第26話 からかい上手の網谷さん

 キ――ンコ――ンカ――ンコ――ン。

 英語の授業はあっという間に進み、一時限目の終業を知らせるチャイムが鳴り響く。


「ふむ。それでは、今日の授業はここまでとする。……それと、網谷」

 教科書をパタンと閉じた羽場教諭は、隣の席に座る網谷をキッと鋭く睨む。


「お前は前回のテスト返却の時に欠席していたな?用紙をこちらで保管してあるから、あとで取りに来るように」

「はーーい」

 羽場が向ける射殺すような眼光ですら、網谷はどこ吹く風といった感じで飄々といなす。

 僕が同じ立場だったら、身体を極限まで萎縮させ、思わずその場で失禁してしまうだろう……なんて胆力だ。

 怒気を纏っていた羽場も気が削がれたようで、フンと鼻を鳴らしてから退室する。


 羽場の気配が消え生徒だけが大人しく着席した二年A組の教室に、どっと緊張が解かれたような緩やかな空気が充満する。


「はぁあ、だる……用紙取りに行ってこよ」

 網谷は大きく伸びをしてから、教室を後にする。

 僕は彼女の後姿を見送った後、友達三人組のところへ合流する。


「再テストはどうだった?二人とも」

「四季ちゃんと不破っちに教えてもらったところがバッチリ出たぜ!マジ感謝」

「俺はそれに加えて、網谷のパイタッチによるブーストもかかっていたからな!今日のテストは100点採れてる自信があるぜ!!」

「キミのその煩悩は本当に救いようが無さそうだな……」

 礼を述べる粕田と目を輝かせる虎井、目頭を押さえ苦悩の表情を浮かべる不破。席が変われど、僕たち四人組の絡みに変化はなかった。


「それにしても、網谷の奴……なんかヘンだよな。朝早くに登校したのもそうだし、四季ちゃんの隣にわざわざ席を変更しに来たのも何か裏がありそうだぜ」

「網谷のオッパイ、マジで柔らかかった……あの感触だけで10回は容易くイケそうだぜ……」

「頼むからもう喋らないでくれないか?君と親友の契りを交わした過去が黒歴史になってしまいそうだ」

 網谷の挙動に対し考察をする粕田と、身体を気持ち悪くモジモジと動かす虎井。不破が向ける視線はもはや軽蔑に変わっていた。


「しかし、四季クンの隣に席を移動したのは、おそらく教えを乞うためであろう。隣の席に成績優秀な隣人がいるということは、勉学を志す者にとっては心強いだろうからね」

「「そうかなぁ……」」

 自信満々に決定づける不破の答えに、僕と粕田は未だ訝しげだ。


 先週まで素行の悪かった彼女が、ただ週を跨いだだけで改心するとは到底考えられない。

 僕が彼女からの誘いを断ったことにちなんで、何か裏で企んでいるのではないのだろうか……。


 この時の僕の不安は、数分後の未来に的中することとなる。


 やがて始業のチャイムが鳴り、二時限目の倫理に突入する。

 教室に入ってきたのは、倫理担当の茶井古ちゃいこ先生。低身長かつふくよかなボディが特徴的な、ほんわかおっとりとした女性教師だ。


「それでは皆さん、授業を始めますよ~。まずは前回の続きから、教科書の26Pを開いて下さ~い」

 挨拶を終えた後、茶井古先生は眠くなるようなスローペースの口調で授業を開始する。


 ……だが、ここで一つ異変が生じる。


「ちゃいちゃんセンセー、すみませーーん」


 隣の席の網谷が、パッと手をあげる。


「あら、どうしたの~~?」

 茶井古ちゃいこ先生とクラスメイトの視線が網谷に集まる。


「アタシ倫理の教科書忘れちゃったみたいデー、隣のたくち……四季クンに見せてもらってもいいですかーー♪」


「えっっ!!?」「ッ!!?」

 突然の網谷の提案に僕は驚きの声をあげ、クラスメイトの視線が僕と網谷の間を交錯する。視界の端に映る宇田が身じろぎをしたのは偶然だろうか。

