む眼差し、媚びて付け入るかのような黄色い声援。
今じゃ鳥肌が立つような薄っぺらい好意ですら、当時のアタシは真に受けて悦に浸っていた。
これが両親によって齎された、アタシにふさわしい幸福なのだと。
これこそがアタシの存在価値なのだと。
だけど、そんな時間も長くは続かなかった。
『くらり……なんだこの点数は?』
『こんな簡単なテストですら90点も取れないなんて、勉強が足りてないんじゃないの!!?』
小学三年生に上がったところで、アタシの成績は伸び悩んでいた。
一夜漬けで勉強をしてもテストの点数は90点間際を行ったり来たり。だんだんとハードになっていく学校の教育方針についていけなかったアタシは、順応し適格していく周りの同級生に縋るのがやっと。
目に見えて停滞するアタシの成績に、両親のアタシを見る目も露骨に変わっていった。点数が90点を超えてないテスト一教科ごとに一、二時間は説教を食らって、酷い時にはご飯も貰えないまま座敷で正座させられたっけ。
アタシに対する反応は家だけじゃなく、学校生活でも顕著だった。
アタシの成績が低くなるごとに、アタシを評価する周りの声は日に日に薄くなり、アタシは日ごとに陰に埋もれていった。
それが怖かった。
優れた成績を出さなければ、良い成果を見せなければ、アタシはアタシでいられなくなる。
四六時中胸を巣食うプレッシャーに打ちのめされたアタシは、好きだった勉強に臨むのが、いつしか嫌になっていた。やる気に漲っていた試験前の時間が、いつしか身震いするようになっていた。楽しみだった親へのテストの報告が、いつしか泣き出しそうになっていた。
アタシはいつしか、アタシがアタシでいられる正解が分からなくなっていた。
「…………それでもアタシが、学校と私生活の二重苦に耐えられたのは、ある趣味に嵌まったのが、功を奏したのかもね」
「…………趣味?」
彼女の身の上話を静聴していた僕は、彼女が紡ぐ二の句を待つ。
「ま、オナニーのコトなんだけど」
「へぇ、オナn…………ンッッ!!!?」
「小学二年生の時だったかな、親の書斎でけっこう踏み込んだ内容の保健体育の本を見つけて、そんなかの内容を物は試しでやってみたら、それが上手くハマッちゃってさ!そっからはもう、勉強の合間にオナ狂いの毎日ってワケ。多分、小学校の間でアタシだけ群を抜いておっぱいデカかったのも、それが原因だろーね」
「そ、そう…………」
けらけらと猥談を話す網谷に対し、若干距離を取りながら相槌を打つ。さっきまで周りを取り巻いていた重め空気が嘘のようだ。
「学業で伸び悩んでいたときも、テストでいい点数が取れなかった時も、親に叱られたときも。アタシはアタシを慰めて、嫌なことも苦しい事実も一緒に忘れて、また明日頑張ろうって思えた。……あんなコトが起こるまでは」
小学四年生に進学してからしばらくしたある日。
何の脈絡もナシに、アタシの家に警察がやってきた。用件は、父さんに対する逮捕状だった。
罪状は、駅の構内で見知らぬ女性に対して行った盗撮。そのことを警察官から聞かされた時、アタシは放心状態に陥っていた。
実の父親が、盗撮……?まだ子供だったアタシは、その事実を受け入れるのに時間がかかった。
アタシよりも問題なのが母親だった。父さんの罪状を聞かされてからは人が変わったように発狂しだして、仮釈放された父さんを尋問するかのような剣幕で問い詰めてたっけ。
父さんも自分がしでかしたことを否定せず、憔悴しきったように母さんの剣幕に充てられたまま、無言を貫いていた。
…………どちらもアタシのことを眼中に入れてなかったのは寂しかったし、そのくせどこかホッとしている自分がいた。
実の父親が盗撮の疑いで逮捕。そのニュースはアタシのいた学校にも知れ渡った。
『ねぇ聞いた?網谷さんの父親、盗撮で逮捕されたんだって』