 対して、教壇に立つ茶井古先生の反応は。


「いいですよ~。どうせなら席をくっつけちゃって下さ~~い」


「あざーーす♪」

「せ、先生!?」

 まさかの承諾、しかも席をくっつけるという上乗せまでしてきた。

 僕が戸惑う間もなく、上機嫌な網谷はノリノリで机をくっつけてくる。


「ヨロシクね、たくちん♡」

「…………ッッ!」


 網谷が教科書を忘れたのは事実であり、茶井古先生がそう提案してきたのも事実。僕の意志で無碍にすることなどできなかった。


「…………よ、よろしく」

「にひ♡」

 僕がおずおずと教科書を二つの机の間に置くと、彼女は可愛らしい笑みで答えてくれる。

 ほ、本当に教科書、忘れたんだよね……?


 それから倫理の授業は、何事もなく穏やかに進む。


 茶井古先生が喋るおっとりとしたボイスは一種の催眠効果があるようで、粕田と虎井コンビ、その他複数の生徒はうつらうつらと頭で舟を漕いでいる。

 茶井古先生も黒板のほうに向き合っていて、生徒側の集団催眠状態に気づいていないようだ。


 対して、僕の方はと言えば。


(ち、近ッ……顔ちかっっ………!!)


 超至近距離にある網谷の顔と身体によって、極度の緊張状態に陥っていた。


 ウェーブがかかったバニラ色の髪。端正に切り揃えられた眉毛。ぱっちりと開かれた二重のまぶたに乗っかる、松の葉のように長いまつげ。研磨された宝石のように、くりりと輝く瞳。赤みがかった頬に整った鼻。そして淡く煌めく瑞々しい唇。


 精緻なまでに整った網谷の美顔がすぐそこにあり、もはや眠気など微塵も介入させないほどにその隅々に魅入ってしまう。


 しかも、その美顔から視線を少し下にずらせば、彼女の豊満なKカップの爆乳がドドン!と鎮座しているではないか。


 白いYシャツの襟から覗く、Y字の谷間。彼女が身じろぎするたびにふよふよと形を変えるソレは、童貞の自分には余りにも目に毒な代物だ。


(だ、ダメだ……授業に集中、授業に集中……!!)


 ひたすらに深呼吸を繰り返し、平常心を保つ。


 彼女の魅力的な美顔や煽情的なバストに惑わされてはいけない……!今は授業中なんだ、集中集中………!!


 そう心の中で復唱し、改めて授業に臨もうとした、その時。



「…………たくちんの、えっち♡♡」


「ッッッ!!!!!」

 ガタンッッ!!


 網谷から超至近距離で囁かれた吐息に、僕は思わず取り乱してしまい机を大きく揺さぶってしまう。

 それはまた、教室全体に大きく響き渡り……。


「ふにゃっっ!!?」

 後ろの席でうたた寝をしていた、三川さんせん美紗みさが大きな声をあげる。


「あら~~?どうしたの、三川さん~~」

 黒板に向き合っていた茶井古はようやく教室側に向き直り、穏やかな顔で首を傾げる。


「にゃ、にゃはは……どうやら寝てしまってたみたいですにゃ」

「そうなの~~。授業の間はちゃんと起きてなきゃ駄目よ~~?」

 顔を赤らめながらポリポリと頭をかく三川に、超絶今更な説教をする茶井古先生(しかも怒っているかどうかすらも怪しい)。


 これを皮切りに、舟を漕いでいた生徒たちは徐々に正気を取り戻し、授業は活気を取り戻す。

 どうやら、今の大きな物音は僕から発せられたものだとは気づかれていないようだ。


 こちらに心配そうな視線を送る、教室の端の宇田以外には。


「…………」

「…………♪」

 元凶の網谷に問いただすような視線を送ると、彼女は知らんぷりをするように顔を黒板のほうに向ける。


 色々言いたいことは山ほどあるが、とりあえず今の授業が何事もなく進むことに、ひとまず安堵するのであった。






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