『どういう性根をしてたらそんなことやってのけれるんだろ』
『網谷さんとは距離を置きましょう。犯罪者の子供と関わってたら何が起きるか分かりませんし』
父親の件でアタシの周りには人が寄り付かなくなった。あまりいなかった友達も、「関わったら排斥されそうだから」って理由でアタシから距離を置いた。
生徒に理解を示すはずの教員ですら、孤立したアタシの現状に手を差し伸べる人は居なかった。
結局、アタシは学校でも居場所を無くしてしまった。
父さんと同じ病院に務めていた母さんも、針の筵状態だったアタシと同じように看護の職場にはいられなくなり、母さんは父さんに離婚を突き付けた後、アタシとともに元居た家を離れた。
母子家庭となったアタシが新しく通うことになったのは、なんてことはない普通の学校だった。
こんなこと言っちゃ悪いけど、アタシが元居た勉強第一の学校よりも数段レベルが低かったから、新しい環境にはすぐに馴染めた。
問題なのが家の環境だった。
父さんが逮捕された一件があってから、母さんはすぐに癇癪を起すようになった。何か不都合があっただけで、すぐに喚いたり、物を投げつけたり。
再就職した職場から帰ってきたら、何も話さずにすぐに部屋に引きこもることもあったから、厳しかった門限は最早無くなったようなものだった。
そして、アタシが新しい生活環境に馴染み始めてから、しばらくたったある日。
学校から帰宅したアタシが見つけたのは、居間で倒れ伏した母親の姿だった。
傍には錠剤が散乱してて、うつ伏せになった母さんは白目をむいて泡を吹いていた。
アタシはすぐさま救急車を呼んだ。
母さんの症状は、精神安定剤を過剰に服用したことによるものだった。
父さんの一件でしばしば気が錯乱するようになった母さんは、精神安定剤を定期的に購入していた。しかし歯止めが利かなくなったのか、母さんは副作用も無視して薬に頼り切った。
育児が出来る状態で無くなった母さんは、しばらく病院で経過観察されることになった。
一人きりになったアタシは、学校の近くに住む遠い親戚の家に預けられることとなった。
この短期間で、多くのものを失った。
父親に母親。裕福だったはずの家庭環境に、順風満帆だったはずの学校生活。
血縁者同士の唯一無二のつながり、紡がれてきた絆。
磨き上げられた自尊心に、揺るぎようのなかった自己肯定感。
またしても新しくなったアタシ用の部屋で、虚無感に陥ったアタシはただ呆然とするしかなかった。
アタシはこれからどうすればいい?アタシは何をすることで、アタシの存在証明ができるのか。
色々なことが起こりすぎて頭の中も疲れ切っていたアタシは、何の脈絡もなくオナニーを始めていた。
おかしいよね。泣くよりも怒るよりも先に、無性にムラムラしてたんだもん。
考える事すら怠かったから。思うことすら癪だったから。
一切の思考を放棄したアタシは、ひたすらにアタシを慰め続けた。
そうして指がふやけるくらいにひたすら自分を慰めていたアタシは、ようやく冷めた思考で一つの結論に至った。
あぁ、今こうしているこの姿が、最も「アタシらしい」んだって。
優れた成果を出そうと、ひたすらに邁進するアタシは仮初。
誰かに認められようと、ひたすらに逼迫されるアタシは虚妄。
つまんないしがらみから解放され、ただひたすらに悦楽に耽る。この自堕落で怠惰なひと時こそが、アタシがずっと追い求めてたものなんだって。
そのことに気づいたアタシは、その日から何かに一生懸命になることを諦めた。
これからは、アタシが。アタシだけが。
―楽しいから。
―気持ちいいから。
―楽だから。
そのためだけに生きてやろうって、一人きりの部屋で決意したんだ。
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